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一、彼女

 晴れた日だった。
 桜の咲きだした頃だった。

 彼女が、息をひきとった。
 まるで眠るように…彼女は、逝った。

 

 窓の外には雪が降っていた。
 少女はボーッと、それを見つめる。
「…カナ」
 呼びかけと同時にカナ――花名かなの肩に、青年の手がのせられる。
 『花名』と呼ばれた…アリアは、振り返った。青年の顔を見てから、数度瞬きをする。
「あぁ、ユーラ」
「どうしたんだ? ボーッとして」
 ユーラの問いかけにアリアはあいまいに微笑んだ。
 そして、答える。
「…今度…」
 ユーラは「今度?」と、アリアの言葉を繰り返した。
「――何を歌おうかと、考えていた」
「ああ、そうか。今度はいつだ?」
 アリアは、酒屋街の『歌姫』だ。
「桂屋で明後日」
 アリアはそうユーラの問いに答えてから、心の中で思う。
 違う、と。
 そんなことは考えていなかった、と。
 アリアは、本当は…『彼女』のことを考えていたのだ。
 ――そんなこと、ユーラには言えないけれど。

 彼女は、アルスタイン。…アルスタイン・ワイオレッド。
 享名きょうめいは、香菜かな
 ――それは単なる偶然といえるかもしれない。
 アルスタインの名はアリアの、今は亡き母――アルスティンと似た音で、彼女の享名は、アリアと…花名と同じものだった。
 アリアの母は病弱で、優しかった。
 アルスタインもまた、病弱で…優しい女性ひとだった。
 アリアはアルスタインに出会って、母に似たアルスタインが好きになった。
 その優しさに触れて、彼女自身に惹かれた。
 とても、大好きになった。
 アルスタインと共にいて、その思いはさらに膨らんだ。
 彼女と共にいたかった。もっと、共に時間を過ごしたかった。
 ――だけど。

『泣かないで』
 彼女は、逝ってしまった。
 …アリアの母と同じように。
『私のために、泣いたりしないで』
 病に侵され…アルスタインは逝ってしまった。

 雪が降る。
 彼女と共に見ることのなかった、雪が。
(雪が降って、融けて…春がきたら)
 アリアは瞳を閉じた。
(香菜が還ってから、一年が経つ…)

 アリアはアルスタインを思い出す。
『泣かないで』
 ――それから、彼女の言葉を思い出す。
『私のために、泣いたりしないで』
 そして、自分を。

 アリアは誓っていた。
 アルスタインが喜んでくれるなら。彼女が望んでくれるなら…彼女のために、歌を歌おうと。
 アルスタインが喜んでくれるのなら、彼女の願うことをきこうと…誓っていた。

『泣かないで』

 だけど、アリアは泣いた。
 悲しくて。
 アルスタインに会えないことが悲しくて、アリアは涙を流した。
『…香菜…っ』

 あの時のことを思うと…胸が痛い。
 大切な人がいなくなってしまった悲しみが、すべて消えたわけではない。
(…でも)
 少し和らいだような気がするのも、確か。

 香菜。香菜。香菜。香菜。
 呼んで、彼女が戻ってきてくれるわけではないけれど。
『泣かないで』
 ――香菜…。
(あたしは、あの日以来…泣いてないよ)
 アリアはそんなことを思い、そっと指を組んだ。

「飲むか?」
「へ?」
 アルスタインのことを思い、耽っていたアリアに声がかかった。
 ユーラの手には湯気の立ち上るカップが握られている。
「あ、ありがとう。もらう」
 ユーラの手からカップを受け取り、ちびちびと飲んだ。
 チラリとユーラを盗み見る。

 ユーラはワイオレッド家の執事だった男で…アリアと同様、そしてアリアよりも早くアルスタインに惹かれていた男である。
 アルスタインが『歌姫』という存在を望んで、そんなアルスタインの願を叶えるために、ユーラはアリアを探し出し、ついでに半ば拉致という強硬手段に出た。
 自分を拉致しようとする存在にいい対応が出来る筈がない。
 アリアは当初野良猫のような態度でユーラに接し、ユーラもまた、口の悪いアリアに感じの悪い対応をしてきた。
 けれど。
『アルスタイン様』
 彼女を呼ぶときの声音。気遣う様子。
(あたしを相手にするときとは全然違う声だったよなー)
 過去のユーラの声を思い出して、アリアはそんなことを思う。

『アルスタイン様…!』

(…あれ?)
 ふと、アリアは思った。
 アリアは、泣いた。
 『泣かないで』という、彼女の願いを破り…アルスタインが逝ってしまったときに、泣いた。
 多分、彼女のことだ。きっと…ユーラにも「泣くな」みたいなことを言ったと思う。
 だけど。

『歌を、聞かせてくれ。――どうか…共に、いてくれ…』

 アリアは彼女の逝った日にも、それ以降にも。
(ユーラの涙を、見たことがない?)
 ――大切な人がいなくなって。…仮に約束があったとしても。
 泣かないヤツなんて、いるのだろうか?


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