『…アラシ…』
見 ツ ケ タ
そっと、唇がかたどる。
少女は…気付かない。
『…嵐…』
今度こそ、失わない。
今度こそ、手に入れる。
今度こそ…オレのものにする。
梅雨。ムシムシとした暑さ。
(――暑い…)
頭を左右に振る。
――暑さ対策にはならなかった。
誕生日の翌日とはいっても平日で、普通に学校はある。
高校に行くため、最寄駅の改札口に入る直前だった。
「おはよう!」
後ろから、そんな声がした。
聞いたことのあるような声に、思わず振り返る。
…だが、自分に声をかけてきたような人物は見当たらない。
「……?」
高月蘭はわずかに首を傾げた。
気のせい…だったろうか?
蘭は一度止めた足を再び進める。
「おーい!」
ぽんっ。
今度は、呼びかけと共に肩を叩かれた。
まさしく、その声は蘭を呼んだものらしい。
「……はい?」
聞き覚えのある声…呼ぶ声は、気のせいではなかった。
だが。
「――誰?」
蘭は思わずこぼした。
蘭の目前に立つ男…肩を叩いてきた男は、蘭の見覚えのある人物ではなかった。
通勤するための会社員が一瞬振り返るが、すぐに足早に改札口へと向かう。
(…誰?)
蘭は繰り返し…心の中だけで呟いた。
人懐っこさを感じさせる黒い瞳と、さらさらとした、まっすぐな髪質。
『誰?』と訊ねてきた蘭に、男はにっこりと笑った。
「唐突だけど、オレあんたのこと好きなんだ」
それは蘭の問いかけに対する答えではなかった。だが、男の言葉に蘭はぱちくりとする。そのまま、辺りを見渡した。
「……」
――彼はもしかして、蘭に言っているのだろうか。
蘭に声をかけてきた男は一度プッとふき出した。
「あんたに言ってるんだよ」
「……――」
男の言葉を自分の中で繰り返す。脳ミソに到達して、意味を理解して…蘭の頭は真っ白になった。
次の瞬間、蘭の二重の大きな目は見開かれ、頬がさっと朱色に染まり上がる。
パクパクと金魚のように口を開閉した。
「わ…私?」
自分を示しながら言った蘭に「もちろん」と男はにこにこしながら言った。
「オレと付き合わない?」
相変わらず笑みを崩さないまま、男は続ける。
「つ、ツキアウ?」
蘭の声は勝手にひっくり返る。
「…………えっ?!」
蘭の心臓がドクドクと脈打った。
顔が熱い。『心臓が口から飛び出しそう』とは今のことだろうか。
「ってか、付き合って」
蘭の動揺は見てとれるだろうに、男は今も笑顔のままそう言った。
(よく笑う人だな…)
そう思って、蘭はそっと目を伏せた。
――アノ方ハアマリ笑ワナカッタ…
「…え…?」
蘭は自身の思考に、目前の男のことが頭から消えた。
(…あの方?)
しばし考え込んでしまう蘭だったが…
「きぃ〜いぃ〜てぇ〜」
奇怪な声を上がる男の声に思考が吹っ飛んだ。
「あ、は、はいっ!」
「やった! 付き合ってくれるの?」
蘭の「はい」に、男は嬉しそうに切り返す。
(え?)
そういえばついさっきこの男に「付き合って」と言われていたのだった。
蘭は勢いよく「そ、それはっ」と首を横に振る。
「ああ…そんなに思いっきり首を横に振らなくても…」
オレ、悲しい。
視線を落とし、「クスン」と男は嘘泣きをした。
…しかし。
「じゃ、付き合うのがダメなら、友達になって」
次の瞬間にはケロリとそう言った。
「あ…と、友達…ですか…」
友達なら…と蘭は小さく頷く。
「おっしゃ」
蘭の首肯に男はにこーっと笑顔を見せた。
「オレは、トール。ヨロシク」
「あ、私は…」
「蘭。でしょ?」
「……」
知っていて当然、と言わんばかりの男…トールの答えに蘭は少しばかり驚いた。
けれどその通りなので「はい」と頷く。
「あ、蘭。もしかしてそろそろ時間がヤバイ?」
トールの問いかけに蘭は「あ」と小さく声を上げた。
駅に備えついている電子時計を見上げると、もうすぐ七時半だった。
電車は五分に一本程度はきているが、そろそろ(蘭的に)時間の危うい電車が来る。
「えっと…そろそろ…」
「そっか。…ん、またね!」
軽くトールは手を上げる。
そして蘭は、トールと別れた。
――蘭は、知らない。
「……蘭……」
手を下したトールの呟きを。
――笑みを無くした唇がかたどる名を。
蘭は…気付かない。
「……嵐」
今度こそ。…今度こそ。
「――オレのものにする…」
――そう、呟いていたことを。