「あの部屋、なんかいます?」
単刀直入。
イリスは宿の受付に立つ女性――推定三十歳に問いかけた。
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あの後二人はしばらく部屋から出ることができず…どうやら『何か』に閉じ込められてしまったらしい…部屋から出られた時にはイリスの緊張の糸が切れ、バッタリと倒れた。
…ご飯を抜いても眠ることだけは欠かさないイリスは、気を失うようにして眠りこんだのである。
そんなイリスを、エリナは自分の借りた部屋に寝かせて、エリナ自身は体験したことのない現実に興奮して――ベッドが奪われた、ということもあったが――眠ることができなかった。
カーテンの向こう側が明るくなっていくのを見るともなしに眺めていたエリナは、奪われたベットの布団が突如動いたのを視界の隅で捕らえた。
動くモノに視線を向けると、イリスがエリナの使う筈だったベッドで上半身を起こしていた。
イリスの目覚めはかなりいいようで、エリナに寝惚け眼の「ね」の字もない様子で「おはよう」と言い、そのまま「フロントに行ってくる」と顔も洗わずに立ち去った。
その背中を見送ったエリナは、とりあえず昂ったままの意識を落ち着かせようと、顔を洗う。
興奮のせいか、眠気はない。
顔の水気を拭き取ると、部屋を後にした。
(…お)
気の弱そうな女性が受付に立っている。
その女性に「あの部屋、なんかいます?」とイリスが言ったところでエリナは横に並んだ。
フロントの内側に立つ女性は目をきょろきょろと動かし、見るからに挙動不審だった。
「ええと…あの部屋、とは?」
「あたしが泊まった部屋。二階の西の角部屋」
『二階』の『に』の辺りで、女の瞬きが増した。
…どう見てもイリスの言う『あの部屋』がどの部屋を示しているかわかっていた様子である。
「に…西の角部屋ですか? 一体何が…」
「何がって…『なんかいる』っていったら、ヒトツしかないでしょ!」
イリスは口調を強めて言った。最初は敬語だったが、普通の口調になってしまっている。
大人しそうな外見に反して、イリスはなかなか気が強いのだった。
「いえ…あの…そんな…」
なんのことでしょう、自分にはさっぱり…というようなことを口の中だけでモゴモゴと女性はぼやく。
『何を言ってるんだ』と、昨夜のエリナもこんな反応だった。…いや、この女性のように挙動不審ではなかったが。
――しかし今のエリナは昨夜とは反応が違う。
「…二人、見てるんですよ? それでも『気のせい』とか言う気ですか?」
自身も『何か』の声を聞き、『何か』に部屋に閉じ込められてしまったという体験をしだから当然といえば当然かもしれないが。
「いえ…あの…」
イリスとエリナのそれぞれの言葉に、女性はしどろもどろに言葉を濁した。
二対一。
女性の分が悪かった。明らかに。
イリスとエリナのそれぞれの視線。
一度口を開いて――しばらく息を詰まらせた後、大きなため息を女性は漏らした。
「また…」という呟きと共に。
「また…って…何回もでてるの?」
イリスはそんな女性のぼやきを聞き逃さなかった。
すぐに訊き返す。
女性はイリスの問いかけに、ハッと口元を押さえた。しかしもう遅い。
イリスの視線を受け、観念したように「はい」と女性は応じる。
その答えにイリスは「先に言ってよ!!」とフロントを叩いた。
「知ってたら別の宿にしてた!」
イリスの心からの言葉にエリナは思わず「だから言わなかったんだろ…」と漏らす。
その呟きに一度エリナを睨んでから、イリスは再び女性に視線を向けた。
相変わらずの強い視線である。
「…アレ、正体に心当たりとかあるの?」
イリスの問いかけと視線に、女性はたじろぐ。…その視線から逃れるようにイリスの後ろを見ると、ハッとした。
「少々お待ちいただけますか」とだけ声をかけると女性はイリス達の答えを待たずに続けた。
視線はイリスの後ろに固定されたままである。
「引き払いですか?」
エリナが思わず振り返ると、そこには二人組みの男女がいた。
二十代前半の男と十五歳前後に見える少女。
「今、大丈夫なのか?」
イリス達とフロントの女性…見るからにもめていた様子に、後ろに立っていた男は呟いた。
イリス達は、イリスが止まる予定だった部屋について追及しなければならず、もうしばらく時間がかかりそうだ。
イリスとエリナはひとまず、そこを退く。
女性はその二人組みの相手をすることで、しばらくイリスの苦情から逃れた。
…まぁ、『二人組みに話を聞かれないため』という理由もあるかもしれないが。
「話の邪魔してごめんな」
男がチェックアウトの会計をしているとき、一緒にいた少女がイリスとエリナに小さく言った。口調は悪いが、なかなか好感の持てる態度である。
会計を済ませたらしい男が「アリア、行くぞ」と声をかけ、少女はそれに応じると「じゃあな」と立ち去った。
恋人同士には見えなかった。だが、兄妹という間柄にも見えない。兄妹だとしても、似ていない。
頭の片隅でどんな関係なのだろうと考えながらエリナは受付に立つ女性に向き直った。
「教えてくださいよ」
イリスは即、話を切り出した。
先程の続きである。
「心当たりがあるなら」
言い逃れは許さない、とばかりに言葉を続けるイリスの言葉と様子に女性は目を伏せた。
とても、言いにくそうである。
「…心当たりは…あります」
ゆっくりと女性は言うと、一つ息を吐き出した。
まだ言い難そうにしている女性にイリスは「心当たりは?」と続きを促す。
ここまで言っといて止められるのは非常にいやなものだった。
女性はもう一度息を吐き出す。
「…あの部屋で、人が亡くなっているんです」
ゆっくりと、どうにか。
女性は言った。胸に重い石でも乗っているかのように、ぎゅっと胸元をつかむ。
そこに沈黙が流れた。しばらくして「――病気?」とイリスは女性に問いかけた。
女性は胸元にあった手を口元へ寄せた。そのまま、口を覆う。
顔は更に俯き、もともと見えない表情がさらに見えなくなる。
そして…首を横に振った。
「いいえ。…――です…」
女性の言葉に、エリナは目を見開いた。
――イリスも同様に、目を見開いた。
女性は小さく…しかし、確かに口にした。
『無理心中です』と。
沈黙は流れ続けた。
それを破ったのはエリナの呟きだった。
「…人が死んだ部屋に平気な顔で泊まらせてたのかよ…」
思わず、もらしていた。
(しかも……)
――無理心中。
そう思ってから、昨日のことを思い出した。
ぞっとするような声。空気。
――あの現象。
「――……」
女性は完全に俯き、視線を合わせようとしない。――合わすことができないのかもしれない。
エリナは頭を掻いた。
そして隣に立つイリスの様子を見て、ドキッとする。
――別にときめいたわけではなく。
(なんだ…?)
イリスが、予想外の表情をしていたからだ。
昨夜の怯えようからして、てっきり怖がるのかと思った。
だが…イリスの表情に『恐怖』は見られない。
むしろ…
(なんか――怒ってるのか?)
眼光が鋭く、機嫌の悪そうな顔をしていた。
再び沈黙が流れる。
「…当然…」
一度頭を振るとイリスはゆっくりと言葉を紡ぎだす。今度沈黙を破ったのはイリスだった。
眼光に鋭さは残るものの、先程までの「怒り」は大分治まっているようだった。もしかしたら、無理矢理鎮めたのかもしれない。
「料金はナシでいいですよね?」
「…は?」
宿の女性は間の抜けた声を発する。
声をあげることはしなかったが、エリナもその発言に、視線をイリスのほうへむけていた。
「あたし、今日もあの部屋に泊まりますから」
二泊だし、とイリスは指を組んだ。
「――無料にしてくれたら、このことは口外しないですよ」
言葉と共に浮かぶのは微笑み。
――その微笑みが邪悪なものに映るのはエリナだけであろうか。
女性は呆然とした顔をしていた。
何度か瞬きを繰り返し、それから、ハッとしたような表情をする。
ようやく、イリスの言葉がきちんと理解できたらしい。
「…私だけでは判断しかねますので、しばらくお待ちいただいてよろしいですか?」
女性の言葉にイリスは頷いた。
**** **** ****
「…結局、約束を取り付けたな」
エリナの呟きにイリスは「当然」と笑った。
宿側は、イリスから今回の宿泊代を受け取らない約束をしたのである。
「あ、エリナ…ちょっと付き合ってよ」
女性から、宿の支配人である、昨日イリスを迎えた笑顔の中年男性の元へ案内してもらった。宿の支配人とイリスが話し合い――と言えるほどのものか首を傾げたくなるような一方的なものだったが――をした後、流れのままイリスに付き合っていたエリナは自分の泊まっていた部屋に向かおうとしていた。
「あ?」
イリスはエリナの返事を聞かず、『付き合え』という言葉の元、エリナをイリスの泊まった…と言えるか微妙であるが…部屋に強制連行する。
――今回は、妙な出来事は起こらなかった。
イリスは強張らせていた肩から緊張を解く。
「ありがと、エリナ。色々と付き合わせて悪かったね」
「――本当にそう思っているのか…」
少しばかりため息交じりにエリナが問いかければ、
「いや、思ってないかも」
…という答えが返ってきた。アハ、という笑いつきである。
「――おい…」
思わず拳を握ったエリナに「ウソウソ、感謝してるよ」とイリスは笑った。
「本当に、ありがと」
「……」
その言葉が本心からのものとわかって、エリナは照れた。
イリスから思わず顔を背ける。
「金を払わなくてすむならこっちの部屋がよかったな」
そう言って場を濁した。
「あはははは。――そうかねぇ…?」
宿の支配人に問い詰めて聞いたのは、イリスが泊まる部屋で一組の男女が無理心中を図ったということ。
それに伴って、二人とも亡くなってしまったということだった。
女性が男性を殺し、自らも命を絶った…詳しくは聞かないまでも、正直あまり気分のいい内容ではないことをイリスと共に聞いたエリナは「一人で大丈夫か?」と問いかけた。
イリスは少しばかり笑って「大丈夫」と応じたので、エリナは「じゃあ」と部屋を後にした。