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「…何にも起こらないねぇ。とうとう、卒業だよ」

 ふみはぼーっとしながらそう、呟く。
「何も起こらない方がいいじゃん」
 ふえはその言葉にぼそっと答えを返した。

「でもさっさと話をつけるなら、つけたくない?」
「まぁ、それもそうだけど…」

 本日三月十七日。入試試験は一週間前に終わり明日は卒業式。明後日は合格発表だ。
 笛が手元にきてからすでに三ヶ月。
 あのあとから歌澄に会うこともないし、笛を使ったということもない。

「はぁ、卒業かぁ…」
 二人のカバンの中には一応、笛が待機(?)している。
「卒業だぁねぇ」
 まるで渋いお茶を飲んだ人のようだ。
「…ふえ、ばばくさい」
 ふみは思わずつっこみをかました。
「気にするな」
 ふみのつっこみに、笛は淡々と応じた。

 

 月の光がカーテンの隙間から入り込んでくる。

「ん…」

 ふみは目を覚ました。
 正確にいえば、眠れていなかった。
 枕元の時計を見てみれば、すでに十二時をまわっている…だが、眠れない。

(ふえは今ごろ何してるだろー…まぁ、寝てるか)
 ふみは起きあがり、カバンに入っている自分の笛を取り出した。
 カーテンを開け、月の光にあてる。

「――…っ」

 ふいに、『気』を感じた。悲しい、『気』…鬼の気。

 ふみは笛を持ったまま自分の部屋をそっと、後にする。
 怖い、などとふみは思わなかった。月光で外は明るく、ふみには心強い味方、笛を持っていたから。

 

 月明かりが夜の住宅地を照らす。
 …時間が時間なだけに、人の姿はない。

 元々は田んぼだった、空き地の方からその『気』を感じた。
 空き地に踏み入る前に、笛に息を吹き込む。
 ――生まれて初めて横笛を吹いたが、全然違和感などがない。

 ――……

「…――」

 ふみの音色にもう一つの音が重なった。

 ふみと同じようで…けれど、違う音色。
 …ふえの奏でる、音色。

 久方ぶりの…生まれて始めての、二人の合奏。

 ――久方ぶりの所為なのか…鬼は、昇天をしない。
 鬼はうなり声をあげてこっちを見た。

「――っ!!」

 

 鬼が襲いかかってくる!

 

 ふみを庇うように立つふえ。
 ふみが声にならない叫びを上げる――…
 その時。

 

 風が吹いた。

 

 男が突然、二人と鬼の間に立つ。
 後姿の男は、舞を始めた。

 ――炎のような舞。
 それは、ふみが…ふえが――魅笛が…獅笛が知る『天召舞』に似ても似つかない舞。
 けれど舞っているのは…。

「…舞翔さん」

 ふみは思わず声を上げた。
 鬼が消える。
 …昇天したのではない。消されたのだ。
 ――最後に、小さな叫び声がする。

「…ぶ…しょう…さん…?」

 ふみはどこかで『歌澄の言っていることは勘違いなのだろう』と思っていた。

 男は――舞翔は、振り返る。…昔と変わらぬ姿で。
 そして、舞を始めた。
 …先程の、鬼を消したのと同じ舞を。

「ふみ、危ない!」

 ふえはどんっとふみを突きとばす。
 突きとばしたからといって、ふみが安全なわけでも、ふえが安全なわけでもなかった。もちろん、対抗策が思いついたというわけでもない。
「う…うわぁっっ!!」
 ふえが痛みで声を出す。道沿いに声が響く。

「ふえ!」
 ふみは大丈夫だった。ふえの声を聞いて、顔が青ざめる。

 …舞翔ではないのだ。
 ――ふみが…魅笛が、獅笛が知っている…舞翔では、ないのだ。

 ふみは笛をもう一度吹きだした。曲は先ほどと同じ『昇天曲』。
 舞翔はふえからふみに視線を変えた。

「ウ ル サ イ」

 低い声と共に…再び舞い始める。
 ――ふえに対してやった舞と同じ舞を、ふみに対しても…
「――ふみ…っ」
 半ば声を掠れさせながら、ふえはふみに呼びかける。
「きゃー…っ!!」
 ふみは、悲鳴をあげた。

 痛い、痛い、痛い!
 まるでふみの体中に炎が絡みつくようだ。
 実際に、燃えているわけではない。
 ふみの…ふえの瞳に、炎は映らない。
 熱が絡みつく、と言うのが近い。ぐるぐると曲線をえがき、足下からゆっくりと上がってくる。

 …まだ、腕は大丈夫だ。
(笛を吹かなくては!)
 ふみは一度おろしてしまった腕をもう一度口元に持ってくる。

 体中が悲鳴をあげていた。
 今まで体験したこのない苦痛。
 ――けれど。

(舞翔さんをどうにかして、ふえを助けなくては…!!)

 大事な友達。小さいときからの大事な親友。
 音が、出た!

 熱は、今でもじりじりと上がってくる。
 熱い…痛い、痛い――苦しい…!!

 フエヲタスケナクテハ

 ヒュー
「!」
 もう一つの音が重なった。

 苦痛に歪んだ表情の…ふえ。
 ふえもまた、ふみと同じように『天昇曲』を奏でる。

 そして…
「――…っ!!!」

 優しい、優しい声が響いた。

 なぜ、という思いと…まさか、という思い。
 その声は母のような、優しい、声。
 …歌澄の、歌声。

 

 ふみは…ふえは、演奏を止めてしまっていた。
 けれど…笛の音は、もう必要ないようだった。
 ――舞翔の動きがだんだんとゆっくりになっていく。

「――歌澄…様?」

 舞翔は、呼びかける。
『舞翔…』
 歌澄もまた、舞翔を呼びかけた。
 そっと、舞翔の頬に触れたのが見える。

 ふみははっとして、ふえのもとに行った。
 さっきまでの痛みが嘘のようだ。全然痛くない。
「大丈夫?」
 …痛みがないのは、ふえも同じだったらしい。
 頷き、立ち上がって――舞翔と歌澄のへと、視線を向けていた。
 ふみもまた、視線を舞翔と歌澄へと向ける。
 …蒼樹は、いない。

「歌澄さま…」
 ――舞翔の頬に涙が伝う。
 月明かりに、彼の頬が濡れているのが見えた。

 アイタカッタ
 ――声のない呟き。
 なのに…ふみとふえに、その思いコエがとどいた気がした。

「歌澄さま…」
 ――二人の声が、重なる。
『舞翔…なぜ?』
「歌澄さま…なぜ」
 アノトキニイッテシマッタノデスカ?
 ――舞翔は、その後は声にならず…唇がそう、かたどる。

 歌澄は舞翔の問いかけに瞬いた。
 瞳を、閉じる。

「あなたの側にいると、誓いました。あなたも共にいてくれると約束してくれました」
 ナ ゼ
 ――舞翔の問いかけに、歌澄はゆっくりと瞳を開く。

『…恋を、してしまったから』

 歌澄の答えに、舞翔の目が見開かれる。
『私は使命を忘れて…捨てて。その人と共にいってしまった』
 ――浅さかな者。

 歌澄の声に…言葉に、答えに。
「…恋をした…」
 …舞翔が呟く。
 その目に、生気はない。

 しばらくの、間。
 しばらくすると…舞翔は、声を押し出すようにして歌澄に問いかける。
「幸せですか? …幸せでしたか?」

 舞翔の問いかけに、歌澄は応じた。――静かに。
『…ええ。今でも』
 けれど…確かに、応じる。

 歌澄の答えに、舞翔は再び涙を流す。
 歌澄の腕をとり、手に口づけをした。

「誰よりも、何よりも…」

 スキデス

 …風が吹いた。
「――…っ!!」
 ふみとふえは――声を、失う。

 舞翔が消え始める。
 …まるで、風化するように――…。

 ――カラン…

 白い物が、音をたてて地面に落ちた。
 もう一度風が吹くとそれも…風にとけ込むようにして、消えた

 

 舞翔は――歌澄と、歌澄への想い以外、全てを忘れていた。
 自分のすべきこと。…自分の仲間。年をとること。
 そして…『死』を。

 

 スキデス

 
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