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十三、ワクワクの…

 ミーン ミン ミン ミン ミン ミン…
 やけに蝉の羽音が耳につく。
 終業式、ホームルームが終了し、擢真は美術室に足を運んだ。
 珍しく紅深が来ていない。…いや、『珍しく』というか擢真が入部して以来、初めてか。
(実は今日はナイのかな)
 特に連絡もなかったし、部活があるかと思って来てみたのだが。

 ミーン ミン ミン ミン ミン ミン…
 ぐったりと、擢真は机にうつ伏せる。
 蝉のこえが、うるさい。
(あっつー。…当たり前だ、夏だしな)
 一人ツッコミをして、苦笑した。瞬くうちに、苦笑が消える。
(…会いたいな)
 ――顔を見るだけではなく。
 擢真はそう思って瞳を閉じる。
 今日、部活があるなら自分以外の部員も来る日だが――来たっていい。だから…会いたい。
 会いたい、会いたい、会いたい…。そして、謝りたい。ごめん、と。睨んでしまってごめん、と。

 ふと、唇に言葉をのせた。
「く…み…さん」
 紅深の名を呟いた。
 夏の重い、独特の空気。開けた窓から不意に吹き込んでくる風。
 風に、その言葉が溶け込んだ…ような感覚がした。それは気のせいであったのか。――それとも。

「わっ!!」
 ビックーンッ!!
 擢真は突然の声に見るからに肩を震わせた。マジメにビビった。
 座ったままの擢真は思い切り、発信源へと振り返る。
「な、ななななななっっ!!?」
「やほー」
 軽く右腕を上げて微笑んでいるのは…望んでいた存在ひと
「紅深…」
 先輩? と、擢真の言葉が掠れた。カーテンが風の余韻に揺れている。
「元気?」
 昨日の今日で『元気?』はないのでは? と…ついでに、大掃除の時間に声をかけられて顔を見たのだから『元気?』も何もないのではとか思ったが…そんなことより、今、ここに紅深が居るという喜びの方がはるかに大きかった。
 そして、はっとする。
(謝らねば)
 「今、謝らねば」と、擢真は息を吸い込んだ。

「「昨日…」」
 互いの声に思わず、擢真は紅深を…全く同じタイミングで紅深が擢真を…凝視する。
「「……え?」」
 またもや同じタイミングで、次の言葉を発した。
 風が、吹く。紅深の髪が、それにフワリと撫でられた。
 その動きに一瞬見とれていた擢真は、次の瞬間にはっとする。
「え、あ…。先、どうぞ?」
 いつもより丁寧な口調で擢真は言った。
 そして今更ながら緊張してきた。紅深は、大掃除の時に擢真に声をかけて微笑んでくれたというのに。
(ちょっと卑怯かな? でも、紅深先輩も言いたいことがあるみたいだし…)
 と考え、「これこそ言い訳じゃん…」と、ちょっと気が沈んでしまった。
「あ、擢真くん、いいよ?」
 擢真と同じく、紅深もまた擢真に「どうぞ」と手で示す。
 しばらく考え、紅深の言葉に甘え『ちゃっちゃと言ってしまおうか?』と思った。
「……あ……」
 そして、口を開きかけた擢真だったのだが。
「あー、ごめんっ! やっぱ言わせて!」
 ナカナカの勢いで紅深に遮られた。
 がくぅ、と擢真はうなだれる。勇気の風船が、一気にしぼんだ。
「…どーぞ」
 顔だけ紅深へ向けていた擢真は体ごと紅深の方へと振り返る。
「…昨日のこと、なんだけど…」
 続いた言葉に『げっ』と思った。
(昨日の、なんだ? …なんだ? ――なんだ?!)
 妙に、心拍数が上昇する。耳を塞いでしまいたい衝動にも駆られる。
 けれど、間に合わずに…
「ごめんなさいっ!!」
「――…へ?」
 予想外の言葉に、擢真は呆然とした。
 耳を押さえようと中途半端に浮いた手はそのまま、紅深を見上げる。
 ゴメンナサイ?
「……な」
 なんで? という言葉は、紅深の声に遮られる。
「勝手にノートのぞき込んじゃったりして! …マサに言われたの。勝手にノートのぞき込んだりしたら誰でも気を悪くするだろう? って…」
(いや、そういうわけで睨んだんじゃなかったんだけど…)
 という言葉は、驚きの向こう側。表面上には現れない。
 その後にボソボソと紅深は「そのくせ一人で『擢真くんに睨まれたー』って、思ってて…」とかなんとか続けていたが、擢真はぼんやりしていてちゃんとは聞いていなかった。
「だから、ごめんね」
 そう言って紅深は深々と頭を下げる。
「ち、違うっ」
 紅深の様子に擢真は慌てて頭を振った。紅深はふと、顔を上げる。
「――え?」
 その瞳のまっすぐさにどぎまぎする。
(やっぱこの人、可愛い――なんて思う時じゃない!)
 一人ツッコミ炸裂中。
 紅深の頭上には『?』マークが飛んでいた。…ように感じられた。
「昨日のは…。はっきり言って俺が悪かったの」
 だから。
「あん…紅深先輩が謝るようなことじゃないよ!」
 あんた、と言おうとして、どうにかやめた。
 せっかく『紅深(先輩)』と呼ぶことを許されているのだ。呼ばなくてどうする、と考えたからである。
「で…。謝りたかったんだ。昨日は、睨んだりして、ごめん」
 擢真は座ったままだったが、頭を下げた。

 ……し――ん。
 沈黙。

 風が止み、蝉の音も止み…夏の空気だけが美術室を支配する。
 ――沈黙。
 頭を下げたままの擢真に、紅深の表情や様子の変化は、見えない。
 顔を上げてもいいだろうか、と迷う。
「ぷ…っ」
(え?)
 擢真は瞬いて、顔を上げた。――先に沈黙を破ったのは…
「アハハハッ!」
 紅深の笑い声…だった。
 「え?」と声にならないまま目前の少女を見つめる。
「アハッ!! すごーいっ! あたし達、気が合うねぇ」
 ペシペシと擢真の肩を叩きながら、紅深は言った。
 擢真はなぜ、紅深が笑っているのかがわからない。
「ハハッ、ハハハッ! ……ハァ」
 しばらく笑い続けていた紅深だったが、やや酸素不足になったらしい。
 二、三度軽く肩を上下させながら息をして、呼吸を落ち着けた。

「あたし達ってば一身共同体?」
 「気が合うねぇ」なんていう呟きに紅深の言葉に擢真は瞬く。
 『一身共同体』なんていうのは、紅深は冗談で言ったのであろう。…しかし。
「? どしたの? 擢真くん」
 紅深はまたもや頭上に『?』マークを飛ばしているような顔をしながら擢真の顔を覗き込み、言った。
「顔まっ赤よ? そんなにこの部屋暑い?」
「ち、違うっ」
 擢真は頭を振って否定する。視線を、紅深から外した。
 …言えるものか。
 ジョークで言った紅深の言葉が、顔をこれだけ赤面させる効果があるなどと。
(一身共同体…)
 嬉しかった。「気が合うねぇ」なんていう些細な言葉が。
「さーて、仲直りもしたことだし」
 擢真の様子に首を傾げながらも紅深は呟く。
 「みんな遅いねぇ…」と言いながら、擢真の横の席に腰を落ち着けた。

 赤面しながらも紅深の言葉をしっかりと耳に入れていた擢真。一つの単語が、頭にひっかかる。
(みんな?)
「みんなって?」
 赤面をどうにか落ち着かせようと、自分の手で顔に風を送りながら問う。
「みんなはみんなよ。夏休み前最後だから、休み中の部活動について連絡しようと」
 「思って…」と続いた紅深の言葉が、擢真の声にかき消される。
「休み中の部活動?!」
 何それ?!
 擢真の声と反応に驚いたのか、目を丸くした紅深が擢真を見つめた。
「…あれ? あ、そっか。擢真くん今年から入部したんだもんね。知るわけないか」
 瞬きながら一人頷いた紅深に、擢真もまた大きく頷く。
 知るわけがない。休み中の部活動など!
「休み明けすぐに『清涼祭』があるでしょ? それの展示物、完璧にするのに」
 『なぜ?』と、擢真の顔に書いてあったらしい。紅深は説明を続ける。
「本当に休みが開けてすぐだから。休み明けになっちゃうとクラスとか、生徒会とかの方優先になっちゃって、部活に出る暇なんて無いに等しいでしょ。だから」
 「夏休み中に部活があるのよ」と、紅深は言った。
「部活が…ある」
 思わず擢真は言葉をもらした。
「アハハ、そんなにヤだ?」
 紅深がちょっと笑いながら擢真に問う。
「そんなことない!」
 擢真は思いきり否定した。
 嬉しい、嬉しい、嬉しい、嬉しい!
 これで、紅深に会える。

 昨年短いと思った夏休み。今年は年間行事表を見て、小さくため息をついたのだ。
 四週間、紅深に会えない。
 四週間…つまり、一ヶ月!
 一度紅深を送ったことがあるから、紅深の家の場所は大体覚えてはいる。
 しかし、理由もなく紅深の家の側をうろついているのではたんなる変質者だし、会う口実もない。

 きちんとした名目のもと、紅深に会うことができるのだ。
 こんなに良いことがあるだろうか。
「嬉しいよ!」
 擢真は多少興奮して本心が口から滑り落ちた。
「いつあんの?」
 …犬であれば尻尾を『パタパタと振っている』と言うよりも、『ぶんぶんと振り回している』という具合の喜びよう。
「えーと…櫻田先生がいらっしゃる時ね。主は」
 擢真の嬉しそうな様子に紅深は笑いながら問いかけに応じた。
 紅深の答えに、擢真は少しばかり考える。
(宿直だか、そういうときのことか? でも、そんなんじゃ…)
「…じゃあ、あっても二、三回ってこと?」
「ちゃんと先生がいらっしゃるときはね」
 擢真は思わず「えぇっ」と抗議の声を上げてしまった。
 一ヶ月の内、たった二、三日…。もっと、会いたい。
 『全然会えないかもしれない』よりはマシなのだが…会えるなら、もともっと、会いたい。
「まぁ、先生の予定にもよるわね。先生がいいとおっしゃるならもっとやらせてもらうけど…」
「じゃ、やろ? もー、ざっくざくっ!」
 紅深は擢真の様子に「やる気満々ね」と再び笑う。
「おうっ♪」
 擢真は興奮していた。多少…いや、かなり? 予定外の『会える』予定に、興奮していた。
(夏休み、楽しみだぁ!)

 ――夏休みが、始まる。

 
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