木々の葉の隙間から零れる光が濃い影の中でちらちらと揺れる。
季節は夏。
しかし、山中であるここは涼しい。
「――お、ここか」
一つの建物を前に、少女は呟いた。
馬車に揺られて町の入り口まで。その後町の人に訊きながらやっとその宿を見つけ出した。
その宿は少女が『連休になる』とわかった去年の冬に探した安い宿屋。
名前は『石楠花荘』といった。
ここは花の町グッシャルデ…その、外れ。
宿屋の名前まで花の名前が使われている。
少女はドアに手を掛け、石楠花荘に足を踏み入れた。
入ってすぐ右側に立つ男に「こんにちは」と少女…イリス・ディンセントは声をかける。
黒髪は肩にかかるくらい。横の髪を後ろでまとめている。どちらかといえばカッチリした服装は物静かで大人しそうな印象の彼女によく似合っていた。
受付の男…大体五十代に見える中年は愛想良く「いらっしゃいませ」と微笑みかける。
客商売だし当然だろうか。
頭の隅でそんなことを思いながらイリスは
「結構前に予約したディンセントです」
そう、告げた。
「ディンセント様…ですね」
受付の中年男性は「少々お待ちください」と言い、予約表だと思われるノートをめくった。
しばらくして「昨年の冬にご連絡くださいましたか?」という問いかけに「あ、はい。多分、それです」とイリスは応じる。
同性同名でなければイリスだろう。
(ってか、あたしだよ)
外見から判断すればそんなことを考えなさそうなことを思いつつ、イリスはゆるりと瞬く。
「失礼ですが、ご本人と証明できるものはございますか?」
中年男性の言葉にイリスは一呼吸の間をおいてから「あ、はいはい」と左手首を差し出した。
とはいっても、イリスが見せたいのは左手首にあるブレスレットで、更にいうならそれについた細長いプレートだったのだが。
「?」
イリスに腕を差し出された中年男性は少し目が悪いのか、細めながら見ている。
中年男性の見つめるプレートにはとある図柄と、『イリス・ディンセント』という名前が刻まれていた。
「…いいですかね?」
いい加減、見えたと思うが――そんなことを思いながらマジマジとプレートを見ていた中年男性に言った。
イリスの言葉に中年男性はハッとして、「あ…はい。ありがとうございます」と立ちあがる。
「部屋までご案内します」と受付カウンターから出た。
荷物を持ちますという申し出を断り、イリスは中年男性の後に続く。
木造の廊下にはイリス達しか歩いていない。他の客はいるのだろうか、と思えるほど静かだ。
「――神殿の方だったんですねぇ」
階段を上りながらしみじみと言った言葉に、イリスは中年男性がマジマジと見ていたのは、プレートに描かれた図柄だったのかと思い至った。
描かれた図柄は曲線を組み合わせたようなもので、何か字の重なりのように見えなくもない。
その図柄は神殿の紋章だった。
ブレスレット――というか、紋章が描かれたプレートは神殿に勤める人間…神官の証なのである。
「珍しいですかね?」
中年男性の言葉に、イリスは訊き返した。
この国、芳祈…というか、この周辺の国々…では神殿が国を取り仕切っている。
教育も政治も神殿の管理下で『神官』はいわゆる公務員のようなものだ。神官と呼ばれる存在がそんなに珍しいものとも思えない。
「あぁ…その、お若いので」
中年男性から見ればイリスは確かに若いだろう。十七歳である。
そんな言葉に「まだ見習生ですよ」とイリスは返事をした。
「…あ…こちらの部屋になります」
話しているうちにイリスが通されたのは、二階の奥の部屋だった。
中年男性が鍵を使ってその部屋を開ける。
一番奥だから当然角部屋で、中は思っていたよりも広い。
イリスは安い部屋だったのでそんなに期待していなかったのだが、ある意味これは予定外だった。
「あの…」
さっさと部屋に入って真ん中にあった机に荷物を置いたイリスに、中年男性は声をかける。
振り返ると中年男性は「…あ…」と声を上げ、その様子に首を傾げたイリスに「御用がありましたら、申し付けてください」と頭を下げた。
「あぁ、どうも」
中年男性の言葉にイリスは適当に返事をするとパタン、とドアが閉められた。
――ガタン
すると、どこかで音がした。
他の部屋の震動が伝わってきたのだろう、とイリスは特に気に留めなかった。
**** **** ****
ここ――石楠花荘までの移動で少し疲れたイリスはしばらくベッドで横になることにした。馬車に揺られているだけでも疲れるものだし、そのあと結構歩いたのも効いた。
イリスの場合、寝ている間は至福の時間だ。
瞳を閉じると、すぐに眠気がやってきた。イリスはそれに抗うことなくゆっくりと眠りに落ちた。
「……──」
イリスが起きてみると、日が傾いていた。
窓から差し込む夕日で部屋がオレンジ色に染まっている。
(あぁ…一日が終わる…)
大分ゆっくりと寝ていたようだ。
イリスはごそごそとベッドから身を起こした。
部屋の洗面所で顔を洗った。
(うん、なんとなく頭がすっきりしたような感じ…)
用意されているタオルで水気を取ってから、イリスは寝癖がないか、ヨダレの跡があったりしないか…など、鏡をじっと見つめた。
「……?」
鏡を見つめながら何か、違和感があった。何度か瞬きを繰り返すが、その違和感の正体はうまく言葉に出来ない。
(?)
イリスは一人首を傾げるが、気のせいだったのだろう、と思う。振り返ってみても何もない。
(ランプに火、つけちゃおうかな?)
まだ差し込む夕日はあるけれど、イリスはランプに手をのばした。
イリスが見たのは影だ。
そう思うことにする。
(あたしが見たのはきっと、風に揺れたカーテンの影だ)
この部屋の窓は開いていないけれど、イリスはその事実には気付かないふりをした。
(あ、夕飯…にはまだ早いけど。まぁ、少しくらいフラフラしてこよう)
早速ランプに火は灯したけれど、部屋を出て行くのだから点けっぱなしにしていて火事にでもなったら大変だ。手を振って、ランプの火を消す。
その後、廊下に出るための部屋に手を掛けた途端。
――ガタン
「……」
――再び、音がした。
何も倒れていない。また、他の部屋の震動でも伝わってきたのだろう。
…そう、思うことにする。
部屋の鍵をかけながらイリスはチラッと考えた。
自分は荷物を床に置きっぱなしにしただろうか、と。
**** **** ****
山の中、木々に囲まれた石楠花荘は夏だというのに結構涼しい。
イリスの地元は湿気が多く、日が沈む頃になってもまだ暑い。
(過ごしやすいなぁ)
イリスは宿を出て、空を見上げた。
東には深い藍色、西には黄昏のオレンジ色。
…夜がやってくる。
しばらく空を眺めていたイリスだったが、視線を空から宿…石楠花荘に移した。
西日の差していた二階の角部屋はイリスが泊まる部屋だろう。
――と。
(…おや?)
部屋の窓が、開いた。
イリスの泊まる部屋から五つ程離れている。
ランプは点けていないようで、窓から見える室内は暗い。
――いや、そんなことはどうでもいい。
イリスが注目したのは、窓を開けた人物だ。
気のせいか、とも思った。
ボーッと外を眺めているその人の部屋の下に近づいて、見上げる。
(…なんだか、やっぱり…)
「――…エリナ?」
イリスは、ある人の名を呼んだ。
外を眺めていた男だったが、イリスの声に気付いたのか、キョロキョロと辺りを見渡す。
(…やっぱり…)
男の顔とその様子をじっと見ていたイリスは少々驚きながらも「下!」と声をあげた。
「下」という言葉に男が視線を落とすと目が合う。
男の目は鋭いほう。けれど見なれたイリスとしては、『怖そう』という印象はない。
目の色は少し青みがかったグレー。イリスの地元にはあまり…いや、ほとんどいない。印象的な目だ。
「――なんでお前がここにいるんだ?」
何度か瞬きを繰り返してからようやく、グレーの瞳を持つエリナ…シャルド・エリナは驚いたように言った。
心底驚いているのだろう。鋭い瞳が見開かれているのが、二階を見上げるイリスでもわかる。
(でもソレ、あたしの台詞だし)
「…ソッチこそ」
イリスの本心のまま告げた言葉に、エリナの目は更に丸くなった。
エリナはイリスと同じく神官であり、しかも同じ神殿に所属している。
今更ではあるが、イリスを迎えた中年男性がイリスのブレスレットを妙に見ていたのはエリナの存在があったからかもしれない、と思った。
歳はイリスより一つ上だが、神殿に入ったのは同じ年で、同期だ。同じ職には就いていないが、それぞれの職務上二人は関わりがあったりする。
何はともあれ、受付にいた男性より若いことは確実だ。
「休みに入ったっつーのに、なんでまたお前と顔をつき合わすことになるんだか…」
向かい側の席でエリナがややため息混じりに漏らした。
しっかりその言葉を耳で拾ったイリスは「何ソレ。あたしが一緒じゃ不満?」と少し唇を尖らせた。
イリスとエリナは今、神殿に来ている。正確にいえば神殿の学生食堂に。
夕食をとるためだ。
食事つきになると宿泊代が一気にあがるため、イリスは石楠花荘に素泊りなのである。
エリナもまた素泊まりということで、二人とも食事は自分で確保しなければならない。
そんなにお金があるわけでもないイリスは神殿にある学生食堂に入り込んでいた。
学生食堂とは言っても誰でも利用できるのだが。
イリスはオムライスを購入した。
学生食堂だけあって、やっぱり安い。ここは、味も悪くなかった。
――それはさておき。
エリナも素泊まりだと知ったイリスが誘ったこともあり、なんとなく一緒に夕食を食べている二人である。
「不満じゃねぇ…わけじゃねぇが…」
応じたエリナに「ドッチだよ」とイリスはツッコミをかました。
「いや…安いとはいえ、神殿で飯を食うとはなぁ、とか」
イリスのツッコミにエリスはボソボソと言った。
「しかも神殿でよく見る顔を休み中まで見ると休みって気がしねぇ…」
そんなエリナの言葉にイリスは「あぁ」と頷いた。
普段神殿にいる人間が、違う場所とはいえ休みにまで神殿に足を運ぶ…。
ついでに神殿――仕事場で会う人間に休み中まで会っていると、休みという気がしないというのは確かに、言われてみればそうかもしれないと思った。
「…あ。そういえば、エリナはいつまでここにいるの?」
イリスはオムライスについてきたコンソメスープを飲み込んでから疑問を投げかけた。
ふと思い立った問いかけだったのだが、エリナは少々顔をしかめる。
「は? お前もしばらくこっちにいるのか?」
逆に訊き返してきたエリナに「二泊三日」とイリスは短く応じた。
「…いつから?」
しばらくの間をおいた問いかけとその表情に内心首を傾げつつもイリスは答える。
「今日から」
なぜか、エリナはがっくりと肩を落とした。「どうしたの?」と声をかけたイリスにエリナは視線を上げる。ふぅ、と息を吐いた。
「――すっげぇ偶然。オレも今日から二泊三日…」
「…は? 本当に?」
切り返しと共に、今度目を丸くしたのはイリスのほうだった。
「こんなことで嘘ついてどうするんだよ」
ポソリと漏れ聞こえたエリナの言葉に「それもそうなのだが」と思いながら瞬く。
「しっかし…スゴイ偶然もあるもんだねぇ…」
イリスは思わず呟くと「全くだ」とエリナも頷いた。