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四−ⅱ

 雨は降っていた。
 …変わらず、降り続けていた。
 体が冷たいひみちゃん。
 未来の風と睦月ちゃんの粉に包まれても、悪霊に憑かれたままのひみちゃん。
(――…氷見…!)
 心の中でもう一度、名前を呼ぶ。

 …その時、だった。
「水樹殿」
 …閉じていた目を開いた僕の前に、いなかった存在がいた。
 ――幻かと、思った。だけど。
「…水樹殿。いかがなされましたか」
 古くさくて、丁寧な言葉遣い。
 思い浮かべたそのままの髪、瞳。…姿。

「…氷見…?」
 僕の呼びかけに、氷見は微笑みで答えた。

* * *

「ひみちゃんが…ひみちゃんに、悪霊が憑いたんだ」
 僕は氷見に状況を簡単に説明した。
「憑いてそのまま、離れねぇんだ」
 祓おうとしてるんだけどな、と未来は続ける。
 すごく、悔しそうな顔だ。
「憑いた相手が妃己だったから、体を操ることはできないらしいんだけど…」
 悪霊はともかく、妃己が苦しそうなのが嫌ね、と睦月ちゃんは言った。
「…では、」
 氷見は言った。――まるで、当然のことのように。
「悪霊がわたしに憑けばいいのですね」
「…氷見…」
 …できれば…その方法はやりたくなかった。
 氷見が、傷つくかもしれない。
 氷見の…魂が。
「氷見に憑かせる…っていっても妃己――あぁ、ややこしいな。とにかく、悪霊が妃己から出てこないんだよ」
 その言葉に僕は頷いた。
 悪霊がひみちゃんに憑いていて離れない。
 だから困ってるんだ。
 僕達の言葉の後に、氷見はゆっくりと言った。
「目の前に空の器があれば、そちらに来るとは思いませぬか?」
 しかも。
「等身大で…上等な“もの”です」
 氷見は自分の胸に手を当てながら、言う。
「わたしが、妃己殿に入りましょう。そして、悪霊を祓いましょう」
 そうすればきっと、空の器に飛び込むはずです、と。
 氷見は言った。
「つまり…氷見の体に、封印するってこと?」
「そういうことですね」
 氷見はそう言って、笑う。

 人形に悪霊を封印すると、僕の家――弥鏡家では、人形を秘の聖水で清めてから…全て、燃やしてしまう。
 魂を天に昇らせる意味で…浄化の意味で、燃やしてしまう。
 当然、悪霊を封印した人形は二度と使わない。…使えない。
 燃えて、なくなってしまうのだから。

「でもそうしたら…氷見の体は…?」
「使えなくなるかもしれません」
 平然と、氷見は言った。
 僕は言葉を失う。
 氷見は人形。
 人形からだと、魂がある。

(――体が使えなくなったら…なくなったら…魂は…?)

 呆然としてしまった僕に、氷見は続けた。
「わたしは水樹殿の人形。――人形巫女の“モノ”。体が壊れようとも、使えなくなろうとも…なくなろうとも、あなたの役に立つことが喜びなのです」
 自分の体がなくなってしまったとしても、喜び…?
「僕は、嫌だ…。氷見が――氷見の体が、なくなるなんて…」
「では、妃己殿はどうなされるのですか?」
 氷見はゆっくりと…でも、はっきりと言った。
 僕は言葉に詰まる。
「妃己殿は今、憑かれていることで苦しんでいられる。それを、水樹殿は…」
「そうだけど…!」
 ひみちゃんの体は、冷たい。
 雨に濡れたこともあるし…きっと、悪霊に憑かれたことも原因だと思う。
「だけど…」
「悩むことなどありません、水樹殿」
 貴方は人形巫女なのだから、と。
 そしてわたしは貴方の人形なのだから、と。
「むしろこれは、誇れることなのですよ。わたしとしては」
 貴方の役に立てる。
「水樹殿のために、わたしは」
 惜しむものなどありません、と。
 氷見の言葉に僕は…ギュッと、手を握った。
「――ひみちゃんを、助けたい」
「はい」
 雨、雨、雨…僕はもう、びしょ濡れだ。
 少し、寒い。
 ――まぁ、これだけ濡れれば体も冷えて当然かな。
(僕はひみちゃんを、助ける)
 …助けることができなくても、悪霊を祓う手助けをする。必ず。
 ――だけど…。

「だけど…氷見を失うのは嫌だ。だから…絶対に、負けるな」
 ――雨の勢いは、少しだけ弱まったように感じた。

 氷見は人形。
 表情の変化は、少ない。
 だけど僕の言葉に、氷見の表情が、驚きのものへ変わったのがわかった。

「氷見、ひみちゃんから悪霊を祓って。それで、氷見の体に入り込む前に、どうにかする」
 僕は未来のほうへ視線を向けた。
「未来。…頼んでも、いいかな」
「――当然!」
 未来はニッと笑った。
「睦月ちゃんも、いいかな」
「任せて」
 睦月ちゃんも笑顔で答えてくれる。
 僕は氷見に視線を戻した。
「もし…氷見の体に悪霊が入り込んでも、氷見の体だ。絶対に、悪霊に主導権を譲るな」
 諦めることは、許さない。
 氷見の体を。氷見の、魂の器を。
「ひみちゃんから悪霊を祓えたらすぐに、自分の体へ戻れ」
「…強引なことをおっしゃる」
 氷見は静かに言う。そんな氷見に、僕は言った。
「僕は…すごく、欲張りなんだ。ひみちゃんを助けたい。けど…氷見を失うのは嫌だ」

「本当に、水樹殿は欲張りでいらっしゃる…」
 けれど、と氷見は言葉を続けた。
「そんな水樹殿だから、…お慕いするのです」
 氷見はそう言って、瞳を閉じた。
 …魂が、からでるために。
「――絶対に、負けるな」
 僕は言った。そして、ひみちゃんの手のひらを握る。
 何もできない僕だから。…何もできない僕だけど。
 ほんの少しでも、ひみちゃんが温かくなるように。
 ギュッと、手のひらを握った。
 欲張りなくせに、僕は何もできない。頼りっぱなしだ。
 『力』が欲しい。
 氷見に頼ることなく、自分自身で何かできるような『力』が。

『参ります』
 氷見の声が…耳ではなく、脳に直接とどくようにして、響く。
「…頼むね」
 ――早くしなくちゃ。
 ひみちゃんの体が冷たい。
「ひみちゃん、ちょっと…ごめんね」
 僕はひみちゃんの体を起こした。
 悪霊が背中から入ったのと同じで、氷見にも背中から入ってもらう。
 この雨水が秘の聖水だったら…悪霊を、祓うことができたかもしれない。
(――でていけ)
 僕は思った。
 …強く、強く。
 僕達を濡らすのは雨水だったけど、それでも…思った。

 雨は、空からの恵み。空の浄水。

 そう、考えることにした。
 ひみちゃんの手のひらを握る。
(…ひみちゃんから、でていけ!!)
 そう思った瞬間…だったと思う。
 何かが、ひみちゃんの体から抜け出した。
「えいっ!!」
 未来が既に呼んでくれていた風に、睦月ちゃんは黄色の粉を投げる。
 悪霊にも、雨が当たっている。

 …雨は、空の浄水。

「――消えろ!」
 僕は言い放った。
(氷見の体に手を出すな…!)
 その思いをこめて、もう一度叫ぶ。
「消えろ!」

『…ガァアアゥアアアアアッ…!!!』

 最後に、そんな声が聞こえた。

 
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