『らーんちゃん!』
彼の探している、彼女の声がした。
「ん…」
雨衣香の声が、聞こえた。
『雨衣…』
――雨衣香…。
――そう、彼は、彼女の名を呼ぼうとした…
「…――」
ふと、目が覚めた。
「んーっ!!」
布団の中で大きな伸びと、あくび。
「いよしっ」
呟いて起き上がる。
――それだけで頭と目が冴えるのだから、目覚めはかなりいいほうであろう。
「…ん?」
よし、と自分で言ったものの。
「…ここは、どこだ?」
藍は体を起こし、周りの様子を見てからそう、呟いた。
+++++
藍は頭をユラユラさせて辺りを見回した。
藍のベッドは藍のものではなく、藍の眠っていた部屋は藍の部屋ではなかった。
見覚えのあるものが、何一つとしてない。
「…あれ?」
よく、考える。
藍は別にどこかへ行った記憶などなかった。
「えぇと…」
いくら声に出してみても、やっぱり藍の記憶では久々の休暇だったため、自分の家の、自分の部屋の、自分のベッドで眠ったという記憶が一番新しいものだ。
「――…?」
ふと、違和感を感じた。
「あー、あー」
喉に手を当て、声を出す。
…心なしか、声が違う気がする。
言うなれば、自分のもの声ではないような…。
視線を手に落としてみた。
――フワリと何かが藍の肩を滑る。
「……?!」
藍の視界に落ちてきたのは柔らかな髪、だった。
フワフワとした、天然パーマっぽい…長い髪だった。
「へ?」
もう一度、辺りを見渡す。
――鏡台!
藍の眠っていた、藍の部屋ではない部屋には立派な鏡台があった。
藍はパタパタと鏡台に走り寄る。
…この部屋は、ずいぶんと広い部屋である。
藍は鏡を覗き見る。
「――誰?」
鏡の中の少女はそう、藍に問いかけた。
+++++
フワフワとした長い髪。
大きなパッチリとした瞳。
ふっくらとした、柔らかそうな唇。
…見覚えがあると思った。
「誰?」
藍はもう一度、言葉にする。
今朝の夢のことを思った。
(…まさか)
――想像していた彼女とは、違う。
長い髪。
あの日よりも可愛くなった…いや、ずっとずっと綺麗になった、彼女。
藍の想像していた彼女とは違う。けれど。
「…雨衣香?」
――彼女の名を、呼んだ。
途端に藍を襲う、眠気。
「…っ?」
いやだ。まだ。眠りたくない。
…眠りたくない!
なのに…。
「…う…い…か…」
藍はやっとのことでそれだけ言うと…。
深い、深い眠りについた。
+++++
『雨衣香!』
自分を呼ぶ声がする。振り返った。
『藍ちゃん…』
その姿を認め、その名を呼んだ…。
ガタンッ
「…?」
辺りを見渡す。
(ここは…? …鏡台?)
そう思った瞬間、彼女の部屋に1人の男が入ってきた。
「ウイカ!」
(いやだ、あたしったら。また、寝ぼけたのかしら?)
彼女はぱちぱちと瞬きながら鏡台に映った自分を見つめ返した。
起きた記憶などないのに、こんな所にいる。
「アルシードラ?」
――大丈夫か?
彼の言葉。……この世界の、言葉。
その声を聞いた瞬間に、彼女の中で夢のことは頭の隅のほうに追いやられてしまった。
「モリア。エルシードラ」
――おはよう。大丈夫だよ。
応じた彼女に男は「ほ」と安堵の吐息を漏らした。
そして男は……雨衣香を、抱きしめる。
雨衣香はその腕に、応えた。
「エルシードラ」
雨衣香はもう一度、言う。
彼が彼女を想うように、彼女も彼に想いをよせていた。
+++++
ピピピピピピピピピピピ
「――…」
藍は電子音に瞬きを繰り返した。
(…? あ、あれ…?)
藍はガバッと身を起こした。
視界に映るのは…紛れもなく自分の部屋で、自分のベッドで。
「――夢…?」
藍は、口の中だけで呟いた。
――こんなにもはっきりと、覚えているというのに。
髪の長い、少女の姿を。
…雨衣香の姿を、覚えているというのに。
綺麗になった、彼女を。
「雨衣香…?」
声を出す。
――届くのは、耳になじんだ、自分の声。
藍はぐしゃぐしゃと、髪を乱す。
「…雨衣香…」
藍のその呼びかけに、応じる者はなかった。