ひたり、じわりとしみるかのように、広がるもの。
「――…」
あまりの足の冷たさに、イリスは目を覚ました。
エリナと夕食をとって、石楠花荘に戻り、お風呂に入ってしまえばやることもなく、早々にベッドに横になったイリスである。
昼寝はしたのだが、やろうと思えば一日の三分の二くらい…いや、もしかしたら一日中…寝て過ごせるイリスは「昼寝をしたせいか眠れない…」なんて悩みは体験したことがなかった。
夏とはいえ涼しい山中。それで足が冷えたのだろうか。
(――だけどあたし、寝ている途中で起きることって滅多にないんだよねぇ……)
ついでにイリスは冷え性でも末端冷え性でもない。夏でも冬でも手先、足先はぽかぽかで安眠には自信がある。そんなイリスが、足の冷たさに目を覚ました。
ぼーっとした頭ながら、目を開いている。
…目から入った映像がきちんと脳で処理されているかかなり疑問 ではあるが。
ギシ …ミシ
――ギ…ギギ……
(――あぁ…こんな遅くまで起きている人がいるんだ…)
足が冷たい、と思いながらもイリスはそんなことを考えた。
…キ…キキィ
…ギシ… …ミシ…
足が冷たい。
――ドサッ
「!!」
何かが落ちたような突然の物音で、イリスの寝惚けた頭が一気に覚醒した。
音の原因を探すため、起きようとする。
…なのに――
(――体が…動かない…)
何事だろう。
自分に、何が起こっているのだろう。
こんなにも頭は冴えているというのに、状況が全く把握できない。
足が冷たい。
…気のせいだろうか、足首から下だけだった冷たさが、膝下まで広がっているような――
……イ…
「……?」
イリスの背筋に、何かが走った。
――悪寒。
瞬きすらうまくできない。自分の体なのに…自分の思うように動かない。
いくら涼しいとはいえ、この冷たさはなんだ?
足の…下半身の冷たさはどうだ?
…――イ …
再び、イリスの背筋に悪寒が走った。
触れて確かめたわけではない。…だが、鳥肌が立っているのが分かる。
(何? 何? 何? ……なんなの?!)
…チョウダイ …
意識して無視していた声が、はっきりと聞こえた。
――足先だけだった冷たさは今や、体中…肩にまで及んでいる。
目を閉じなければならないと思った。
イリスは目を閉じなくてはならないと――自身に命じた。
なのに、目が閉じない。瞬き一つ、うまくできない。
自分の体なのに…!
…カラダ …チョウダイ …
ヒタリ、と何かがイリスに触れる。
「――っ!!!」
声をあげるつもりだった。
…声をあげたつもりだった。
…アンタ ……ノ …カラダ
…チョウダイ …
――しかし、イリスの口は微かに息を漏らしただけだった。
**** **** ****
――確か、五つ離れた部屋のはずだ。
イリスは目的の部屋のドアを…
ドンドンドンドンドンッ!!!!
間髪入れず、五回叩いた。
片側だけで十部屋続く廊下にはランプが階段のある場所と廊下の端にしかない。
――暗い。
窓から差し込む月の光など、今のイリスには当てにならなかった。
ドンドンドンドンドンッ!!!!
部屋にいるはずの人物が姿を現さない。
イリスは再び、ドアを叩いた。
(――まだ出てこないのか…!!)
もう一度…そう思い腕に力を込めようとした時、ドアが開いた。
「…こんな夜に――んだよ…」
ドアは、内側に開けるような仕組みになっている。
つまり廊下側から開ける場合は押す状態、部屋側から開ける場合は引く状態になるのだが…ドアの内側で眠たそうに立つ男の手を、イリスはガシッと握った。
「エ〜リ〜ナ〜ッ!!!!!」
突然手を掴まれ、半ば抱きつかれそうだったエリナは今頃目が覚めたかのように…実際今、頭が冴えたのかもしれない…ぎょっとする。
「―─――ディンセント?」
たっぷり間を空けた後、エリナは呟いた。
…寝惚けていたせいか、彼は自身の手を握るのが誰だかわかっていなかったのかもしれない。
「出たのよ」
強引にエリナの部屋に侵入したイリスは一杯の水を飲み干し、告げた。
「何が」
端的にエリナは訊き返す。
エリナは夜中の侵入者に色々と文句があったようだが、結局イリスに侵入を許した。
大人しく穏やかそうな外見に反し、イリスはなかなかツッコミがするどく、厳しい。
職場での付き合いの経験上、エリナがイリスに口で勝てる相手ではないことをわかっているからかもしれない。
イリスはエリナの切り返しに先程自身を襲った体験を思い出し、ぞくりと背筋が冷えた。
足の先から広がってきた悪寒。
言いようのない冷たさ。
――言葉にできない、あの声。
「…――夜中で、『出た』といったら限られるでしょう?」
イリスはエリナを鋭く見つめながら言い返す。目つきとしてはエリナのほうが鋭いのだが、その視線にエリナのほうが若干顔を引いた。
しばらく考えたような表情を見せてから「…変質者か?」と首を傾げる。
そんなエリナにイリスは「ち、が、う!」と強く否定した。今にも咬みつきそうな勢いにエリナは少しばかり瞬く。
イリスはふざけてなどいないのに、エリナは冗談だとでも思っているのか。そして、ふざけてでもいるのだろうか。…それとも素でボケているのか。素でボケているのだとしたら、現状ではある意味余計に性質が悪い。
「あのさ、エリナ…」
イリスは背筋を伸ばしてから、問いかけた。
「今夜、語り明かさない?」
唐突な申し出にエリナは怪訝な顔をした。見慣れているイリスからすれば別段恐れるようなことでもないが、見慣れない者からすればなかなかの凶悪な目つきになる。もしかしたら眠いこともあいまっているのかもしれない。
「なぜに」
端的な問いに「いや、この部屋に居続けるため?」とイリスは飄々と応じる。
「…はぁ?」
イリスの答えにエリナは妙な声をあげた。
「お前って…あれだろ? 三度の飯と同じ…か、ソレ以上に寝ることを優先させるヤツじゃなかったか?」
――事実である。
なんだかんだいいつつ、二年の付き合いとは侮れない。
イリスは敢えて言った覚えはないのに、自分のことが知られている。
「…いや、エリナに正直に『この部屋に泊まらせて』とか言ったところで追い出されるのがオチでしょ?」
正直に全てを言ったイリスにエリナは「当たり前だ」と腕を組んで椅子に腰掛けた。
「だったら語り明かすと見せかけてベッドを奪ってしまえ、とかいう作戦が…」
「たてんな、そんな作戦」
エリナはすばやく切り返した。
何気ないふりをしつつベッドに腰掛けているイリス。密かに作戦を進めているのだった。
「――ってか、なんでオレのところにきたんだ? 宿の人間に言えばいいだろう」
…実は階段から広がる闇が怖くて一階の事務所にいると思われる宿の人間を呼ぶことができなかった、なんて言えない。
沈黙するイリスをどう思ったか分からないが「何が出たんだか知らないが」と言葉を続けたエリナに
(夜になって『出た』といったら幽霊…かなんかしかないでしょーっ?!)
とイリスは心中で叫んだ。
しかし頭を振って心中の叫びを追い払うと、イリスはエリナの言葉に応じた。
「…気のせいだったら悪いじゃない」
暗に「宿の人に」と示したイリスだったが、エリナに通じたようだった。
「――宿の人間には悪くて、オレに対して『悪い』ってのはないのか」
エリナの呟きにイリスは「そりゃそうよ」と当然のように胸を張った。
今日初めて会った宿の人間より、仕事上とはいえ二年の付き合いがあるエリナのほうが声をかけやすいということもあった。
「お前な…」
イリスのきっぱりした物言いに、エリナは「『親しき仲にも礼儀あり』っつー言葉があるだろう」と大きく息を吐いた。
イリスはその言葉を聞かなかったことにして、続ける。
「この部屋で寝るのが駄目なら、あたしの部屋にきて、しばらくあたしの相手をしてよ」
「…なんでオレがそんなこと…」
しなきゃならないんだ、と言い終わる前に。
「じゃ、あたしがここで寝てもいいんだね? ベッド奪うよ?」
語尾に疑問符が付いてはいたのだがイリスは今にも布団を被りそうな勢いで言った。
「…」
「……」
無言の睨み合いが続く。
ブルーグレーの瞳と、黒い瞳。
…光源はランプの光と、カーテン越しの月の光だけだ。
「――ったく…」
折れたのは、ブルーグレーの瞳の持ち主…エリナだった。
「ちょっとだけだぞ」
当然、というような微笑を浮かべながらもイリスは「アリガト」と言った。そして、立ち上がる。
エリナの腕を引っ張って、イリスは自分が眠っていた部屋に強制連行した。
部屋の前で…腕を引く力は弱まった。
「お前の部屋、どこだ?」
「――あ…ここ…」
できれば、戻ってきたくはなかった。
悪寒も、言いようのない体の冷たさも――言葉にできないあの声も、気のせいだったとは思えない。
――いや、気のせいだったらそれはそれでいいのだが。
恐る恐る、イリスはドアに手をかける。
…ゆっくりと、ドアに力を込めて、押した。
「…」
「……」
「……先、ドウゾ」
しばらくの沈黙の後イリスはエリナに道を譲るように、除けた。
光源がカーテン越しの月光以外にはない暗い部屋には、ぱっと見た限り特に変わったところは見られない。
エリナはイリスの言葉に素直に従い、部屋に入る。
そんなエリナの後姿を見たイリスは――エリナの様子に特に異常がない、と確認した後――部屋に入った。
「なんなん…」
だ、と。そう、エリナは言葉を続けようとしたのだろう。――しかし…言葉は、途切れた。
――ガシャンッ
「…っ!!!」
「……へ?」
風もなく、地震もなかった。
しかし…机に置かれた水差しが、突如落ちた。
水差しは割れてしまう。
「な…」
エリナの言葉は、再び途切れた。
…聞こえたのだ。
頂戴、と。
エリナは瞬きの後、唾を飲み込む。
次の瞬間、一気に鳥肌が立った。
――イリスも、エリナも。
チョ ウ ダ イ
…カラダ …チョウダイ …
イリスはエリナの服を掴む。
――その手には、じっとりと汗が浮かんでいた。