「「へ…? あなたが?」」
「「…そう…なんだが…」」
お互いが日本人――しかも親子――だというのに、英語で会話する二人。
光は…なんと。
ブルーと同じように。…記憶を失っていた。
「「どうぞ」」
少女は飲み物をそれぞれの前に差し出す。
かおるは機械的に礼を述べ、光と静児の会話に耳を傾けていた。
…英語は結構得意だ。
なんとなく、ではあるが。会話の内容がわかる。
「「あなたが、オレの…父さん」」
「「思い出せないか?」」
静児の言葉に光は曖昧に笑った。
「「もう半年…そろそろ一年…か。その間、記憶はもどってないんです」」
光は自分の名を少女…この部屋に共にいた、カレンという少女…に、自分の名が『ヒカリ』だということを教わったらしい。
――襲われても、身分証明書は奪われなかったため、光を『光』と示すものがあった。
「「あの…そちらの、二人は?」」
話題が自分たちのことになったことに気付いて、かおるはハッとする。
「「――思い出さないか?」」
静児の言葉に、光はかおるとみちるの二人の顔を凝視する。
かおるが口を開こうとした瞬間…光は、言った。
「「オレの…兄弟ですか?」」
あまり似てないような気もするけど…と光は続ける。
その時。
「ブラザー?!」
…英語が苦手であるみちるは言った。
ブラザーの示す意味は『兄弟』。
――なんとなく、ではあったが。光が言ったことを理解したのである。
自分たち…かおるとみちるが、光の兄弟、と。
――光が、そんなようなことを言ったと、みちるでもわかった。
「かおるは…かおるは!!」
突然のみちるの様子に瞳を丸くする光。驚いているらしい。
「みちるっ」
――そんなみちるを止めたのは。
「…かおる…」
かおる、だった。
なんで、とみちるは小さく呟く。
自分のことは…別に、構わない。
でも、かおるのことを…婚約者のことを! どうして、忘れているのだ!
「なんで…」
なぜ? …どうして?
彼だから――自分を…自分の想いを認めてくれた人だから。
…だから、認めたのに。
「「光、この二人は光の兄弟ではないよ」」
「「あ…そう、ですか?」」
確かにあまり似てないですよね、と光は続ける。
そして、カレンとかおるを見比べ、言った。
「「えぇと…カオル、といったっけ?」」
かおるを見つめる瞳は優しくて。
…でも、記憶が失う前とは違う瞳で。
かおるは自分がどんな表情をしているかわからないまま、「はい」と言った。
「「そうか。なんだか、カレンとカオルって雰囲気が似ているよね」」
そう言われたカレンは「「そうかな?」」と応じる。
かおるは何と答えればいいかわからなくて、沈黙をする。
そんなカレンを見つめる光の瞳は優しくて。
とても、とても優しくて。――記憶を失う前、かおるを見つめた瞳と同じで。
…自分を好きだと言ってくれたときと同じ瞳で。
光は今、カレンが好きなんだな、と思った。
「「では、日本には…戻らないと?」」
静児は言った。――悲しげな瞳で。
「「はい。まだ、ビザの期限は切れてないし。…それに」」
光は申し訳なさそうに言った。
「「ごめんなさい。あなたが家族だという実感が湧かないんです」」
そんな光の言葉に静児は瞳を見開き、そして…小さく笑った。
「「そうか。…はっきり言うね」」
「「すみません」」
謝る光に静児は首を横に振った。
「「変わってないよ。私の知っている“光”と。光は、自分で決めたことは変えない男だったし、曖昧な言葉は使おうとはしなかった」」
「「そう…ですか」」
静児は紙を手渡す。
「「家の…君の家の住所と、電話番号だ。用があったら…いや。用がなくても、遠慮なく連絡してくれ」」
手渡された紙を見つめ、光は頷いた。
静児はしばらく考えるようにしてから、言った。
「「たまに…一言でもいいから、手紙をくれないか」」
ここら辺に電話がないと聞いたから。
「「――生きている、と。それだけでも構わないから」」
静児の言葉に光は目を見開いた。そして、再度頷く。
「「わかりました」」
そして、かおるとみちると静児は、そこをあとにすることにした。
光とカレンが建物の外まで見送ってくれる。
「「それじゃあ」」
光が軽く手を上げた。
みちるは、唇をかむ。
…かおるを悲しませるために、オーストラリアまで来たわけではないのに。
かおるが幸せになるために、ここまで来たのに!
なぜ、どうして…どうして!
――その時、進めていた足をかおるは止めた。
振り返る。
光を見つめ、言った。
「「…キス、してもいいですか?」」
そんな言葉にかおる以外の人々は目をパチクリとさせる。
…みちるは先程までの光への怒りが吹っ飛んだ。
光は何度も瞬きをしていたが、「「いいよ」」と言った。
光は少し屈む。かおるが、キスしやすいように。
かおるの手はそっと、光の頬に触れる。
(…光…)
そして、かおるの唇が光の頬に…そっと、触れた。
「…さよなら…」
涙は、流さなかった。
――涙は…流れなかった。
大好きだよ。大好きだよ。大好きだよ。…大好き、だよ。
――生きていてくれて、嬉しいよ。
「…大好き」
光の耳元で囁く。…今の彼には伝わらない日本語で。
ホテルに向かいながら、静児は言った。
「…かおるちゃん…ビックリしたよ…」
そんな言葉にかおるは笑う。
――苦笑ではなく、かわいた笑いでもなく。本当に、笑う。
「光兄さんもビックリしてたね」
そう光の名を自分から言った途端、みちるの中で怒りが再度湧き起こる。
「…これでもう、忘れられないだろ?」
かおるの言葉に、みちるは一度瞬きをした。
――何度か呼吸を繰り返し、みちるは怒りをどうにか静める。
「――そっか」
そう言いながら、みちるは思う。
…かおるは、どうするのだろう。
みちるは思う。光を、忘れるのだろうか? …と。
静児がかおるを――光の婚約者であると――紹介しようとしたときに、かおるはそれを止めていたようだ。
(…考えても…答えはかおるの中…か…)
みちるは考えるのをやめた。
――そして思い浮かべたのは、カレンのこと。
(光兄さん…。かおるのこと忘れた、とか言ってるみたいだけど)
褐色の…黒に近い…長い髪。意志の強そうな瞳。
――カレンは、かおるに似ていた。
(どこかでかおるを覚えてるから…あの人と一緒にいるんじゃないのかな?)
みちるは空を見上げる。
つられたのか、かおるも空を見上げた。
…日本ではない空。
広く…遠く感じる、空。
みちるはどこかで願う。光の記憶が戻るように、と。
みちるは、心から願う。――かおるが幸福であるように、と。
『それじゃあ』
かおるは、手を上げて別れの言葉を告げた人を思った。
「…さよなら」
かおるは空に囁く。…届かないけれど、光に囁く。
軽く、唇をかんだ。
――今更、だった。
かおるの頬を…涙が、一筋…滑り落ちた。