「それじゃあ、お先に」
「おつかれー」
「バイバイ」
自分のやるべき仕事だけ終え、バイトに向かう本部会仲間…書記の牧村美海の声に、本部会長…高階樹は顔を上げた。
「ガンバッテネ」
「うん」
美海は樹にも笑って応じ、ヒラヒラと手を振った。
パタン、と閉まったドアを樹はぼんやりと眺める。
「…いーつーきー」
「どあっ!?」
気配無く近づいてきたもう一人の書記…矢口覚の呼びかけにぼんやりしていた樹はビビって声をあげる。胸元を押さえつつ「お前今気配なかったぞ!?」と喚いた。
「イトシイカノジョが気になるのはわかるが、周りにもちったぁ気をつかえ?」
「…はぁ?」
樹はまた、素っ頓狂な声を上げた。
イトシイカノジョ…愛しい彼女、と脳内変換が正しく出来ると目に見えてわかるほどに赤面する。
大まかノリがよく、飄々としている樹だが今年の二月からオツキアイを始めた…と、考えるとそろそろ半年になる…彼女のことに関しては、案外ウブだったりするようだ。
「顔赤いぞ?」
「うるせぇっ!!」
多分、自分自身で顔が赤いという自覚があるのだろう。
少々乱暴な口調に「落ち着け」と矢口は笑いながら樹の肩を叩いた。
同じ部屋で業務をこなしている会計二人組みが密かにクスクス笑う。
「…っつーか、実は訊きたかったんだけどさ」
「あ?」
樹は自らの頬をペチペチ叩きながら視線を会計の片割れ…狩野徹平に向けた。
「お前、美波と仲いいじゃん?」
「? ああ」
美波というのは、美海の双子の妹だ。
ちなみに一卵性で、髪型も二人してポニーテールにしているため見た目がそっくりで、樹と美海と違うクラスではあるが、樹と仲がいい。
「まっきーと付き合ってて…美波にはどーこー思わんの?」
美波と同じクラスである狩野の問い掛けに、樹は「思わん」と即行応じる。
あまりにもキッパリ言い切る樹に狩野はちょっとばかり瞬いた。
「美波と美海さんは全然違うよ」
「…あと」
まるで意見交換会のようにもう一人の会計…園美奈子は挙手をした。「発言をどうぞ」と言うように樹が視線を美奈子へと向ける。
「彼女が『美海さん』で友達が『美波』なのは、なんで?」
「……」
樹は沈黙した。
「あー、それはオレも気になってた」
「俺も俺も」
「なんでなんで?」
この場にいる本部会…先に帰った美海以外…全員に言われ、樹は我知らず、一歩下がる。
ふぅっと全員を見渡し、息を吐き出した。まるで覚悟を決めたかのように、ゆっくりと瞬く。
そして。
「…あ!! なんか呼ばれてる気がする!!」
「ナニにだよ!」
矢口の突っ込みに樹は応じず「んじゃ、行ってくる!!」と早々にその場を後にした。
「…逃げたな」
「逃げたね」
バタン、となかなかいい勢いで閉じたドアをそれぞれが見つめる。
「また次回だな」
「…ってか、アイツは今日やるべき分を終わらせてあるのか」
「知らん」
樹のいなくなった部屋でそんな会話が交わされる。
――つつくのはまた次回、と暗黙の了解が取り交わされた。
*****
(急になんなんだよあいつ等はぁ〜っ!!!)
樹は本部会室から出て、ひとまずトイレに向かった。
当然ながら、別にナニかに呼ばれたわけではないが、あの場にいるのは居たたまれない。
用を済ませて…すぐに戻ったところでまだ突っ込まれるか? と樹はちょっとばかり(無駄な)遠回りをすることにした。
去年までバスケ部だった樹は体育館の様子を見に行くことにする。
本部会の役員になると、不公平、不正などが行われないように部活メンバーを辞めることになっていた。
別に規則になっているわけではないが、ここ数年の通例に倣い、樹もバスケ部を辞めた。樹としては、辞めて正解だったと思う。本部会の役員というのは、肩書きばかりではなくなかなか忙しい。
両方に本気を出せる人もいるのだろうが、樹は二足のワラジは難しい…と自分の性格を見ていた。
「どーよ調子は」
「おぉ、樹!」
バスケ部部長、相模原翔が樹の呼びかけに応じる。
「ヒマだな? ヒマだろ? ちょっと付き合え」
「おい、決め付けるのか」
「今フラフラしてんならヒマ人ってこと、決定」
「……」
まぁ、今本部室に戻ったところで先程の話が続くような気もした。
ほとぼりを冷めるのをただ待つより、遊んで待ったほうが気が紛れるだろう。
樹は軽い準備運動をした。手首を回し、足首を回し、肩、首を回し、それぞれを伸ばす。
「じゃ、行くぞ」
「おぉ」
…突発的に、お遊び試合が始まった。
「…ナニしてんの?」
バッタリと倒れこんでいる相模原と樹の二人を覗きこみつつ、問い掛ける声。
声のほうへと視線を向けると…ポニーテールの女の子がいた。
「倒れてる」
「見ればわかるヨ」
相模原の答えにシュバッと切り返す…美海の双子の妹――美波だ。
放課後、気まぐれにバドミントンをやる同好会のようなものをやっている。
「っつーか樹。アンタ遊んでてダイジョブなの?」
「…ちょっと休憩中…」
「ま、どーでもイイケド」
訊いといてソレなのか。樹はそんなことを思いつつ、床の冷たさを実感するように瞳を閉じた。
『まっきーと付き合ってて…美波にはどーこー思わんの?』
先程の狩野の問い掛けが、樹の中で巡った。
美波は、友達だ。
バスケ部だった樹と、バドミントン同好会の美波と。どういうキッカケだったかは忘れたが、話すようになって…友人となって、今に至る。
「――…」
美海とは、クラス替え無しで一年から同じクラスだ。
美海を好きだな、と。
もっと知りたい、と…傍にいたい、と思うようになったのは。
――恋をした瞬間なんて、わからないけれど。
気になりだした…のは、きっと。
多分、あの時。
*****
「暑い…」
「言うな。余計に暑くなる」
「お前も言ってるじゃねぇか」
七月、最初の金曜日。
明日は休みだ。そこはいい。
が。
「なんでこの時期に球技大会…?」
七月上旬。初夏…といえば初夏になるのだろうか。
「しかもイイカンジに晴れてるし…」
樹はボソリと呟いた。
すでに温くなってしまっているペットボトルの水をゴクリと飲み込む。
「イイカンジってか、晴れ過ぎだよな」
樹の呟きにクラスメイトで同じ競技…ソフトテニスでペアを組む黒川一成はタオルを頭に被ったままぐったりと応じる。
眩しすぎる太陽。雲の少ない、空。
暑い。風がない。日陰もない。
球技大会、ということで応援に来る場合もあるのだが…直射日光と照り返しの激しいテニスコートには、クラスメイトの応援も少ない。
「…日射病になるよ」
「んぁ?」
暑さでボヤけた頭で、樹は妙な声で応じる。
樹と黒川が振り返れば、クラスメイトの女の子…美海が立っていた。
「…アレ? …牧村サン?」
ペットボトルにオレンジ色と黄緑色のチェックのタオルをグルグル巻きにしたものを持って、頭から首にかけて大き目のタオルを被っている。暑そうに見えるが、どうなんだろう。
「牧村さん、テニスだったっけ?」
「ううん、あたしはバドミントン」
体育館内の競技に参加するはずの美海が何故ここに。
そんな思いが樹の表情に表れたのか、美海は「一応保健委員の見回り」と腕のタグを示した。
「あー…保健委員ってそんなことすんの?」
「そんなことするの」
黒川の問い掛けに美海は応じる。
樹はぼんやりと二人の様子を眺めた。
…眺めて、いた…。
「? 高階くん?」
「樹?」
――声が、遠い。
視界が、暗い。…雲が出てきたのか…。
二人が何か言っている…とは、思う。
よく聞こえない。
暑い。
…暗い。
ついさっきまで、眩しかったように思うのに。
バサリと樹の上に何かが乗った。
…ひやりとした、何か。
「高階くん?」
――視界が開けた。
…音が聞こえる。
自分を呼びかける、美海の声。
「…」
…真っ直ぐに、自分を見る…美海。その瞳。
「――ぬを!?」
「なんだ「ぬぉ」って!!」
妙な声を上げた樹に黒川は突っ込んだ。
樹は何度も瞬き、僅かに頭を振る。ひやりと頬に、冷たいものが触れた。
「…?」
「お前…大丈夫か?」
黒川の問い掛けに…美海の言葉のない自分を案じるような視線に、瞬きを繰り返す。樹は自分の頬に触れたモノを掴んだ。
…それはオレンジ色と黄緑色のチェックの、タオル。
というか、それが巻きついたペットボトル。
何故か冷たい。
「…? コレ…?」
美海が、樹の頬に美海のペットボトルを押し当てたらしかった。
「試合終わったみてぇだけど、どうする? …大丈夫か?」
「あ…あぁ、出る…」
バサリと樹の頭に被せられたのは、美海が被っていたタオル。
被ったままぶるぶると頭を振る。
「これ…」
樹がいつの間に頭に乗っていたらしいタオルを美海へ示す。
持ったままの冷たいペットボトルを美海へと差し出した。
美海はそのペットボトルからオレンジ色と黄緑色のチェックのタオルを外す。
「高階くん、コレちょっとは冷たいと思うから、…しばらく、首に巻いとけばいいかも」
…どうも、ペットボトルの中身は凍っていたらしい。瞬きながらそんな様子を瞳に映す。
「…え?」
「聞けよ、ヒトのハナシ」
美海に聞き返した樹に、黒川はまた突っ込んだ。
美海は聞き返されたことに別段気を悪くしたような様子もなく、同じ言葉を繰り返す。
「首冷やすと、体がちょっとは冷えるから」
試合に出るなら、と美海は言った。
「頑張れ」
ひんやりと冷たいタオルと…それを貸してくれた美海の言葉と、優しさと。
「黒川くんも、倒れないようにね」
「おぉ」
二人の様子をぼんやり見る。
美海が、樹へ再び視線を戻した。
「これ…ありがと」
頭に被っていたタオルを美海へと差し出した。
「どういたしまして」
少しだけ、美海が笑う。
美海の言葉に甘えて、少し冷えたタオルを首に巻いたまま試合に臨んだ。
――その効果だったのかはわからない。だが、樹と黒川のペアは勝利した。
太陽の下――タオルを被っていた美海は、ずっと。
二人の試合を、見ていた。
「お疲れさま」
「…タオル…」
首に巻いたままだったタオルを示して、樹は言葉を切り出す。
「洗って返すね」
「了解」
美海は頷いて、少し考えるような顔を見せて…バサリ、と自分の被っていたタオルを樹へと被せた。「え」と思わず声をあげた樹に美海は少しだけ、笑う。
「これも、洗ってきて」
冗談めかした口調。
…でも、直射日光が当たらないように、と貸すタオル。
「じゃ…交代みたいだから」
美海と同じようなタグを付けた女の子に視線を向け、美海が歩き出す。
何か言葉を交わし、美海は二人へと手を振った。
*****
恋をした瞬間なんて、わからないけれど。
気になりだした…のは、きっと。
多分、あの時。
球技大会が終わって…二つのタオルを返して。
それでも…なんとなく、見てしまっていた。
クラスメイト以上の会話をしたことはなく、することもなく。
――それでも。
どこからか、好意が恋に変わる。
球技大会の時にはもう、美波は友達だった。
だからこそ…当然なのかもしれないが…美波とは『違う』美海が、気になったのかもしれない。
――樹の思う美波は、ヒトにタオルを貸したりなどしない。
「樹」
呼びかけにゆるゆると目を開いた。
…呼びかけたのは、美波。
「CD忘れた。ゴメン」
「…ん」
身を起こした樹に、美波がボソリと呟く。
「美海ちゃんが聞きたいってサ」
「…え!」
樹の反応に、にったぁ、となんとも言い難い笑いを浮かべる美波。
…美海がこんな笑みを見せたことはない。
見た目は…一卵性の双子なのだし…確かに似ているかもしれないが、全然違う。絶対違う! と樹は思う。
「美海ちゃんアンタにそんなこと言ったことないデショ」
確かに無くて、思わず黙り込む樹に美波は得意気に続けた。
「まだまだダネ」
「……」
――双子の姉、美海がダイスキな美波は時々こうやって樹をからかう。
「…うるせぇ」
そう言いながらも…樹の口元に浮かんだのは、笑みだった。