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其の二

――目 覚 メ ヨ――
ざわりと、嫌な風がふく。
生温かい、風が。
――我 等 ガ 皇――

湿り気を帯びた風。
悪しきモノを目覚めさせようとするかのような。

――皇 ヨ――
闇が揺れる。
――我 等 ガ 皇 ヨ――
風が、ぴたりと止む。

闇が裂け、一人の美しい男が…姿を現した。

 

 七月に入った。
 梅雨明け宣言はまだだ。
 空は暗く、どんよりとしている。…はっきり言って、『嫌な』天気だった。

「らーんっ」
 ガバッと抱きつかれて蘭は思わず「ぅわ…っ!」と悲鳴を上げた。
「そんな、ビックリしなくても…」
 シクシク、とトールは嘘泣きをする。
 驚かされたのは蘭のほうで、謝るような理由はなかったのだが反射的に「ご、ごめんね」と謝った。
 トールは既に嘘泣きをやめ、蘭に向かって笑顔を見せている。
(本当に、よく笑う人だな)
 蘭はまたもやそんなことを思う。我知らず、蘭はトールをジッと見つめていた。
 蘭の視線を受け止め、トールはニッと笑う。
「何? オレって見とれるほどイイ男?」
 そんなトールの言葉に、蘭は頬を染めた。慌てて俯いて、視線をそらす。

 蘭はずっとエスカレーター式の私立女子学園に通っていて、『男の子』というものにあまり免疫がない。
 兄弟もいないし、関わりのある『男』といえば父くらいだった。
 そのためだろうか、トールの一挙一動にいちいち反応して、すぐに体温が上がってしまう。…顔が、赤くなってしまう。
(自意識過剰…なのかな、私)
 そんなことを思う。…だが。
(男の子と二人きりっていうのが…)
 緊張ドキドキしてしまう…。
 蘭は一人、そんなことを考える。トールはそうやってどぎまぎしつつ悩んでいる蘭の様子をニコニコと見つめている。

「ねぇ、蘭」
 トールは呼びかけた。…だが、自分の思考に浸ってしまっている蘭は、トールの呼びかけに気付かない。
「蘭ってば!」
 やや強くなった呼びかけに、「うひゃっ」と蘭は妙な声を上げた。
「ご、ごめんね。…何?」
「あのね」

 トールはそこで言葉を区切った。
 ずいっと一歩、蘭に近づく。
「え? あ? あの…っ」
 近づいたトールとの距離に、蘭は動揺した。
 なぜ、トールは自分に近づいたのだろう…。
 そう思っていたら、トールは突如、蘭の肩を掴む。
 そんなトールの行動に、蘭は更に動揺した。
「ど…」
 どうしたの、という蘭の言葉はカタチにならなかった。

 トールは自らが盾になるように――蘭を何かから隠すように、覆うように…そっと、抱きしめる。
 抱きしめた蘭越しに、視線を固定していた。
 人懐っこい印象のトールだが、今の視線には、そんな印象が欠片もなかった。
 刃のような…冴え冴えとして、もし触れられるとすれば切れてしまいそうな鋭さ。
 蘭はそんなトールの視線に気付かない。
 トールに抱きしめられている…という現状に、蘭の顔がリトマス試験紙よりもわかりやすく、赤く染まる。
 あわあわした。若干、パニックに陥った。
 けれど…
「トール、くん…」
 どうにか、彼の名を呼ぶ。
 トールは小さな蘭の呟きにはっとしたような表情を見せた。
 刃のような鋭さが鳴りを潜め、数度瞬くうちにいつもの人懐っこそうな…少々犬を連想させる印象へと変わる。
「あ、ゴメン」
 断りなく抱きしめたことに対してだろうか、トールは謝罪した。
 瞬きをしつつ、解放されたことにほっと息を吐く蘭を見つめる。

 なかなか治まらない赤面に「早く落ち着け〜」と軽くぺちぺち頬を叩く蘭は、見つめられていることに気付き「え」と小さく声を上げた。
 なんだろうか、と思う。
 なんで、そんなに見つめてくるのか…とも思う。
 耐えきれず、「何?」と口を開こうとした瞬間…トールはヘラッと笑った。
 今までの、ある種真剣とも思えた眼差しから一変したトールの様子にややガックリしそうだ。
 そんな蘭の密かな葛藤には気付かず、トールは相変わらずヘラヘラしながら「名前」と呟いた。
「名前?」
 繰り返した蘭に、トールはこっくり頷く。
 笑みを深め、続けた。
「初めて…呼んでくれた」
 トールが蘭に告白をしてから約一週間…毎朝顔を合わせてはいたのだが、蘭はこの時初めて、トールの名を呼んだのだった。
「ねぇ、もう一回、言って?」
 トールのねだるような声音に蘭は瞬く。
「……トール、くん?」
 少し戸惑い気味ながら繰り返した蘭の呟きに、トールはまた微笑んだ。更に、おねだりを追加する。
「トールって、呼んで?」
「え?」
 追加されたトールのおねだりに蘭は思わず声を上げた。
 戸惑い、「でも…」と躊躇ためらう蘭にトールは続ける。
「オレは『蘭』って呼び捨てしてるし。だから、呼び捨てとかそういうの気にしないで」
 蘭が呼び捨てに躊躇うのは、呼びなれないから…というのはもちろんだったが、トールが蘭よりも年上に見えたから、だった。
 高校二年の蘭だが…トールは大学生か、専門学校生くらいに見える。
 蘭の戸惑いをわかっていながら、トールは「お願い」と静かに言う。
 トールと。そう呼んで、と。
 蘭はしばらく悩んだが…相手が望んでいることだし、懇願こんがんするように見つめられて、折れた。
 小さく息を吸う。緊張を追い払うように、息を吐き出す。
「…トール」
 躊躇いがちな蘭の小さな声に、トールは満面の笑みを浮かべた。

 トールが蘭に何度も『トール』と呼ばせてから、いつものように二人は改札口に入る前に別れた。
 ホームに向かいながら、蘭はふと思った。
(そういえばトール…は)
 心の中の呟きでも彼を呼び捨てにするべきなのか…などとやや妙な心配をしつつ、駅のホームのいつもの場所に立つ。
(この後、どうしているのかな?)
 トールは大学生や専門学生くらいの年頃に見えた。
 けれど、この辺に学校はあっただろうか。
 朝の雑談を終えて、トールは蘭のように改札口に向かうわけではない。
 蘭と別れた後…彼は、どこに行っているのだろうか?

 

 改札口からホームへ…蘭の後ろ姿が完全に見えなくなると、トールはそっと目を閉じた。
 『あの』気配を知ろうと。…『あの』気配を追おうと。――探ろうと。

(…あれは…)

 あの、気配は。
 『アイツ』を彷彿とさせるものだった。
 トールははっとする。
(……まさか…)
 嵐が生まれ変わったこの期に。
(『アイツ』が、目覚めた?)

 ザワリ…――。
 風がふく。
 『是』と答えるように…風が、トールの頬を撫でた。

 
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