あの頃は信じるに足りるものは何もなく。
ただ、――生きていた。
「――テワンマ!」
女の、高い声が後ろから聞こえた。
一日に一度は、これだ。
「…何でしょうか?」
振り返れば、女がいる。
細い手首、白い肌、髪はまとめ上げられ、首筋があらわになっている。
女の着る服は上質の布に上質の糸、描かれた模様は有名職人の手によって施された、物。
香水の、甘い香り。
――吐き気が、する。
「なんでしょうか、じゃありません!」
ヒステリックな女。
声が、頭に突き刺さる。――そんな感覚が、する。
頭が痛い。
自然と、顔が歪む。
自分で分かるのだ。むこう女から見れば苦虫を噛みつぶしたような表情をしているだろう。…絶対に。
「なんですか! その格好は!!!」
紅をひいて故意に赤くした唇がそう、言葉を発する。
「…動きやすくしただけですが?」
動くのに、無駄に装飾の施された袖が邪魔だった。
だから、袖自体を外した。ただ、それだけのこと。
「…っ、御父様が、嘆かれますよ」
別に、構わない。
「そうですか」
あたしは再び、女に背を向けた。
吐き出されるのは、深い深いため息。
あの女を見ていつもいつも思う。
磨くならば外見だけではなく、中身を磨けばいいのに、と。
あたしはテワンマ。
住んでいる家はガジュラン家。
家にいるのは女があたしを含め十人と、男が八人。
全てが全て、『血』のつながりがあるわけではない。
『血』のつながりがある…らしいのは、四人のみだ。
その『血』のつながりを、人は、家族と呼ぶのだろう。
…だが。
あたしは、次期当主の座があるからと何もしない男も。
外務ばかりで家の様子を一向に省みない男も。
ただ、外見だけを磨き、人にソレを押しつけようとする女も。
人の言う『家族』とは、思えない。
それから…。
あたしはあいつらが、大嫌いだ。
「テワンマ!」
玄関へ足を進めたあたしに、女は声をかけた。
「何か?」
どうせ、また。
「まさかその格好で出かけるというの?」
…やっぱり。何度目だろう、この問いは。
「はい」
袖のない、朱色の服。この間下町で自分で買ったズボン。それから、サンダル。
「…っ、何度言ったらわかるのです?!」
それは、こっちの台詞だ。
「御父様に言いつけますよ、いいのですか?!」
別に、構わない。
――さっきも思ったことだ。
そんなことを思った。
それからまだ言葉を続けてあたしを引き止めようとする女に、ゆっくりと手を挙げた。
「ひ、ひぃぃっ!」
妙な声を発し、女は自分の顔を、両手で覆う。
――バカみたい。
あんたじゃない。そう何度もやったりするものか。
あたしは女を放っておいて、外に向かって歩き出した。