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救われた。その存在に。
あたしは、救われて――いた。

 居間のソファに腰を落ち着けた。
 自分の部屋もある。だが、今はがいるから…。

「テワンマ」
 あたしがコイツを弟だと思っていないように、もあたしを姉だと思っていないようだ。
 当然といえば、当然か…。
 別に姉と思って欲しいわけではないが。
「……」
 ボーッと、外を見ていた。返事はしなかった。
 ポンッ
 肩に、の手が置かれたのをあたしは感じた――ゾクリと、した。
「テワンマ。……返事は、どうした?」
「……何か?」
 手を払いのけようとした。が。その手はもう一方の手に掴まれ、唇で触れられた。
「――へえ、珍しいな。反抗するなんて」
 久々じゃないか…。そう続けて、肩に置いてあった手であたしの髪をグイ、と引っぱった。
「…ッ」
 痛みと、それから。唇を覆う柔らかい感触に、あたしは息を止めた。
 ――…
「たまには、いいな」
 そしては自らの唇を拭った。…指には、の血が微かに付いていた。
「もえる」
 ニヤリと唇が歪むのが、見えた。
「…イヤ、です」
 ゆっくりとあたしの目前に立ったに、言った。

 イ ヤ ダ

「どうした? ……テワンマ」
 また、唇が覆われる。の、それによって。

 イ ヤ ダ

 ――ギシ
 ソファの軋む音が耳についた。

 イヤダ、イヤダ、イヤダ、イヤダ――ッ!!!

「……テワンマ……」
 “その時”はいつも何も考えないようにしていたのに、なぜか今日は。

『お嬢さん』

 下町で会った男が、頭に浮かんだ。
「……」
 名を知りたいと思った。男の名を口にしたい。そう、思った。

 ――翌日。
 あたしは目が覚めると身を清めた。
 布に水を含め、体を拭く。顔、首、腕、足…。まだ、感覚が残っているような気がして、何度も、何度もそれを繰り返す。

 服に着替えるとき、男の言葉が頭をよぎった。
『お嬢さん、首筋キレイだから……』
 服を選んだ。下町に行くために服を選ぶなんてこと、初めてで。
 青い生地の首筋の出るデザインにした。
 朝食を食べると、下町へ向かった。
 昨日聞いた男の店のある場所は近いとは言い難かったけれど、あたしは少し、走っていた。

「…お、お嬢さん…ッ!!!」
 いた。
 結構長い間走ったせいか、ゼイゼイと息がしづらい。
「確かに……首筋キレイ、とは言ったけどさ」
 どこからかスカーフを取り出し、あたしの首もとを覆う…正確には、覆おうとする。
「な、なに…っ」
 その手を、あたしは振り払った。
 ――顔が見られない。

 コ ワ イ

 指先が微かに震えたのが分かった。

 オ ト コ ニ フ レ ラ レ タ ク ナ イ

「あ、いや。その……」
 男は言いづらそうに……。――あ。
「あの、名前、何?」
「はあ?」
 自分の用件も言い切れてないのにそんな問いをされたせいか。男はすっとんきょうな声をあげた。それからあたしにスカーフを手渡すと小さな声で。
「名前…もいいけど、お嬢さん、首んトコ、どうした?」
 そう、言った。
 スカーフは受け取ったものの、どうすればいいのか分からず、あたしは戸惑う。
「…え?」
 男は大きなため息をついて、チラ、とあたしの方を見た。
 頬…なんてものじゃなく、顔全体が、赤く染まる。
「キスマーク」
 ……キスマーク?
「覆っとけ。…変なコト考えてるヤツに見せると危ないぞ」
 首筋に…?
 ――あ。

『……テワンマ……』

 昨日のことが、思い出される。
 頭にカッと血が上った。それが、分かった。スカーフを首から肩に巻き付ける。
 顔が見られない。
 ――恥ずかしい。
 鏡を見ないという習慣はこういうこともまねくのか。

「んで、俺の名前だけど」
 パッと、話題が変わる。
 反らしていた顔を、男に向けた。
「最初は…“テ”」
「最初は?」
「そ。あててごらん?」
 つまり、問題形式ということなのか…?
「テ…」
 そう言えば自分の名前も最初が“テ”だな。そう思う。
「そういうお嬢さんの名前は?」
「え?」
「名前。お嬢さんだけが知ってるなんてずるいじゃん」
 いや、まだ分かっていないが。そう思ったが、口にはしない。
「最後は…“マ”」
「え? お嬢さんも問題形式?」
「そう」
 話題をあたしの首もとのことに戻す気はないらしい。ホッとした。
「当たったら、教えます」
 ありがとう。今言ったら、おかしいだろう。でも。
 心からそう、思った。
「ははーん。ま、頑張るか。お互いに」
 それからニッと、笑う。
「そう、ですね」
 邪気のない笑みとは、こういうものをいうのではにだろうか?
 思わずこちらも笑いたくなるような笑み。そんな笑みを、男はよくした。

 
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