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あの時のことを思うと…痛い。
息をするのでさえ、罪な気がしてくる。

 下町に向かって走った。
 こんな遅くに来るのは初めてだった。――危険だとは、知らなかった。
「…ッ!!」
 つかまれたのは、腕。
「おや? えれぇ、べっぴんさんじゃねーかよ、おい」
 つかんだのは、あたしより一回り大きそうな…男。
「一人で楽しまないでこっちにも回してくれよ」
 ギャハハ、と下品に笑いをもらした男は、4、5人いるだろうか?

 コワイ、コワイ、コワイ……ッ!

 テン、テン、テン……ッ!!

『お嬢さんが自分自身を守れる程度に強くなればいい』
 ふと思い出された言葉。
『ここをやれば、即、降参するわ』
 そしてニッと笑ったテンの顔が思い出される。
『折れても構わない、くらいの勢いでやれ』

「――分かった」

 思わず、口に出した言葉。
「あー? 何が分かったの? べっぴんさん」
 息を知って、はいた。
 腕をつかんでいる手を、引き剥がすようにして、引っぱる。
「つ、ちょ…おいっ!!」
 男の指が弓なりになる。
「い、い、いてぇぇぇよっ!」
 手が、離れた! あたしは走り出す!!

「追えッ!! あのクソアマを追って、やっちまえ!!」

 あたしは走った。ただ、ひたすらに走った。
 テンの元へ、――テンの家へ。ただ、ひたすらに走った!

「お嬢さんッ!!」

 ――え?
 その声は、あたしの求めていたもの。
「こっち! 早くっ!!」
 あたしが、求めていた人の声。
「テンッ!!」
 来い! そう言って、テンはあたしに腕をのばす。
 あたしはその手を…つかんだ!
 そして共に、走る。

「あの女、どこ行った!!」
 遠くで、そんな声が聞こえた。

 ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ

 途切れることのない呼吸。
 のどが渇いたような感じ。のどの奥に血の味を感じる。

「バカッ!! こんな時間になんで来るんだよ?!」
「バカって…」
 ――確かに、愚か、かもしれないけど――
 緊張の糸が、切れた。ボロボロと涙が溢れる。

 怖かった。…怖かった。――怖かった。――…怖かった。
 その思いは言葉にできず、わけのわからない声だけがのどから押し出される。

「あー、もうっ!!」
 テンはぎゅっと、あたしを抱きしめた。
「泣くなよ! お嬢さん」
 抱きしめられていると、テンの鼓動が聞こえた。
 走ったばかりのせいか、異様に早い。
 あたしは、その鼓動を聞いて、少しだけ落ち着いてきた。
 それから、どうしてテンの元に来ようとしたかを思い出す。

『あたしへの想いは、変わってない?』

 好きだと言ってくれた、テン。
 ――兄妹と知った今も、変わらない?

 そう訊きたくて、あたしはテンの元へ、下町は来たのだった。
「テン……ッ」
「しっ!!」
 テンの手で口を塞がれた。
「テン…?」
 滅茶苦茶に走っていたら、テンの家から離れた方の道に入り込んでしまったらしい。
 あたし達がいるのは、どこかの倉庫なのだ。
「お前を追ってた奴等、来たみたいだ…」
 なるほど。耳をすましてみれば、声がする。
(――え?)
 声が、近づいてきた。

「案外こーゆー所に隠れてるかもよ?」
 ――何でそう思うんだ?!
「探してみっかぁ」

 ドクン ドクン ドクン ドクン

 スッ
 隣にいた気配が、動いた。
「テン?!」
 静かに。
 テンはそう、身振りした。
「何の用だよ」
 テンは言った。
「…こんな暗い所でなにしてんだ?」
「人の勝手だろ? おめぇら、うるさいんだよ」
「――人の虫の居所が悪いときに、いい度胸じゃん?」

(…やめて)

 そう、思った。

(やめて、お願い。テン…――無茶をしないで)
 お願い、どうか。

「引きずり出して、やっちまえ!!」
 どっ!!
 音がした。人の倒れるような音が。
「てめぇらがやられる方だろ?」
 ――テンッ!!!

 パァンッ!!!
 どごっ

「さっきの威勢はどこだ? ああ?」

 テンでない声が、そう言う。
 ばごっ

「返事してみろよ? おい」
 どうして動かないの? この、体は。
 ――どうして、いうことをきかないの?! あたしの体は…ッ!!!
「――…テン…ッ!!」

 せめて、声が出せれば。そうすれば、テンは…ッ!!

「のびやがって…」
「もーつまんねーし、行くか?」
「あーあ、服汚してくれちゃって、この男は…」
「あ、女探さなきゃな」
「そーいや、忘れてた」
 ギャハハハハ

 笑い声が続いた。声が、遠くなった。
「――…テン…ッ!!」

 声が、出なかった。
 ――体も、いうことをきかなかった。

 
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