TOP
 

2,『かおる』

「落ち着きましたか?」
 真の母…嘉美というのだが…は、そう言って紅茶を二人の前に差し出した。
「すみません…取り乱してしまって…」
 かおるは半ば顔を伏せるようにして、言う。
 みちるは「ありがとうございます」と礼を言った。
「残念でしたわね。…その、お知り合いの方ではなくて…」
 嘉美はそう言いながら真、真の父…研、それから『かおる』の分の紅茶もそれぞれに差し出す。
「偶然が…そう簡単にあるはずが、ないですよね」
 かおるは小さく呟いた。

(私が泣くような理由は…ない)
 かおるは根元を拭いながら言った。
(――期待した私が悪いんだ…)
「かおる…サン?」
 『かおる』は、おずおずと呼びかけた。
 かおるは…本当のことを言えば、泣きはらした顔で相手を見ることなどしたくはなかったのだが…顔を上げた。
 『かおる』を見つめる。
 金色の髪と、日に焼けた…けれど、日本人よりも白い肌。
 ――少しくすんだ青い瞳。
「はい」
 …何度見ても――当然なのだが――光では、ない。

「…」
 『かおる』はじっとかおるを見つめ続ける。
 気恥ずかしくなり、かおるは思わず俯いた。
「アァ、ゴメンナサイ」
 『かおる』は慌てて呟く。
「女性の顔を不躾に見つめて…」
 その時、『かおる』はわずかに顔をしかめた。
 …みちるは、そんなことに気付く。
「大丈夫ですか?」
 みちるは『かおる』に呟いた。
「あ…ハイ。大丈夫…」
 また痛むのか。『かおる』はこめかみに指を当てた。
「あら、大丈夫?」
 嘉美は『かおる』に問いかける。
「頭が痛むのかい?」
 研も、続けて問う。
「ハ…イ…」
「部屋で休むかい?」
 研の言葉に『かおる』は頷くことで答える。
「連れて行こう。嘉美、あとは頼んだぞ」
「あ、はい」
 『かおる』は研に連れられ、居間を出て行った。

 かおるとみちるは紅茶が飲み終わると、立ち上がった。
「突然お邪魔して、申し訳ありませんした」
「そんな。一向にお構いもせず…」
 嘉美は早々に立ち上がった二人を見て、慌てて立ち上がった。
「高野も…突然のことだったのに、家に上がらせてくれてありがとう」
 かおるはそう言って頭を下げた。
「あ、そんな…」
 なぜか真は慌てた。
 …かおるの涙を見たせいだろうか。
「駅まで送ろう」
 真の家に来る時に車を運転していた男が、二人にそう声をかけた。
「あ、ありがとうございます」
 みちるは礼を言う。
 真は「僕も送る!」と車に向かって走った。

 沈黙の約十分。
 車は駅に着き、二人は車から降りた。
「ありがとうございました」
 運転した男に礼を言い、駅に向かう。
「…五条!」
 真の呼びかけに、まずはみちるが…そしてかおるが振り返る。
(元気出せ!)
 ――真はそう、言おうと思って…止めた。
「…また、休み明けにな!」
 かおるは数度瞬きをする。そして、微笑んだ。
 ――それは、悲しげに。悲しいのに、無理に笑うように。
「…じゃあ、な」
 真はかおるの言葉が微かにしか聞こえなかった。
「五条…」
 思わずこぼした呟きは、かおるに…みちるに、届くことはなかった。

「かおる…」
 みちるはかおるの顔を覗きこむ。
「……」
 かおるはクルリと方向転換する。
 ――みちるは、かおるの手に触れた。
「帰ろう…か」
「…あぁ」
 かおるはみちるに手を引かれながら答えた。
 電車に乗り、二人は黙々と帰る。
 言葉少なく…いっそ、会話がないといえるほど。

「…ただいま」
 みちるはドアを開けながら言った。
 そんな声に、母…爽子はパタパタと二人を出迎える。
「おかえりなさい!」
 視線が一度かおるに注がれ…わずかに赤くなった瞳を見つめ。
 ――そして、みちるを見つめた。
 言葉なく。ただ、みちるを見つめた。
 …ただ、みちるを。
「何か食べる?」
「父さんが帰ってきてからでいいよ」
 みちるは上着を脱ぎながら爽子に言った。
「じゃあ、私は二階うえにいるね」
「ええ」
 かおるは階段を上り、爽子の耳にパタン、とドアを閉める音が聞こえた。

「みちる」
 爽子はみちるを見つめ、答えを求める。
『友達の家に…光兄さんが居るかもしれないんだ…』
 みちるは自らの言葉を思い出した。
「…光兄さんじゃなかったんだ」
 みちるの言葉に爽子は「…そう…」と、呟きをもらす。
 それは、かおるの様子でなんとなく想像できた。
 心から残念そうに、爽子は呟く。
 ――小さなため息がこぼれた。
「…そう…」
「オーストラリアに居て、男。しかも『かおる』という呟きをこぼしていた」
 みちるは一度瞳を閉じ、ゆっくりと開いた。
「偶然…にしてはできすぎだとは思わない?」
「…そう…ね…」
 爽子はソファに腰掛けながら答える。みちるも椅子に腰を下ろした。
「でも、光兄さんじゃなかった。そもそも、日本人じゃなかったんだ」
「…それは、光さんじゃないわね…」
 ふぅ、と爽子はもう一度ため息を漏らす。
「多分、西洋の方の人だと思う」
 金色の髪。
 日に焼けた…けれど、日本人よりも白い肌。
 ――少しくすんだ青い瞳。
 みちるの脳裏に『かおる』の姿が思い浮かんだ。

 かおるは自室に入ると、荷物を半ば放り投げ、ベッドにボフンと横になった。
 うつ伏せの状態である。
 …そして。
「……」
 唇をかんだが、『それ』を止めることはできなかった。
「…っ」
 『それ』を――涙を、止めることができなかった。
 泣かない、と。決めたはずだ。
 自分は『男』として過ごしているのだから。
 『男』はそう簡単には、泣かないものだ。
 自らを、頭の中で戒める。

 泣くな。泣くな。泣くな。

 光は、帰ってくる。
 …泣いて、どうする。自分が、信じなくてどうする。

 デ モ

 ――光が帰ってくると。自分が信じなくて…。

 ア レ カ ラ モ ウ ス グ 一 年 ガ 経 ツ …

 かおるは布団に顔をうずめた。
(本当なら…)
 光のボランティア期間は一年のはずだった。
(…本当なら…)
 そろそろ、帰ってくるはずなのに。
 光が日本を離れオーストラリアに向かったのは今から約一年前…。
 去年の四月のことだった。
 …そして。行方不明になったのがその一ヶ月後の五月。
「…ひ…」
 光、と。
 口の中で小さく呟いた。
 ――当然、答えはない。
(帰ってきて…)
 帰って、自分を。
 ――自分の名を、呼んでほしい、と。
 自分の名を呼んで…笑ってほしいと。
「…光…」
 かおるは、もう一度その名を呟く。
 そして…ゆっくりと瞳を閉じた。
 ――その瞬間。涙が頬を滑り、布団をわずかに濡らした。

 

 ぱち。
 ベッドに横になっていた男は、目を覚ました。
「? 『かおる』、具合はいいのか?」
 勢いよく起き上がった、先程頭が痛んでいたらしい『かおる』に、研は問いかけた。
 『かおる』は研の顔を見つめ、言った。
「「先程の人は?!」」
 研は一度瞬きをした。
 …今まで、――片言ながらも――日本語を喋っていた『かおる』が、英語で研に問いかけたのだ。

「「先程の人、とは?」」
 研も英語で問いかける。
 『かおる』は何度も瞬きをしながら言葉を紡ぐ。
「「思い出した…思い出したんだ」」
 研は言葉の続きを待った。
「「『かおる』という少女のことを…オレは」」
 研は目を丸くした。
 かおる、という少女?
 …かおるとは…先程家にいた、真の友人のうちの一人のことだったはずだ。
 黒髪に、黒い瞳の。
 …見た感じでは、少年のように見えたが。
(少女…だったのか?)

「「高野さん、先程の…かおるは?」」
「「お帰りになったはずだが」」
 『かおる』は頭をわずかに振った。
「「あぁ…もう少し早く思い出していれば!」」
 『かおる』に、研は問いかけた。
「「記憶が…戻ったのかい?」」
 その言葉に『かおる』は一度研の顔を見つめ、コクリ、と頷いた。

 
TOP