対象者:紅
紅には、小さな頃の記憶がない。
――いつからいつまでの記憶がないかもわからない。
だから、自分が何歳か…実は知らない。
…しかし彼女は、知りたいと思ったことがない。
記憶を取り戻したいと思ったこともない。
紅。
【彩】赤グループ所属の…紅。
その肩書きがあれば、十分だ。
彼女はそう、感じている。
+++++
紅は休暇に入ると、一度は黒に…そして白に、顔を見せにくる。
それは、初仕事の時からのクセのようなものだった。
「それでは、失礼します」
「また頑張ってくれよ」
「はい」
紅は部屋を出ていった。
黒はそんな様子をじっと見つめる。
――黒は同じ年頃の息子がいるせいか、ひどく紅が気にかかっていた。
…いや、紅の年頃というより…。
黒はゆっくりと瞳を閉じる。
黒は『瞳』が『紅』になったその日のことを、思い出していた。
「…コーヒーをお持ちしますか?」
ぎゅっと目を閉じて考え事をしていた黒に白が言う。
白は、黒の妻だ。
だが、秘書モードの時は完璧に黒を、この【彩】のトップとして扱う。
…一度妻モードになると黒をアゴで使ったりもするのだが。
「――ああ、もらおう」
白の言葉に黒は応じた。
「お持ちしました」
「…ありがとう」
一口口に含んで、飲み込んだ。
その後に、思わずでるため息。
「…社長」
「ん?」
「そんなにわたしの入れたコーヒーは美味しくありませんか?」
…それは、黒に本音を言わせるための白のちょっとしたイジワルだ。
黒は嘘をつけない人間だし、何と言っても白は黒の妻で、白は完璧に黒の好みを把握している。そうでなくとも白の実家は喫茶店だ。幾度となくいれてきた白のコーヒーが不味いわけがない。
「いいや、美味しいよ」
「…気にかかるのは紅のことですか?」
黒は白の言葉を最後まで聞くと、もう一度コーヒーを口に含んだ。飲み込む。
「…わかるか?」
「ええ」
にっこり。
「社長がため息をつかれるのは、お子さまに関することですか」
白は疑問とも独り言ともとれるようなつぶやきをもらす。
…その、社長の子供は白の息子でもあるのだが、あくまで秘書モード続行な白である。
「紅は、娘みたいなものだからな…」
ゆっくりとそう言いきる黒。
そんな黒の様子を、白は優しい眼差しで見つめる。
白は紅のことを知って聞かされていたから。
「…そうですね」
+++++
紅と初めて会った時、紅の手を引くものは紅を『花村眸』と紹介した。
紅の目があまりに黒いから、『眸』と名付けたと言っていた。
自分が名付け親なのだと胸を張って言った。
紅の手を引いていたのは…薔薇。
…花連のトップ3人のうちの、一人。
…それを知ったのは、彼自身からではなかったが。
黒と薔薇――彼は自らを花村新と名乗っていた────は、会って話したのは決して多かったとは言い難い。なぜなら会うことは、偶然に任せていたから。
けれど新は友人だった。少なくとも黒はそう、感じていた。
黒と新の出会いは一匹の子犬を助けるのに協力したことだ。
なぜかお互いがお互いを気に入って、名前を教えあった。
新と出会って…偶然に任せて、会う度に親しくなって。
――黒は、事故に遭遇した。交通事故だ。
…被害者は花村新だった。
…その時一緒に発見された少女が、花村眸だった。
+++++
それは、偶然だった。
雨の降る夜、黒が家に帰るために車を走らせていると、ベージュの車が止まっていた。
――その車は、前のガラスにたくさんのひびが入り、電柱に突っ込んでいた。
…事故が起きたのか?
時間が時間なだけに人気はなく、警察に連絡されているかどうか謎だった。
黒は急いで携帯電話をとりだし、電話をかける。
連絡がつくと黒は中の人を助けるために、窓を叩いた。
まず、意識があるかどうか。
…窓を叩こうと車の中を見て、黒は驚いた。
花村新に、似ていた。
…しかも。
新が庇うように抱いている少女が眸によく似ていた。
――まさか。
そう、思った。
すぅ、と黒の血の気が引いていく。
まるでタイミングをはかったかのように、少女がうごめく。
微かではあったが、少女の声が聞こえた。
「…新?」
黒はその言葉に衝撃を覚えた。やはり、という思いとなぜ、という思いがわき起こった。
新の反応は、なかった。
少女は呼びかけた。
「…薔薇…?」
薔薇…。
眸は『新』と呼ばなかった。
「――…っ?」
黒の中で、『花連』という組織の名が思い浮かんだ。
+++++
眸の怪我は検査のために1日入院という程度の軽いもので、検査がすむと黒は眸を引き取ることにした。
『薔薇』という呟きが『花連』に関係あるかどうかを確かめるため、催眠術で眸に、記憶言葉を語らせることにした。
「…私、は…」
眸は語りだす。
それは、黒の予想を違えず、花連に関係することだった。
+++++
『眸』
私の目があまりに黒いから、そう名付けたと薔薇は言っていた。
自分が名付け親なのだと、言っていた。
花村眸。
それが私の名。
――本名ではない。呼び名だ。
私は『花村養護園』にいた。
そこは理由あって家にいられないもの子供や、世の中で言う『捨て子』などを集めて保護する施設だ。
私は『捨て子』の部類…らしい。よく知らない。興味もない。
――そしてそれは、世間に見せる『仮の姿』というヤツだ。
そこでは、体術を仕込まれた。
それから銃を握らされた。
銃は安っぽい光り方をするオモチャだった。
しかし、改造してあって、結構な威力を発揮する物だ。
そこは『花連』。――そう呼ばれる集団の養成所…。
花連の者は、トップのバラの印を肌に彫る。印は小さなものだ。
それは私にもある。
『大丈夫か?』
薔薇は、私が彫られている時、そう言ってくれた。
…バラの印は全員の腕に彫ってある。
しかしトップの3人と次期トップ候補は心臓の真上くらいにバラの印を入れるのだ。
…私は成績のせいか、次期トップ候補として心臓の真上に蕾のようなバラの印が彫られた。
トップのバラと候補のバラは形が違う。
トップの…薔薇のバラは完全に咲いたバラ、候補の者のバラは小さく、蕾のようなバラだ。
…トップは、3人いる。
まずは『白』の、ローズ。
あの人は『白』というよりは『赤』なイメージだ。
見て分かるほどにいつも化粧がしてあった。
それでも変に見え思われないのは、元もとの顔立ちが派手なせいだろう。
栗色の明るいの髪をしている。
…女だ。
もう一人は『黄』のバラ。
私は見たこともあったこともない。
そして…『赤』の薔薇…。
強い人だ。優しくて。…自惚れでなければ私に一番優しくしてくれて。
私の大好きな人だ。
…薔薇も、そう言ってくれた。
薔薇は、殺しを何より苦手としていた。
血を嫌い、人の死を悲しむような人だ。
…そんな考えが、花連の中では異色だったのだろうか?
なぜか薔薇は言いがかりをつけられることが多かったように思える。
私は彼のために、強くなった。
…成績は、上から数えた方が早い程度の順位を持続させた。
薔薇のために。
薔薇がバカにされないように。
+++++
「…?」
そこまで淡々と語った眸の言葉が止まった。
「どうしたんだ?」
黒は言葉を紡ぐ。
「…続けさせますか?」
翡翠が言った。
「続けさせてくれ」
+++++
ほんの少し前のことだった。
『眸、一緒に花連をでないか』
薔薇が言った。
『それで…一緒に生きていってくれないか?』
私は頷いた。
何度も頷いた。
薔薇はもういいよと笑った。もうわかったよと、笑った。
…なのに…。
薔薇は…
『花連』を出たその日、衝撃があって、しばらく意識が途切れていた。
そして目覚めた時、ボーッとする頭で状況把握を試みた。
…そうだ。
急にハンドルがきかなくなったと、ブレーキをかけることもできない、と…そんな、薔薇の叫び…。
ふいに、気付く。私は抱かれていた。
「…え…?」
ドクンと心臓が、一際高く鳴った気がした。
「…新?」
目覚めない。
動いてくれない。
――なぜだろう。薔薇の体がひどく冷たい気がする。
胸騒ぎがした。
優しくて、誰よりも強くて。
私の師で、私の憧れで、私の…好きな人。
そして、薔薇も私を好きだと言ってくれた。
でも『恋人』なんて言えない。
『一緒に生きていってくれないか?』
薔薇の言葉が、私の中でこだまする。
まさか、だって。…まさか。
「…薔薇…?」
…薔薇は…
死んで………
私をおいて…逝って――
+++++
そこで、言葉が止まった。
「薔薇…薔薇…薔薇…っ!!!」
その名しか知らぬとばかり、『薔薇』と叫ぶ。
「「っ!! 黒、大変ッ!!!」」
「これは一体…?!」
「…自覚したんだわ…ッ」
翡翠のうちの一人は言った。
「…大切な人の死を、自覚したんだわ…ッ」
大切な人の死を――その重さを身に受けた者はどうなるんだろう…?
呼吸が止まり…暖かさを失った大切な人の重さを受けたこの少女は…。
「「…」」
翡翠は無言で、黒を見つめる。
…翡翠は、そして黒は、大切な人を失って壊れた人間を知っていた。
「やめてくれ…今すぐ、やめさせてくれ!」
黒が半ば叫んだと同時に、翡翠は語らせることをやめた。
+++++
催眠術で眸を語らせてから少しの時間が経った。
眸は目覚めた。
目覚めた時に眸は…死人のようになっていた。
そして黒は、1つの決断をした。
――眸の記憶を、全て無くしてしまおうと。
+++++
『『記憶を消せばいいの?』』
『…ああ』
『『…わかったわ』』
翡翠は請け負う。
眸の表情は…相変わらず、なかった。
悲しみも、喜びも、驚きも。…憎しみも。
…心が死んでしまったのだ。
黒は心の中で呟く。
(薔薇…いいや、新よ。君はこの子に生きて欲しいだろう?)
彼は『自分』が消されても大切な人には生きていって欲しいと願う…そんな人間に思えた。
(…この子が生きていくために…)
『翡翠。…頼んだぞ』
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そして全てを消し、『眸』を『瞳』と改め、普通の生活をさせた。
これからは『普通』に生きていけばいい、と体術などをやらせずに生活させたのに。
なのに。
…全てを消したはずなのに、黒のやっている【彩】を知ると、瞳は言ったのだ。
『私を働かせて下さい』
と。
『どこに配属してくれてもいいです。私に、仕事を与えて下さい』
と、そう言った。
『…私は、守る仕事をしたいのです』
そんな呟きは、黒の耳にととどいていた。
+++++
「わかった…」
「え?」
「あ、ああ、何でもない。…独り言だ」
そうですか。白はそう言うともう一度仕事を再開させた。
過去を知らないということはどんな恐怖ものだろう? 紅の記憶がないのは、黒の独断。
(私のせいなのだ…)
「…社長」
瞳を閉じて、紅を思っていた黒に、白は言葉をかけた。
「紅のこと、後悔しているのですか?」
記憶を消したことを。
「…どうして紅のことを考えているとわかった?」
「あなたのパートナーを一体どれだけやっていると思っているんですか? …多少のことなら、わかるつもりです」
黒は負けたとばかりに瞬きをする。
「…前に、ね。紅に訊いたことがあるんですよ」
白はゆっくりと言葉を紡いだ。黒は黙って、その言葉を聞く。
「幸せか、って」
「…」
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「紅」
「はい?」
黒はいなかった。
すぐに戻る、とは言っていたが。
「唐突だけど、あなたは今、幸せ?」
「…本当に唐突ですね」
「ごめんなさいね」
白は小さくフフッと笑う。…その様子は答えを期待していないようにも見える。
だが紅は言葉を返した。
「幸せの基準というのは難しいですね。…白、あなたから見て私は不幸に見えますか?」
…そう返されるとは思わなかった。
だけど。
「…いいえ」
白は答えた。その答えは、白の希望かもしれなかった。
だが、紅は微笑んだ。何か、満たされたように。
「そう、ならば私は不幸ではないんです」
紅は『自分は幸せだ』とは言わなかった。
「…白のいう不幸とは『記憶』がないということでしょう? 確かに私には、小さな頃の記憶というものがない」
だけど。
「だからといってどうして不幸なんでしょう? あなた方と会えた…。それは幸せだと思っています」
紅は『自分は不幸だ』とも言わなかった。
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「社長が悩むことは、何もないんですよ」
紅の記憶を消したことは、正しい。
「わたしは、そう思います」
そして沈黙が訪れる。
それは、穏やかな沈黙だった。