リーシャモドル

ソテリア

『黒は、闇の色』
 ――だから好きじゃない。

 そう言って後ろから抱きしめた自分の手に、彼女は手を重ねた。
『そうだな。…でも、闇が全て悪いわけじゃないだろう?』
 言葉と、温もりと。
『闇がなければ光を感じられないし…眠るときは、暗い方が眠りやすい』
 アゴル、と呼ぶ…彼女の声。 
『今、お前の目に私の『色』は何色に映る?』
 彼女は振り返った。
 深い森の緑の髪と…淡い、若草の緑の瞳のリーシャの問いかけ。
 光源らしい光源のない中…それでも闇に慣れた瞳に、リーシャが映る。

 アゴルにとって、至上の存在。
 アゴルにとって『一番』の、深い緑と淡い緑と。

『アゴル』

 ――ふいに、アゴルは目を覚ました。
 ゆるりと瞬いて、瞬いて…今までの会話が夢か? と思う。
(いや…)
 あの会話は、夢ではなかったはずだ。
 アゴルは確かに、リーシャとそんな会話をした。
 抱き寄せて、抱き締めて…逃がさないように――いなくならないように、腕の中に閉じ込めて…横になった。
 寝にくい、とか文句を言いながら…最終的には苦笑してリーシャは「おやすみ」と言った。
 その、はずだ。
 アゴルは身を起こす。
 …一人きりのベッド。
 月の細い夜に、光源らしいモノはない。

「……っ?」
 アゴルは部屋を見渡した。
 ――誰もいない。自分以外…いない。
 リーシャが、いない。

「リー…シャ…?」
 声にしたら、空気にその声は広がった。
 …拾われることのない呼びかけ。
 答えがない。

 心臓の鼓動が、耳の近くで響くような感覚がした。
 静かな部屋。…自分しかいない、部屋。
 ――アゴルの嫌いな闇の――『黒』の広がる、部屋。
 ハッ、ハッ、と短く吐く息が自分のものだと認識できないまま、アゴルの心臓はドクン、ドクンとうるさくなっていく。
 リーシャと共に、眠った。…そのはずだ。
 彼女の声も温もりも引き込んで、ベッドに横になった。
 苦笑しながらも、リーシャは「おやすみ」と…共に、横になった。

「――ゆ、め…?」
 闇に脅える子供のように――馬鹿みたいに声が震えた。
 アゴルは自身の髪を掴む。
 嫌いな、『黒』の色の髪。
 リーシャが認めてくれるまで…いとわしく思うばかりだった、

 夢かと思って、ぎゅっと髪を引っ張る。
 頭皮が引っ張られて、痛い。
 ――今は、夢ではない。

 では、どこからが夢だろう? いつからが、夢だろう?
 リーシャとの会話だろうか。リーシャがこの家にいたことだろうか。
 …まさか…リーシャ自身が、アゴルの幻像ゆめだったのだろうか。

忌み色フラジールなんてない』
 黒い髪と灰色の瞳のアゴルに、リーシャは言った。
『その髪も瞳も…お前自身』
 忌み色フラジールであるアゴルに…リーシャは言った。
『アゴルが好きだよ』
 ――あの言葉も温もりも…全部、アゴルの妄想が生んだ幻像ゆめなのだろうか。

 アゴルは痛いくらいに自身の髪を引っ張って、自身の心臓の音と巡る思考に気を取られていた。
 カタン、と音がしてドアが開くまで…気付かなかった。
「…あ」
 ――アゴルの耳に、声が届く。アゴルはバッと顔を上げた。
 ドアから覗く顔。滑り込み、静かに閉める。
「悪い。…起こしたか?」
「――……っ」
 次の瞬間、アゴルはベッドから跳ね起きた。
 問いかけたリーシャを引き寄せる。
「え?!」
 リーシャは驚きをそのまま声にした。
 アゴルはそんなリーシャを腕の中に閉じ込める。
「ア…アゴル? …なんだ?」
「………」
 言葉のないまま、アゴルはリーシャを抱き締めた。
 リーシャの体温を…声を、匂いを。
 五感で、リーシャを感じるために。
「ア…ゴル…。…あ…」
「――……」
 ――夢ではない。
 彼女は此処にいる。腕の中にいる。
 今は、夢ではない。リーシャは…。

「…苦しいぞっ!!」

 バッチーンッ!!
 ――リーシャは抱き締められつつ、どうにか引き抜いた両手でアゴルの頬を挟んだ。
「…ってぇ…」
 …挟んだというか、叩いた。
「――効くなぁ…」
 アゴルが思わず声を出してしまう程度に、痛い。

 ――今は、夢ではない。リーシャは此処にいる。

「お前が急に加減なく締めてくるからだろうっ?」
 リーシャは言いながら、緩んだアゴルの腕の中で顔を上げた。
 数度瞬いて、一度困ったような顔をする。
「…なんだ、泣くほど効いたか?」
「……え?」
 『なく』という言葉が『泣く』だと理解するのに、しばらくの時間が必要だった。
 垂れ目のアゴルが涙を流すと、垂れ目とあいまって、よりしおらしく見える。
 リーシャは先程アゴルの頬を叩いた手のひらでそっと、アゴルの頬に触れた。
 …柔らかく、優しく…包み込むように。
 アゴルの瞳から溢れた涙が、リーシャの手のひらに一筋触れた。
「悪かったな。…でも、アゴルが急に締めてくるからだぞ?」
 アゴルの涙は幻だったように、すぐに止まった。
 リーシャが今、此処に…現実に、アゴルの前にいてくれている。
 それがわかったからかもしれない。

「…リーシャがいないから」
 焦った、と今度はリーシャが苦しくないように加減して、アゴルは再び腕の力を強めた。
「あぁ、喉が渇いて…勝手に水をもらったぞ」
 リーシャの言葉に「ああ」とアゴルは頷く。
 今は頬から離れた一方の手をアゴルは取った。
 その手に…リーシャの手のひらに、口付けをする。

 ――此処にいて
 ――傍にいて
 ――いなくならないで

 恋とか愛とか…そんなキレイなモノではない気がした。
 リーシャに対する想いはまるで迷妄や執念とさえ言えそうなドロリとしたモノ。
 一応、自覚はある。――それでも。
(…離さない)
 ――離せない。
 一度触れてしまった温もり。知ってしまった優しさ。
 …手離せない。

『今、お前の目に私の『色』は何色に映る?』
 …眠る前、リーシャは言った。
『お前の髪も私の髪も、今は同じ『色』だろう?』
 アゴルの嫌いな色…闇は世界を『黒』に染める。
 光源らしい光源はなく…闇に慣れた瞳に映るのは明暗くらいで、色らしい色はわからない。
『『色』で、人を決める必要なんて、ないだろう?』
 リーシャはそう言った。――けれど。
 触れる温もりと、優しい言葉。
 闇の中…リーシャの髪も瞳も、アゴルの目には彼女のが映る気がする。

 手のひらに口付けたアゴルは、今度はリーシャの額に口付ける。
「…まだ、起きるには早い」
「ああ。暗いな」
 リーシャはアゴルの口付けを避けることなく受けて、頷いた。
「もう一寝入りしようか」
 アゴルはリーシャの返事を待たず、強制的にベッドに連れ込む。
 ボフン、とベッドが揺れた。
「…この腕はどうにかならないのか」
 リーシャは背後から腰を抱くアゴルの腕をペチペチと叩いた。
「リーシャがいなくなったら困るから」
 返事になってないような返事をして、アゴルは布団を被る。
 口付け以上を知らないリーシャ。まだ、教えていないアゴル。
 これからじわじわと進めていくつもりだ。…色々と。

 ――傍にいて
 ――いなくならないで

 リーシャの髪はアゴより少し長い程度で切りそろえられている。
 横になって露わになっているリーシャの首筋をアゴルは甘噛みした。
「…おい、くすぐったいって。食べる気か」
 こそばゆさに震えたリーシャにアゴルは少しばかり笑う。
 ――いづれ、食べるつもりだ。
「うん、今度」
 アゴルの『食べる』宣言に…意味のわかってないままリーシャは「そうか」と息を吐いた。
「まぁ、その時は応戦だが」
 リーシャが続けた言葉にアゴルは「マジか」とクスクス笑う。
「コワイなぁ」
 全く実感のこもっていない口調でアゴルが言うとリーシャは一つあくびをした。
「…おやすみ、リーシャ」
 アゴルが眠りに後押しをすると、リーシャは腰に絡められたアゴルの腕を放置して「おやすみ」と応じる。
 アゴルの目に映る、リーシャの髪。今は黒に見えるけれど、深緑の髪。

 ――傍にいて ――離さない
 ――いなくならないで ――逃がさない

 アゴルは瞳を閉じる。
 そこに広がる闇…『黒』ではなく、触れる温もりに意識を集中させた。

リーシャモドル

『ソテリア』
救い/傍にあると心落ち着くもの