雨は降っていた。
…変わらず、降り続けていた。
体が冷たいひみちゃん。
未来の風と睦月ちゃんの粉に包まれても、悪霊に憑かれたままのひみちゃん。
(――…氷見…!)
心の中でもう一度、名前を呼ぶ。
…その時、だった。
「水樹殿」
…閉じていた目を開いた僕の前に、いなかった存在がいた。
――幻かと、思った。だけど。
「…水樹殿。いかがなされましたか」
古くさくて、丁寧な言葉遣い。
思い浮かべたそのままの髪、瞳。…姿。
「…氷見…?」
僕の呼びかけに、氷見は微笑みで答えた。
「ひみちゃんが…ひみちゃんに、悪霊が憑いたんだ」
僕は氷見に状況を簡単に説明した。
「憑いてそのまま、離れねぇんだ」
祓おうとしてるんだけどな、と未来は続ける。
すごく、悔しそうな顔だ。
「憑いた相手が妃己だったから、体を操ることはできないらしいんだけど…」
悪霊はともかく、妃己が苦しそうなのが嫌ね、と睦月ちゃんは言った。
「…では、」
氷見は言った。――まるで、当然のことのように。
「悪霊がわたしに憑けばいいのですね」
「…氷見…」
…できれば…その方法はやりたくなかった。
氷見が、傷つくかもしれない。
氷見の…魂が。
「氷見に憑かせる…っていっても妃己――あぁ、ややこしいな。とにかく、悪霊が妃己から出てこないんだよ」
その言葉に僕は頷いた。
悪霊がひみちゃんに憑いていて離れない。
だから困ってるんだ。
僕達の言葉の後に、氷見はゆっくりと言った。
「目の前に空の器があれば、そちらに来るとは思いませぬか?」
しかも。
「等身大で…上等な“もの”です」
氷見は自分の胸に手を当てながら、言う。
「わたしが、妃己殿に入りましょう。そして、悪霊を祓いましょう」
そうすればきっと、空の器に飛び込むはずです、と。
氷見は言った。
「つまり…氷見の体に、封印するってこと?」
「そういうことですね」
氷見はそう言って、笑う。
人形に悪霊を封印すると、僕の家――弥鏡家では、人形を秘の聖水で清めてから…全て、燃やしてしまう。
魂を天に昇らせる意味で…浄化の意味で、燃やしてしまう。
当然、悪霊を封印した人形は二度と使わない。…使えない。
燃えて、なくなってしまうのだから。
「でもそうしたら…氷見の体は…?」
「使えなくなるかもしれません」
平然と、氷見は言った。
僕は言葉を失う。
氷見は人形。
人形と、魂がある。
(――体が使えなくなったら…なくなったら…魂は…?)
呆然としてしまった僕に、氷見は続けた。
「わたしは水樹殿の人形。――人形巫女の“モノ”。体が壊れようとも、使えなくなろうとも…なくなろうとも、あなたの役に立つことが喜びなのです」
自分の体がなくなってしまったとしても、喜び…?
「僕は、嫌だ…。氷見が――氷見の体が、なくなるなんて…」
「では、妃己殿はどうなされるのですか?」
氷見はゆっくりと…でも、はっきりと言った。
僕は言葉に詰まる。
「妃己殿は今、憑かれていることで苦しんでいられる。それを、水樹殿は…」
「そうだけど…!」
ひみちゃんの体は、冷たい。
雨に濡れたこともあるし…きっと、悪霊に憑かれたことも原因だと思う。
「だけど…」
「悩むことなどありません、水樹殿」
貴方は人形巫女なのだから、と。
そしてわたしは貴方の人形なのだから、と。
「むしろこれは、誇れることなのですよ。わたしとしては」
貴方の役に立てる。
「水樹殿のために、わたしは」
惜しむものなどありません、と。
氷見の言葉に僕は…ギュッと、手を握った。
「――ひみちゃんを、助けたい」
「はい」
雨、雨、雨…僕はもう、びしょ濡れだ。
少し、寒い。
――まぁ、これだけ濡れれば体も冷えて当然かな。
(僕はひみちゃんを、助ける)
…助けることができなくても、悪霊を祓う手助けをする。必ず。
――だけど…。
「だけど…氷見を失うのは嫌だ。だから…絶対に、負けるな」
――雨の勢いは、少しだけ弱まったように感じた。
氷見は人形。
表情の変化は、少ない。
だけど僕の言葉に、氷見の表情が、驚きのものへ変わったのがわかった。
「氷見、ひみちゃんから悪霊を祓って。それで、氷見の体に入り込む前に、どうにかする」
僕は未来のほうへ視線を向けた。
「未来。…頼んでも、いいかな」
「――当然!」
未来はニッと笑った。
「睦月ちゃんも、いいかな」
「任せて」
睦月ちゃんも笑顔で答えてくれる。
僕は氷見に視線を戻した。
「もし…氷見の体に悪霊が入り込んでも、氷見の体だ。絶対に、悪霊に主導権を譲るな」
諦めることは、許さない。
氷見の体を。氷見の、魂の器を。
「ひみちゃんから悪霊を祓えたらすぐに、自分の体へ戻れ」
「…強引なことをおっしゃる」
氷見は静かに言う。そんな氷見に、僕は言った。
「僕は…すごく、欲張りなんだ。ひみちゃんを助けたい。けど…氷見を失うのは嫌だ」
「本当に、水樹殿は欲張りでいらっしゃる…」
けれど、と氷見は言葉を続けた。
「そんな水樹殿だから、…お慕いするのです」
氷見はそう言って、瞳を閉じた。
…魂が、体からでるために。
「――絶対に、負けるな」
僕は言った。そして、ひみちゃんの手のひらを握る。
何もできない僕だから。…何もできない僕だけど。
ほんの少しでも、ひみちゃんが温かくなるように。
ギュッと、手のひらを握った。
欲張りなくせに、僕は何もできない。頼りっぱなしだ。
『力』が欲しい。
氷見に頼ることなく、自分自身で何かできるような『力』が。
『参ります』
氷見の声が…耳ではなく、脳に直接とどくようにして、響く。
「…頼むね」
――早くしなくちゃ。
ひみちゃんの体が冷たい。
「ひみちゃん、ちょっと…ごめんね」
僕はひみちゃんの体を起こした。
悪霊が背中から入ったのと同じで、氷見にも背中から入ってもらう。
この雨水が秘の聖水だったら…悪霊を、祓うことができたかもしれない。
(――でていけ)
僕は思った。
…強く、強く。
僕達を濡らすのは雨水だったけど、それでも…思った。
雨は、空からの恵み。空の浄水。
そう、考えることにした。
ひみちゃんの手のひらを握る。
(…ひみちゃんから、でていけ!!)
そう思った瞬間…だったと思う。
何かが、ひみちゃんの体から抜け出した。
「えいっ!!」
未来が既に呼んでくれていた風に、睦月ちゃんは黄色の粉を投げる。
悪霊にも、雨が当たっている。
…雨は、空の浄水。
「――消えろ!」
僕は言い放った。
(氷見の体に手を出すな…!)
その思いをこめて、もう一度叫ぶ。
「消えろ!」
『…ガァアアゥアアアアアッ…!!!』
最後に、そんな声が聞こえた。