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8,記憶/光

「「へ…? あなたが?」」
「「…そう…なんだが…」」
 お互いが日本人――しかも親子――だというのに、英語で会話する二人。

 光は…なんと。
 ブルーと同じように。…記憶を失っていた。

「「どうぞ」」
 少女は飲み物をそれぞれの前に差し出す。
 かおるは機械的に礼を述べ、光と静児の会話に耳を傾けていた。
 …英語は結構得意だ。
 なんとなく、ではあるが。会話の内容がわかる。
「「あなたが、オレの…父さん」」
「「思い出せないか?」」
 静児の言葉に光は曖昧に笑った。

「「もう半年…そろそろ一年…か。その間、記憶はもどってないんです」」
 光は自分の名を少女…この部屋に共にいた、カレンという少女…に、自分の名が『ヒカリ』だということを教わったらしい。
 ――襲われても、身分証明書は奪われなかったため、光を『光』と示すものがあった。
「「あの…そちらの、二人は?」」
 話題が自分たちのことになったことに気付いて、かおるはハッとする。
「「――思い出さないか?」」
 静児の言葉に、光はかおるとみちるの二人の顔を凝視する。
 かおるが口を開こうとした瞬間…光は、言った。
「「オレの…兄弟ですか?」」
 あまり似てないような気もするけど…と光は続ける。

 その時。
「ブラザー?!」
 …英語が苦手であるみちるは言った。
 ブラザーの示す意味は『兄弟』。
 ――なんとなく、ではあったが。光が言ったことを理解したのである。
 自分たち…かおるとみちるが、光の兄弟、と。
 ――光が、そんなようなことを言ったと、みちるでもわかった。

「かおるは…かおるは!!」
 突然のみちるの様子に瞳を丸くする光。驚いているらしい。
「みちるっ」
 ――そんなみちるを止めたのは。
「…かおる…」
 かおる、だった。

 なんで、とみちるは小さく呟く。
 自分のことは…別に、構わない。
 でも、かおるのことを…婚約者のことを! どうして、忘れているのだ!

「なんで…」
 なぜ? …どうして?
 彼だから――自分を…自分の想いを認めてくれた人だから。
 …だから、認めたのに。

「「光、この二人は光の兄弟ではないよ」」
「「あ…そう、ですか?」」
 確かにあまり似てないですよね、と光は続ける。
 そして、カレンとかおるを見比べ、言った。
「「えぇと…カオル、といったっけ?」」
 かおるを見つめる瞳は優しくて。
 …でも、記憶が失う前とは違う瞳で。
 かおるは自分がどんな表情をしているかわからないまま、「はい」と言った。
「「そうか。なんだか、カレンとカオルって雰囲気が似ているよね」」
 そう言われたカレンは「「そうかな?」」と応じる。
 かおるは何と答えればいいかわからなくて、沈黙をする。

 そんなカレンを見つめる光の瞳は優しくて。
 とても、とても優しくて。――記憶を失う前、かおるを見つめた瞳と同じで。
 …自分を好きだと言ってくれたときと同じ瞳で。
 光は今、カレンこのひとが好きなんだな、と思った。

「「では、日本には…戻らないと?」」
 静児は言った。――悲しげな瞳で。
「「はい。まだ、ビザの期限は切れてないし。…それに」」
 光は申し訳なさそうに言った。
「「ごめんなさい。あなたが家族だという実感が湧かないんです」」
 そんな光の言葉に静児は瞳を見開き、そして…小さく笑った。
「「そうか。…はっきり言うね」」
「「すみません」」
 謝る光に静児は首を横に振った。
「「変わってないよ。私の知っている“光”と。光は、自分で決めたことは変えない男だったし、曖昧な言葉は使おうとはしなかった」」
「「そう…ですか」」
 静児は紙を手渡す。
「「家の…君の家の住所と、電話番号だ。用があったら…いや。用がなくても、遠慮なく連絡してくれ」」
 手渡された紙を見つめ、光は頷いた。

 静児はしばらく考えるようにしてから、言った。
「「たまに…一言でもいいから、手紙をくれないか」」
 ここら辺に電話がないと聞いたから。
「「――生きている、と。それだけでも構わないから」」
 静児の言葉に光は目を見開いた。そして、再度頷く。
「「わかりました」」

 そして、かおるとみちると静児は、そこをあとにすることにした。
 光とカレンが建物の外まで見送ってくれる。
「「それじゃあ」」
 光が軽く手を上げた。
 みちるは、唇をかむ。
 …かおるを悲しませるために、オーストラリアここまで来たわけではないのに。
 かおるが幸せになるために、ここまで来たのに!
 なぜ、どうして…どうして!

 ――その時、進めていた足をかおるは止めた。
 振り返る。
 光を見つめ、言った。

「「…キス、してもいいですか?」」

 そんな言葉にかおる以外の人々は目をパチクリとさせる。
 …みちるは先程までの光への怒りが吹っ飛んだ。
 光は何度も瞬きをしていたが、「「いいよ」」と言った。
 光は少し屈む。かおるが、キスしやすいように。

 かおるの手はそっと、光の頬に触れる。
(…光…)
 そして、かおるの唇が光の頬に…そっと、触れた。
「…さよなら…」
 涙は、流さなかった。
 ――涙は…流れなかった。

 大好きだよ。大好きだよ。大好きだよ。…大好き、だよ。

 ――生きていてくれて、嬉しいよ。
「…大好き」
 光の耳元で囁く。…今の彼には伝わらない日本語ことばで。

 ホテルに向かいながら、静児は言った。
「…かおるちゃん…ビックリしたよ…」
 そんな言葉にかおるは笑う。
 ――苦笑ではなく、かわいた笑いでもなく。本当に、笑う。
「光兄さんもビックリしてたね」
 そう光の名を自分から言った途端、みちるの中で怒りが再度湧き起こる。

「…これでもう、忘れられないだろ?」
 かおるの言葉に、みちるは一度瞬きをした。
 ――何度か呼吸を繰り返し、みちるは怒りをどうにか静める。
「――そっか」
 そう言いながら、みちるは思う。
 …かおるは、どうするのだろう。
 みちるは思う。光を、忘れるのだろうか? …と。
 静児がかおるを――光の婚約者であると――紹介しようとしたときに、かおるはそれを止めていたようだ。
(…考えても…答えはかおるの中…か…)
 みちるは考えるのをやめた。
 ――そして思い浮かべたのは、カレンのこと。
(光兄さん…。かおるのこと忘れた、とか言ってるみたいだけど)
 褐色の…黒に近い…長い髪。意志の強そうな瞳。
 ――カレンは、かおるに似ていた。
(どこかでかおるを覚えてるから…あの人と一緒にいるんじゃないのかな?)
 みちるは空を見上げる。
 つられたのか、かおるも空を見上げた。
 …日本ではない空。
 広く…遠く感じる、空。

 みちるはどこかで願う。光の記憶が戻るように、と。
 みちるは、心から願う。――かおるが幸福であるように、と。

『それじゃあ』
 かおるは、手を上げて別れの言葉を告げた人を思った。
「…さよなら」
 かおるは空に囁く。…届かないけれど、光に囁く。
 軽く、唇をかんだ。
 ――今更、だった。
 かおるの頬を…涙が、一筋…滑り落ちた。

 
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