オーフォ達以外にも客がいるが、なんだか静かな気がする。
そんなことをロンダルがふと考えた瞬間に。
バンッ
宿屋の厚い扉を開ける音が、食堂に響きわたった。
一斉に音の中心に視線がいく。
その扉を開けたのは、4、50代のおじさんだ。鼻の下にヒゲがあり、髪の毛がいくらか後退している。
「あらあんた、どうしたんだい?」
物音に驚いて女将――つまりは扉を開けたおじさんの奥さん――が調理部屋から顔を覗かせた。
この、明るいとは言いがたい室内でも顔色が悪いことが分かる。
「…? あんた? 早く閉めなきゃ。燃えカスやら灰が入ってきたらどうするんだい?」
「ミレー…」
――男は。妻の名を全て呼ぶことなく、ぶっ倒れた。
「あんたっ?!」
そう言いつつ、走り寄った女将…ちなみにミレージュという…が見たモノは。
「…?! あんた、あんた? あんた?!」
動かぬ男の――自らの夫の。死体、だった。
「「「なんだ?」」」
「「どうしたのかしら?」」
一斉に食堂内がざわめく。
「……死んでる?」
オーフォが小さく呟く。
「しかし、なぜ、突然に…?」
そんなユーダの言葉に、オーフォもロンダルも首を傾げるばかりだ。
「あんた、あんた、あんたぁっ!! 目を、目を覚ましておくれよぉぉ」
自分で扉を閉めろ、と言ったくせに――こんな時に冷静に扉を閉めるような人も少ないと思うが――扉を閉めず、女将は夫の亡骸をユサユサと揺すぶる。
…そんな時…。
扉のむこうから、何かが…来た。
「あん…」
女将の言葉が、途中で無くなる。
「う、うわぁぁぁぁぁっっっっ!!!」
誰かの悲鳴が響いた。
女将の首が……無い。
ブシューッと食堂の天井まで、赤いモノが吹きだす。
それが女将の体から吹き出ている血だと理解するまで、かなりの時間を必要とした。
「……え?」
オーフォは何がなんだか分からない。
「お……」
恐怖のあまり、声がうまく出ない。しかし、努力した者がいた。
「狼だぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!」
――獣の、独特の臭いがする。
大人の…しかも、男性の…大きさは軽くありそうな狼が、入り口に立ちはだかっている。
血のように…赤い色の瞳が、食堂の食物人々を見据えた。
『 !』
その狼の咆吼が、合図だった。――殺戮の時の。
狼は群をなす。…7頭は、いる。
1頭が奥の方でこちらを見つめる3人の人間を見つけた。
年少者を助ける、という考えからか、それともその細さのためか。ユーダとロンダルがオーフォをかばうようにして、狼に対峙する。
「火、火!」
オーフォはただ、呆然としている。
――人々の叫びが。
ロンダルは手拭き用の布を(いつの間に折ったのか)椅子の脚だった物に巻き付け、どうにか照明の火をそれに点火しようと努力する。
――血の香りが。
狼にも考えがあるのか、飛びかかっては来ず、ジリ、ジリと…ゆっくりと、こちらに足を進める。
――血の赤が。
「…っ」
ユーダは何かを決心したように、大きく息を吸い込んだ。
ロンダルはいまだに火が点かぬ布に、イライラしてきている。狼はさらに、さらに近づいてくる!!
「我、緋の神に願う者」
「?!」
こんな時に、何をいきなり言いだすんだ? この男は?! ロンダルはそんなことを考えた。…火をつけることに集中できない。
狼は、飛び上がった!!!!
「点いたッ!!」
ロンダルは狼の目にめがけてそれを突こうとした。――が。
狼は軽く、それを避ける。
「我、緋の神の力を欲す者!」
そしてナイフで、自ら掌を切る。――ユーダは痛みに顔をしかめた。
だがそんなこと、気にしていられるような時じゃない。
ベタベタするその掌を天にむけた。
「赤き契約をもって、裏切ることなし。ここに来たりて、『緋』の力を欲す!」
………し――んっ
何も、変わらない。
何も、起きない。
「…あれ?」
ユーダはポソ、と呟く。
――それが、喚び起こした。
狼またもや突進!! ロンダルは思わず絶叫する。
「あんた、何やってたんだよ! くっそーっ!!」
――それを、喚んだ。
「……喚言を知る者がまだ、いたのか……」
杖を持って立ち上がったのは、庇われるべき者…オーフォである。
「おい、オー…って来やがったぁっ!」
ロンダルの口調はかなり乱れていた。
それだけ動揺していた。
命の危険にさらされていた。
――ゴオッ!!
それは火の勢いを増した音だったのか、それとも、狼の叫びだったのか。
瞬間、狼は火だるまとなっている。
「……え……?」
そう呟いたのは、ユーダだったか、ロンダルだったか。
「下がれ。……我が相手をしてやる」
静かに、ゆっくりと言う。オーフォは微笑した。