夏休み一日目。――午前七時。
「ん…」
どこからか、光を感じる。
そういえばいつも鳴る音が、無い。だからなのか、こんなに布団の感触を楽しめられるのは。
擢真はまだ重い瞼をゆっくりと開こうと努力する。
(まー、いっかぁ…)
そう思って、努力を放棄しようとした瞬間。
「たくまーっ!! 起きなさーいっ!!」
ドアの向こうから声が聞こえる。決して無視をしようとしたわけではなかったが、擢真は返事をしない。
……
「やべっ! 朝飯ッ!!」
そう独り言を呟くと擢真は飛び起きた。
擢真はパパッと着替えると自分の部屋のカーテン…擢真の部屋の窓は一つ…を開けた。
光が目に刺さるようで痛い。何度か瞬きをしてから大きくのびをすると、空の様子をチェックした。今日も快晴。暑くなりそうである。
「はよっ!」
顔を洗うと居間に向かった。
擢真の父と母は朝御飯を食べ始めている。
少し長方形の机の縦、横にそれぞれが座っている。ちなみに擢真の席の正面に母、右側に父という状態になる。
「おはよう」
先にも述べたが、片桐家のモットーに『美味しいものは美味しいうちに食べる』ということがあり、それは夕食だけではなく朝食、昼食でも言えることだったりした。
まあ、昼食は休日でもない限り家族三人がきちんと揃うなんてコトはかなり少ないが。…それはさておき。
「残念だなぁ。擢真があと五分遅く起きてきたら、この目玉焼き食おうと思ったのに」
そう言ったのは身長百七十五センチで擢真より心持ち大きい父、匠である。
それぞれの前に一皿ずつある目玉焼き。ミニトマトの赤、レタスの緑、そして黄身の黄色という彩りが鮮やかだ。
「卵の取り過ぎはよくないんだってよ」
取られてたまるものか、と席に着きながら擢真は言う。
「ほお、そうなのか」
匠は心底驚いたような顔つきをしていたが、本当に驚いているかは分からない。
匠は俗に言う『親馬鹿』というやつで、既に高校二年生の息子に対しても些細なことで「すごいなぁ」と言うような人なのだ。
「擢真、パン焼く?」
「あ、うん」
母に言われて気づいた。主食がない。
「二枚でいいかしら?」
「うん。ありがとう」
そう言って傍らにある牛乳に手をのばす。…牛乳を注いだ後に百パーセントオレンジジュースを発見。
ヨーグルトにしてもフルーツ入りが好きで、基本的に果物が好きな擢真は密かに牛乳をちゃっちゃと注いだことを悔やんだのであった。
昨日は結局、部活のある日は七月三十一日、八月二十三日の二日間のみだという連絡を受けた。
…紅深は童顔でも三年生。受験の準備もあるようで『そう何度も活動できない』という現実もあるらしかった。
朝食を済ませた後、擢真は部屋にあるカレンダーを睨む。
どんなに見つめていても、たとえ眼力で穴が開いたとしても「今日」という一日一日が終わらなければ三十一日にはならないのだが。
(…遠いなぁ)
擢真は小さく息を吐き出した。
七時四十五分頃に家を出ればいいという、十五分程度の時間で到着できる割合ナイスな環境に職場のある匠は擢真の様子に瞬く。
(カレンダーと睨めっこしてため息…。好きな子でもできたか?)
匠はそんなことを思った。
――親馬鹿は親馬鹿なりにスルドイのかもしれない。
真子が居間から出ていくと匠はいそいそと息子の傍に行った。
「どうした? カレンダーを見てても、目的の日にはならないぞ」
匠の呟きに擢真はびっくーんっ!! と見るからに動揺する。
「え? あ…。お?」
(…日本語になってないぞ、擢真)
匠はひっそりとそんなことを思う。
「しっかり心情読みとられました!」と言わんばかりにどんどんと擢真の頬は赤くなった。そんな様子を(絶対に口に出したりはしないが)匠は「素直でかわいいなぁ」なんて思いつつ、言葉を続けた。
「その日を待つよりも行動した方がいいんじゃないか? 空回りでも、何にもやらないよりはずっといいと思うぞ」
そう言うと匠はニッと笑った。
「健闘を祈る」
そう言うと匠も居間を出ていく。職場に行く前の最終チェックをするためだ。
…パタン。
静かに閉められたドアを見つめながら擢真は言った。
「健闘…ねぇ」
ハハ。擢真は渇いた笑いを洩らした。
はぁ、と息を吐き出して、カレンダーを見る。
――だからって、何をすればいいだろうか?
(…ってか、ドコまでわかったんだ、親父…)
擢真はナニも言ってない。
ただ、カレンダーを見ていただけだというのに『健闘を祈る』と言った匠。
ぐしゃぐしゃと自らの髪を乱す擢真の頭に父の言葉が巡った。
『行動した方がいいんじゃないか? 空回りでも何もやらないよりはずっといい』
(行動、ねぇ)
――幸せな時間を思い出した。
紅深を家に送ったときのことだ。
自分は紅深の家の場所を知っている。だからって用もないのに家の傍をうろついていたら変質者扱いされるだろうが…。
「あ」
擢真は小さく声をあげた。
「たかがそれだけか?」という本当に些細なことに気づいたのだが、擢真からしてみれば大発見に思えたのだ。
(ずっと、うろつかなきゃいいのか)
そう、紅深が出てくるのをジッと待っていたりせずに通りかかればいいのだ。
「あ゛」
そしてもう一つ気づいた。
(口実がねぇよ…)
擢真の家から考えて、紅深の家は響の家よりさらに遠い。「榊原の家に行った帰り」なんて言い訳ができない。
「……はーあ」
思わずついたため息。瞳を閉じ、色々と想像してみる。
「擢真ぁ」
それを妨害してきたのは、真子だ。
「んあ?」
ニコニコとしている。
…この笑顔は、何かを企んでいるときの――または、何か頼み事をしようとするときの――笑顔だ。
「母さんさ、『パレコ』でパートしてるじゃない?」
『パレコ』とはスーパーのことだ。服、薬局、食料品はもちろんペット商品、本などがある。
「…だな」
あまり行ったことはないが。本屋に行くにしても、学校から家に行くのに回り道した方がきちんと揃っているところがあるし、服だって安いけど擢真好みの物はない…であろう。きっと。じっくり見たことがないから判断できない。
「でね、擢真用の昼ご飯、母さんぜーんぜん考えてなかったのよ」
「と、いうと?」
何を言いたいのかわからない。
「ご飯も今朝終わっちゃったし、ご飯は炊きたてが美味しいじゃない?」
ちなみに擢真の家ではカップラーメンというものはあまりおいていない。
「だから悪いけど、昼ご飯は自分でどーにかしてね」
「…へーい」
とは言ったものの。
去年の夏休みは母親が昼ご飯を作ってくれていた。
パートを始めたのは今年の四月からだ。
毎日外食? 擢真のお財布はそんなことができるほどゴージャスな中身ではない。
どーすりゃいいんだ? とか思った擢真に「あ、明日からはどうにかするわ」と、真子は言った。
それなら安心だ。一食分くらいなら財布に入っている。
「ん、分かった」
「出かけるときにはちゃんとカギ締めてね」
別に今すぐに真子が家を出る、というわけではないのだが。真子はそう言って掃除を始めた。
扉の向こうでは掃除機独特の音が鳴り響いている。居間から自分の部屋に移動した擢真はベットに座り込んだ。
のびをしながらバフンッと寝ころぶ。
「さーて…どーすっかなぁ」
まだ考えている擢真である。なかなか、真剣に。
恋するものに『乙女』もなにもないらしい。
頭の中で紅深の家の近くを散策した。
あまり行ったことはなかったが、どうにか思い出そうとする。
(確か…パレコが割と傍にあったよな…)
さらに考え、考え…。
(あー、そう言えば今年は結構課題が多いんだよなぁ)
若干思考が逸れた。
今年の地理担当教師である佐賀はことある事に課題を出してくる、課題大好き人間らしい。
ちなみに夏休みの課題は『地理新聞』の作成。地理のネタならなんでもいい、とのことだが…面倒くさいことに何ら変わりはない。
「あー、早めに手を出しといて…」
擢真は一人、呟いた。
基本的に、擢真は宿題をため込むタイプではない。
…あくまで『基本的に』だが。気付けば期日が迫っていた! ということはあったりする。数学とか数学とか数学とかの課題が。
地理新聞の作成、と考えてみても擢真の家にはそういった関連の本はない。
どこかに行くしかないが…。行くならば、図書館か。
「――あ!」
そう考えて、名案が思い浮かんだ。
擢真は声を上げつつ跳ね起きる。
(そう言えば!)
通学で使っているカバンより一回り小さいものに筆箱とノート、財布を詰め込んだ。
パレコは擢真の住んでいる北川町の駅の一つ――北川町には駅が二つあるのだ――の傍に建っている。
片桐家は二つの駅のほぼ中間位置にあり、擢真はいつもどちらかというと学校に近い方の細田駅を利用しているのだが、パレコの傍、北川駅の近くには町役場、郵便局、小学校、そして図書館があったはずだ。
バタンッと勢いよく居間のドアを開けた。
ウィーン、ウィーンと掃除機をかけている母親に声をかける。
「母さんっ!」
真子はきちんと三角巾を被って『掃除のオバサン』という感じだった。
擢真呼びかけが通じたのか、プチンと電源を切り、こちらを向く。
「なあに? どこか行くの?」
「図書館! 図書館行ってくる!」
小さい時からのしつけで、どこかに行く時には報告するのが擢真のクセになっていた。
「図書館? ああ、駅前の」
フムフムというように真子は頷く。
擢真はガサゴソと電話の置いてある棚の引き出しを探る。…捜し物が、見つからない。
「あれ? カギは?」
思わず呟く。カギは、出かけるときには家族の一人一人が必ず持つことになっていた。
先々週にはこの棚の一段目に入っていたはずだが。
「あら、ない?」
うーんと小さく唸りながら擢真は探し続ける。ちなみに擢真の持ち歩くカギはスポーツメーカー[KingMan]のキーホルダーのついたカギだ。
「あ、ごめーん」
妙に間延びした声で真子が擢真に言う。
「そういうトコに置いてあるとカギが取られやすいってこの間、テレビの特集で言ってたのよ。それで移動したんだったわ」
「をい」と擢真はツッコミをかました。頑張って探していた自分が悲しくなる。
思わず小さいため息を吐き出してから、擢真は真子に訊いた。
「で? どこに移動した?」
パタパタパタとスリッパの軽い音をたてながら真子は台所の方に向かって歩き、こっちこっちと小さく手招きをする。
「?」
ろくに台所に入らない擢真。台所には食器棚があり、食器棚の一部の戸はガラスでできている。
そのガラス部分に『張って剥がせる便利なフック』とかいうあおりがついていそうな吸盤付きのフックがくっついていた。百円ショップで売っていそうなプラスチック製の物で、水色と緑を足して二で割ったような色合いである。
「…こういうところの方が、泥棒が入ってきたときに分かりやすいんじゃないの?」
「あら、でも擢真は気づかなかったじゃない?」
「…」
それは、確かだった。
何はともあれカギをゲットし、もう一度「いってきます」と言う。
「あ、擢真」
ふと、真子に呼び止められる。今度はなんだと思いながら、擢真は振り返った。
「図書館て、駅前のでいいんでしょ? パレコの傍の」
「そうだけど?」
只今八時半を少し過ぎた頃。
「まだ開館してないんじゃない? 図書館。わたしの記憶が正しければ、確か十時に開館だったと思うけど」
「……マジで?」
いくら歩いて三十分だからと言って、さすがに早過ぎる。
しかも暑い中走って帰るのはイヤだ。なので擢真は自転車を使う気だったのだが。
(チャリを使うとさらに時間短縮されて十五分…)
「後一時間以上あるじゃん…」
さっそく運命に翻弄されている擢真である。
開館直後に着くようにするのだとしても、九時四十五分頃で充分間に合う。
「あー…めげそう…」
思わず独り言が漏れた。
「と、いうわけで勉強も良いけど、もうちょっとしてから出た方が利口だと思うわよ」
「…分かった」
すごすごと擢真は部屋に戻る。
荷物の入ったカバンを椅子にひっかけ、バフッ!! と顔面からベットにダイビング。
…一気にやる気がしぼんだ。
振り出しに戻る、である。
こういうときの時間の過ぎ方は数学の授業の時のように、妙にゆっくりに感じる。
一分は六十秒で、時間の過ぎる早さはまったく変わらないはずだというのに。
ぬぼーっと天井を見上げた。一時間ちょっと。何をしたものか。
コンコンというノックに擢真は「へーい」と元気なく応じた。
当たり前だが戸を開けてきたのは真子である。
「擢真、榊原君から電話」
擢真は保留中のコードレスを受け取った。
「もしもし?」
高校二年の擢真は未だにケータイ…つまりは携帯電話を持っていない。
ケータイに興味がないといったら嘘になるが、別に今は必要な物でもないな、と思っている。よって電話がくるとなると家の方の電話になるのだ。
『おっはー』
……なんかイヤ。
随分古いネタにそんなことを思いつつも「うっす。どーした?」と応じる。
『朝から覇気がないねぇ』
その声に、擢真はちょっと拍子抜けした。
「響ちゃんも覇気ないじゃん」
そう言うと相手は
『あ?』
…とっても態度が悪くなる。
「なんてな。怒るなよ、榊原」
『…“ちゃん”とかつけるな』
擢真は響があまり名前で呼ばれるのが好きでないという事をきちんと知っていたが、あえて言ってみた。からかわれる率が高い擢真。たまには逆襲だ。
「んで、どうした? 休み一日目早々に」
終業式は昨日。「都合が合ったら遊ぼう」という話はしたものの、明確な約束はしていなかった。
『いやー、暇でさー。片桐、どっか行かね?』
擢真は暇といえば暇だが、今だけの話だ。今日は…というか、行ける理由のある限りずっと…図書館に行かなければ。
――紅深に会えるかもしれない口実を少しでも多くしておきたい。
「わりー、俺、図書館に行くんだわ。開館早々にでも」
『…片桐が勉強?! 似合わねーことすんなよ!』
響はそう言いながら受話器の向こうでゲラゲラ笑う。
「うわ、ひでーなあ、おい」
擢真は軽く苦笑する。響の笑い声は続く。
『じゃあ、いいや。せいぜい頑張れよ』
「へいへい」
二度目の『い』を言いきる前に受話器からは『ツー ツー ツー』と無機質な音が届いた。…通話時間約一分。
(切るの早っ!)
擢真はそう思いながらもコードレスをあるべき場に戻し、もう一度ベットの上に寝ころんだ。