「あーもうっ! 道間違えちゃったぁ!」
(おや?)
女の声がした。藍は声のした方向を見つめる。
――藍の視線の先には。
「――!!」
藍が気にして追ってきた、バニーちゃんが走っていた!
(おおっ、落ちてたのか!)
バニーちゃんが姿を消したわけではなく、藍同様、この穴へと落ちていたらしかった。
藍は、またもや走り出す。
もちろん、バニーちゃんを追うためだった。
+++++
バニーちゃんは突然立ち止まった。
バニーちゃんが立ち止まったのは、なんというか、簡易ハウスみたいな建物の前だ。
藍は思わず、岩陰に身を隠す。
「すいませーん、急いでるんです!」
バニーちゃんはそう言いながら、建物の誰かに何かを手渡す。
「おや、バニー」
どうやらウサギ耳に網タイツをはいた女の名は『バニー』らしい。
本名ではないかもしれないが…そのまんまである。
「時間がヤバイのー」
「あー、ハイハイ…」
建物にいた誰か…声からして男らしい…が突然、藍のいる方向を見つめて、言った。
「誰かいるのか?!」
(え゛っ)
藍は岩陰でビクリと反応する。
男は自分のことを言っているのだろうか。
「あれー。今日は、あたしくらいしかここから出てないはずだけど? 確か」
「確かと言うか、実際そうだ。ここから出られるのは1日に1人しかいない」
男はそう言いながら、建物から出てきた。
「よねー?」
会話を聞きながら、藍は思った。
…これはもしや。
(見つかったらかなりヤバイッ?!)
藍の心臓は早鐘を打つ。
…身を隠すところは、この岩陰以外にない。
男は着々と近付いてきている。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう…ッ)
藍はふと、ミステリージュースのことを思いだした。
(『透明人間ぽくなれる』ジュース…)
…一か八かだった。
もしかしたら、ここに書かれた言葉は嘘で、藍の体に何も効果をもたらさないかもしれない。
――だが。
(何もしないよりは、マシなはずだっ!!)
藍は蓋を開け、一気にミステリージュースを飲み干す。
「ここかっ?!」
(うわあっ!!!!)
岩陰からは、男の顔が見えた。
そして藍は声をあげた…はずだった。
「…気のせい、か?」
――続いた言葉に藍はゆっくりと瞬く。
(…え?)
「ねー、なんにしても、早くしてー」
「あ、ああ」
男はバニーの元に戻っていく。
藍に気づく様子は微塵もなく。
(ほ、本当…だったんだ…)
藍は大きく息を吐き出した。
手を持ち上げる。――藍の手があるであろう場所を、見つめる。
…見えない。
(見つからなくて、よかったー…)
今度は小さく、息を吐き出した。
そして、バニーと男のやりとりを見つめる。
「いよーし、正真正銘バニーだな」
男はバニーから受け取った何かを見ながら頷く。
「あたし以外の誰だって言うのよ」
唇を尖らせるバニーに「…もう1人いるだろうが…」と男はため息交じりに言った。
「あ、それもそうね」
けろっと納得したバニーの様子に男はがっくりと項垂れた。
「…じゃあ、開けるぞ」
「ハーイ」
男はそう言うと、建物の中を覗き込む。
(何を開けるんだ……?)
どう見ても、バニーや建物の近くに開ける物などなかった。
あえて言うなら、建物のドアくらいか。
「黒、準備完了しました」
建物の中にまだ人がいたのか、女性の声が藍の耳に届く。
「よし。では、頑張れよ」
「ハーイ」
――と。
(――!?)
穴が、空いた。
縦に3m、横に10mはあるように見える、横長の穴だ。
…そこには、岩壁があるだけだったはずなのに。
(えええっ?!)
しかも穴のむこうには、何かが見える。
――明るい光だ。
「じゃあ、またねー」
「ああ」
バニーは穴の中に入り込んでいった。
(あ、行っちゃう!)
藍は全力で走り出す。
藍はその穴が閉じきる前に、その光りの世界に入った。
+++++
肩で息をしながらバニーを追いかけていた藍だったが、バニーを途中で見失ってしまった。
「どこいったんだー?」
藍は思わず呟く。
そして、木の根元に腰を下ろした。
ゆっくりと深呼吸をする。
我知らず自分の手を見下ろした。…見える。
いつの間に透明人間ではなくなっていたらしかった。
(…ところでおれ、ここからどうやって帰ればいいんだろう…)
どうやら、藍が入ってきたところは見張り番がいるらしいし。
だからといって藍が入ってきたところから自動販売機の前を行って、穴を上るというのも…無理そうだ。
穴は見えなかったのだから、ここはかなり地底深くだろう。
「んー、どーしよっかなー…」
藍がそう、考えだした時。
「…おや」
頭上で、声がした。
「へ?」
空耳だろうかと藍は立ち上がり、木の上を見つめる。
…と。
「見かけない人間がいる…」
「うわっ?!」
今度は、藍の耳元でその声がする。
振り返った。姿は、見えない。
「え、えぇ…」
…しかし、空耳なんかじゃなかったはずだ。
話す時の――吐息も感じた。
「…私がわからないのか?」
藍の反応からか、そんな疑問の声が聞こえる。
「わかんないよっ! 姿が見えてないじゃんっ!」
――声の正体がわからないまま。
藍の背筋に冷たいものがつたった。
この声の正体は一体何者なのだろう?
(もしかしておばけっ?!)
つい先程まで自分も透明人間だったくせに、藍はそんなことを考えた。さらに背筋の凍る思いをした。…のだが。
「…ああ。それは、そうだな」
そんな声が再び耳元で聞こえた。
「ふひゃっ!!」と妙な声を上げる藍に対し、聞こえる声は淡々とした冷静に思えるもの。
「…これで、わかるか?」
――そして。
藍の前に突然姿を現したのは、スラリとした肢体の女だった。
猫耳と長いしっぽがついている。
凛とした印象の、なかなかの美人だといえた。
「どうした?」
猫耳や長いしっぽに目を奪われている藍。
「…おい」
次の瞬間、美人がアップになって藍の視界を埋める。
「うわぁっ!!」
藍は叫んで思わず、数歩後ずさる。
背中に木があたった。
「? なぜ、そんなに驚く?」
心底不思議そうな声音で問いかけらたが…突然自分の目前に異性の(しかも美人な)顔があったら、誰だって驚くだろう。きっと。
「い、いや、ごめん」
しかしなぜか謝る藍。
「何か探しているのか? 知っていたら、教えてやるぞ」
「あー…うん」
心臓の行動が微妙に早さを増している。
「あのさ、ウサギ耳をつけて網タイツをはいた人見なかった?」
藍の問いかけに猫耳(と、しっぽ)の女は数度瞬いた。
「ウサギ耳に網タイツ…? ああ、バニーのことか」
先程、此処に入る前に「バニー」と呼ばれていた。
美人の言う『バニー』はきっと、藍が追っていたウサギ耳だ。
「見た?」
「見たが…なぜ、探している?」
「え、あ…いやー…」
美人の切り返しに、藍は答えに詰まった。
なぜ、と聞かれても。
(なんで追いかけてたんだっけ…?)
そう、自分に問うしかないからである。
しかも答えが浮かばない。
「あ!」
藍は閃いた。
問いかけに対する答え…バニーについてではなかったが。
「あのさ、ここから地上に出るにはどうやっていけばいい?」
「…また、唐突に話題が変わったな」
女はそう言いながらも、考え込むように瞳を閉じた。
そんな女の顔を見ながら、藍は『キレイだなー』と見惚れてしまう。
「まず、女王に会うことだな」
言いながら、瞳が開かれた。
――まっすぐな瞳。
「じょ、じょじょじょじょじょ、女王?」
藍はしどろもどろになりながら聞き返す。その様子は動揺し過ぎである。
「ああ。女王のもとに行くには…やはり、バニーを追うのが一番利口だな」
藍の動揺っぷりを気にする様子なく、女は淡々と応じる。
「女王様に会って、どうするの?」
「出国手続きをする」
当然だ、と言わんばかりに女は言った。
「出国手続き?!」
(ここは国だったのか! …地底国ってヤツか?!)
藍は一人衝撃を受ける。
「…そう言えばお前、外国人だろう? どうやって入った?」
「ど、どうや…って…って…」
女の切り返しに思わず口ごもる。
――藍はある種の不法入国者だ。
透明人間になって、検査(?)されずにここに入ってきたのだから。
「え、えぇとぉ…」
なんと言おう?
真っ直ぐな女の視線から逃れるように、視線を地面へ落とした。
「まぁ、どうでもいいことだが」
あっさり。
女は話題を切り替える。
「バニーは大抵、いかれ帽子屋のティーパーティーで休憩している…どうした?」
淡々と情報をくれる女はがっくりとうなだれている様子の藍を見て、首を傾げる。
藍は首を横に振り『なんでもない』とジェスチャーしつつ、思った。
(オレの気苦労は一体…)
心情では滂沱である。
「…その、いかれ帽子屋のティーパーティーをやっている場所は?」
「私はのどが渇いている」
女はそう言った。
藍は「え?」と首を傾げる。
――まさか。
(おごれとか言うのかなっ?!)
現在の藍は所持金ゼロ。おごりたくともおごれない…と、そんなことを考えた瞬間、もっと恐い想像をしてしまった。
(きゅ、吸血鬼かなんかで、おれの血を飲ませろ、とか言ったりして…ッ?!)
恐い想像ではあるが、飛躍しすぎの想像である。
まぁ、その女は人外のモノといってもなかなか美しいため、納得できそうではあった。
だが女は藍の様子を気にせず、次の言葉を発したのである。
「いかれ帽子屋の所に行こうと思っていたところだ。案内してやろう」
「あ…んない?」
「いらないか?」
女はゆっくりと問いかけた。
「あ、ううん! いるいる!!」
藍は大きく頷き、ホーッと息を吐き出した。
(よかった、おれの血吸われなくて……)
そこなのか。
「行くぞ」
「あ、うん」
藍は長いしっぽの後について行く。
「あ、そうだ」
藍は唐突に思いつき、女の肩を叩く。
「なんだ?」
女は一度立ち止まり、言った。
「おれ、藍。あなたは?」
名を名乗ることにしてみた。
「私はチシャ猫だ」
チシャ猫…。
はて、どこかで聞いたことがあるぞ、と藍は思った。