彼がいなければ、あたしは。
ずっとずっと、弟のされるがままだったろう。
もう、両手では足りないほど会っていた。
そんな、ある日のこと。
「どした?」
「へ?」
あたしは聞き返す。最近テンと会うことが多いせいか。
「何が?」
敬語を使うことが少なくなった。
ヒステリーババア(母のことである)は更にヒステリックになっているが、そんなこと、知らない。そして父は、何も言ってこない。(いつものことだが)
…ちなみにテンとは、男のことだ。本当の名ではなく、呼び名である。
ヒントその1は最初が“テ”であるということ。最近だされたヒントその2は名前のどこかに“ン”があるということ。(名前の共通点が2つもあって驚いた)それらのヒントから『テン』と呼んでいるのだ。
「頬が腫れてる」
そんな言葉に、ふと、現実に引き戻された。
――頬が腫れている。
それは、弟のせいだ。
この頃、テンのことが頭から離れないのだ。
そのせいだから、なのか――弟との行為がイヤで、イヤで…たまらない。
昨日も、そうだった。
『やめ…ろ…っ』
離せ、と何度も、何度もその言葉を呟く。
『――たまの抵抗はいいけどな』
バシッ
頬が一度、熱く感じた。
しばらくすると、ヒリヒリと痛みを感じる。――叩かれたのだ。
『いつもいつも抵抗するのは、うざいんだよ!!』
バシッ バシッ バシッ
立て続けに、頬に痛みを感じる。
『何だ、その目は?』
それから、口付け。――血の味のする、口付け。
『前みたいに大人しくしてろよ!』
バシッ
「…お嬢さん」
ハッとする。気付けばテンがそっと腕をのばしていた。
ビク、と肩が震えた。体が、後退する。
ザァ――…
風が、吹いた。テンの母が帰ってきたせいか、最近会うのはもっぱら(テンの家の)近所の草原である。
「――前から口にしてイイか、迷ってたんだけど…」
「――何?」
あたしを見つめる瞳が、まっすぐで。真剣で。…そらしたくなってしまう。自分のイヤなところが見抜かれそうで。
「……」
ゆっくりと、もう一度、腕がのばされた。
ビクリとしてしまう。
「――俺が、コワイ?」
ザァッ
風が吹く。テンの不思議な色の髪が…白、ではない。灰色とも、言い難い。そんな不思議な色だ…、それに合わせて靡く。
怖くなど、ない。
そう、思うのに。
のばされた腕。触れようとする、手。それらから、体が逃れようとする。
「俺が、コワイ?」
もう一度、告げられた言葉。たまらなくて…目を、そらした。
体が震える。カタカタとこの身が震えるのを、感じる。
「ごめんっ」
え?
テンの、声。
「無理言って、ごめん」
顔を上げる。テンが辛そうな表情をしているのを、見た。
「――ごめん」
そして、背を向ける。ゆっくりと、歩き出す。
――行って、しまう。
触れられるのは、コワイ。――はっきり言って。
でも。――でも…っ
「行かないで」
体が、動いた。
その時初めて、他人に触れたいと思った。
産まれて初めて、触れたいと思った。
「――え?」
半ばあたしの口癖状態になっている言葉を、テンは呟いた。
「…ごめんっ! 触らないでっ!!」
テンの肩がピクリとした。――テンの鼓動が、聞こえる…。
ああ、自分はなんて無茶苦茶なことを言ってるんだろう。
自らテンの背中を抱きしめておいて、『触るな』なんて。
肩が震えた。指も震えた。――でも。離すことは…しなかった。
「あたし、男がコワイ。でも」
声も、震えていた。唇も、震えた。
「テンには、触れたい」
――沈黙。
一体どれくらい、そうやって過ごしていたのか。
「ありがとう」
え?
先に口を開いたのは、テンだった。
テンはあたしに触れることなく、言葉を続ける。
「男がコワイっつーのに。俺に触れてくれて、ありがとう」
言葉はちょっと変な気もしたが、この際気にしないでおこう。
「ん……」
「男がコワイならさ、お嬢さんが自分自身を守れる程度に強くなればいいんじゃないの?」
テンの言葉に、目から鱗が落ちたような気分になった。
――そうか。
「自ら強くなればいいのか」
何でこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。
「急所だけ知っとけば、大丈夫。あとはそこを思いきり殴るか何かすればよし」
そして、ニッと笑う。
「やりようによっては骨が折れるかもしれないけど。いいよ。その位当然、と思えば」
ニヤリと、テンは笑った。
――その日の夜。
ドカッ
「…っ!!」
赤い血が流れているのが見えた。――別に、構うものか。そう、思った。
ハァ、ハァ、ハァ。息が乱れる。あたしは、弟に言った。
「いつもやられてばかりだと思うなっ!!」