すっかり頬の腫れが引いた紅が、小さく言った。
「今日が遺産継続だな…」
「そうだね」
長かった…わけじゃないけど、そう感じたなぁ、と藍は腕を大きくのばした。
今回守護する人物…風間彩花は、只今船上の人である。
「あの後何人来たっけ?」
あの後とは、カサブランカをノックアウト(?)させてから、ということである。
「…」
紅は黙って指を折り始めた。右手がグーになった頃、紅はボソッと「5人…か?」と言った。
「まー。よく諦めないこと…」
藍はそう言ってあくびをかみしめる。
そうした瞬間に、藍の視界が一気に狭くなった。
「?!」
藍は硬直した。
なぜならば藍が押し倒されたからである。…もちろんその犯人は藍の相棒である紅だ。
「え、な…な?!」
にを…と続くはずだったが、紅の長い指にさえぎられた。
硬直の上、赤面である。藍の肌が見えるところ全てが、赤くなっていた。
「彩花がこっちを見ている。ばれるとまた、面倒だろう?」
しかし、しかし、しかし、しかし…っ!!
(紅って、いい匂いがする…っ)
藍はそんなことを思ってさらに赤面した。
(ってオレ、何考えてるんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!!)
藍は自分の手で頭をかきむしる。
「? どうした?」
藍の心の葛藤(?)など露ほどにも知らず、紅は平然と言った。
「……そ、そろそろどいてくれないかなー、なんて」
エへ、と藍はふざけた様子を見せながらも、心臓バクバクである。
「あ、悪い」
そう言って、そっと紅はどいた。
藍は彩花を見つめている紅を見ながら、ふと思った。
(…紅って、ナイスバディ?)
「のあっ!!!!!」
――そしてまた、のたうちまわる。
紅はそんな藍の様子を見て小さく首を傾げた。
「…気のせい?」
彩花は呟いた。人影を見たと思ったのだ。
だから疑問に思ったのだ。今日みたいな平日に船を利用する者など(生徒では)自分くらいであろうに、と。
(しかも…似てたのよねー…なんとなく)
そう思った自分に、多少腹が立つ。
(久井香子…)
フルネームでその名を考えて、グッと、唇を噛んだ。
――なぜ、こんなにも、と。
「キライ…な、はずなのに」
どうしてこんなにも、気にかかるのだろうか?
キライならば、考えなければいい。そう、思うのに。
なぜ…?
彩花は港に降り立つと、小さく伸びをした。
到着! で、ある。
彩花の自宅まで、車で1時間ほどだ。
しかし。迎えの車が、ない。
「お迎えに上がりました」
…いかにも、な黒塗りベンツ。
彩花に向かって深々と頭をたらしているのは…黒いスーツにサングラス、の長身の男である。
「…やーさんみたい…」
遠くでその様子を観察しつつ、藍はこっそりと呟いた。
紅もその意見に賛成だ。
だがそんな男を無視している彩花。
「…? 彩花さま?」
男は一歩、彩花に近づいた。
「失礼ですけど」
彩花はすっと、胸を張った。
「私はあなたを存じません。橋倉さんはどうしたんですか? 橋倉さんが迎えに来てくれるはずです」
橋倉とは、風間家に仕えている運転手である。
「? なんか、様子がおかしくない?」
見つからないよう、姿が見える程度の所にいるのだ。声など聞こえない。
「…そうだな」
紅がすっと目を細めた。
「橋倉の代わりに、私が」
「あなたを知りません。車を知りません。よって、私は乗るわけにはいきません」
ピシャリと、はねつけるように。彩花はきっぱりと言い切った。
「…乗れッ!!」
「?! ちょっ!!」
何をっ!
そう言いたかった。だが、彩花は車に押し込まれ叫んでも車中に響いただけだった。
「! やられた! あいつ…っ!!」
藍が叫び、走る。
「どうしよう…っ!! って、紅ッ?!」
おいっ!
藍は一人で叫んでいたことになる。なかなか恥ずかしい。
でも本当に…どこ行った?
――と、その時。
「藍ッ!! 乗れッ!!」
「………へ?」
銀の車。それの運転席には…。
「紅――?!」
なんで?!
藍は叫ぶようにして問うた。車の運転席で紅がハンドルを握っていたからである。
「驚くのはいつでも出来る! …早くしろっ!!」
んなこと言われたって…ッ!!
藍はそんなことを思いながら、車に飛び乗る。
乗ってドアを閉めようとしたとたん、車発進。
「のわっちっっっっっ!!」
顔が真っ青な藍。
「きちんと捕まれ!! 行くぞっ!!!」
こういう場合、助手席に座るべきなのだろうが。
キキキキキキキキキキキキキッッッ
がんっ!
「…いたひ…」
窓ガラスに頭を思いっきり打ち付けた藍。
…とてもじゃないが移動なんてする気になれない。
「ハ、ハハハハハハ」
藍はシートにガシッとつかまる。
黒塗りのベンツには、着々と近づいていく。
(紅って、運転のセンスあるんだっ! すごーいっ!)
藍は感心した。
こちらの車の様子に気付いてか。ベンツはぐ、とスピードを上げた。
「させるか…っ!!」
紅は呟くと、アクセルを踏み込んだ。
一気に並ぶ。
「藍…行けるか?!」
それは、飛び移れるか、という問い。
「…これはやらなきゃ男じゃないっしょっ!」
先程までびびっていた藍はどこへやら。不敵そうに微笑み、ドアに手を掛けた。
ゴ… ゴゴ…
スピードと風で、ドアが閉まりそうになる。
紅は1度ベンツよりスピードを速めた。ベンツの斜め前に出た状態である。
「…よっ!!!」
ダンッ
とりあえず、ベンツにしがみつくのは成功! 藍にはちゃっちゃと気付いたらしく、振り落とそうと右に左にと車が揺れる。
ドンッ!! ドンッ!!!
ついでに紅の方も潰してしまおうという魂胆があるらしい。何度も何度も何度も、ベンツはカリブに体当たり(?)をかます。ガードレールにあたると、頭が痛くなるような凄い音がそこら中に響きわたった!
藍は中を覗き込んだ。
後ろに2人…と、彩花。運転席に1人。
そんな様子を見て、彩花の左隣に座っていた男がニタリと笑った。
窓が、開く。
「首をのばしたのが命取りだったな」
そう言って、藍の頭を掴んだ! そのまま、引きずり落としてしまおうということらしい…!
「く…」
今度は振り落とされないように、と窓枠に掛けている手を、男は拳で叩きつけた!
藍はギリ、と食いしばる。
しかし手の方に神経が集中したらしく、首にかけられた掌を払うことができた。
再度、打ち付けようとした手首を掴み、今度は藍が思いきり引く。
…ゴキ
手に、感触があった。
藍は少し、顔をしかめる。
「いてええええええっっっ!!」
男の絶叫が車内に響いた。
本当に痛ければ、そんなことも言えないはずだと藍は心の中で呟く。
もう一度中をチェック。藍はピアスを武器に変化させ、全身硬直のツボにそれを打ち込んだ!
「……!」
声を出すことのできない、苦痛。
「彩花ちゃん、顔、隠して!」
何がなんだか分からなかったが、彩花は顔を自らの腕の中に埋めた。
彩花は今、かなり混乱している。
(なんで? なんで? なんで?!)
ガキンッ!!
ガラスの割れる音が、右側から聞こえた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!」
彩花の右側に座っていた男の声が、聞こえた。叫び声と言えた。
藍は窓ガラスを蹴り破ったのだ。
「このガキ共め…っ!!」
運転している男が低く呟く。また、ハンドルを何度も何度もきり始めた。
彩花は車に入り込んでから間もなくこういう状態になったため、目隠しをされていたりとか縛られていたりとか、そういうことはいっさいされていない。
「…っ」
破片が彩花の元にも飛んできたらしい。手の甲が微かに痛い。
(なんなの? なんなの? なんなの…?!)
頭の中の整理が、つかない。
この顔は…それに、どう考えてもあの顔は。
久井嵐人ではないか!
「あんたものびてな」
嵐人の声が彩花の耳元に響いた…ような気がした。
「うわっ!!!」
今度は前の男が叫ぶ。
目前には車の妨害をするためにとしか思えない大型トラックが道路と垂直に止まっていた。
キキキキキキキッッッ!!!!
…
「間に合った…か?」
あれだけのスピードを出してて、よく止まることができたな、と男は小さく呟いた。すると…。
「ご苦労さん。目前にして止まれたところは、誉めてあげるよ」
――トンッ
「ご褒美に、全身硬直させてあげるね」
んな褒美いらねぇっ! …と、男は思ったことであろう。多分。
「彩花ちゃん、大丈夫?」
彩花の右隣の男にパンチをくらわせ、ネクタイで男の手を縛り上げると藍は言葉をかけた。
「………なんで?」
んにゃ?
藍が首を傾げると、タイミングを計らったかのように紅が顔を出す。
「大丈夫か?」
「何であなた達2人がこんなところにいるのっ?!」
彩花の声が車内に響きわたった。その声は車内にいた藍はもちろん、顔を出した紅にもダメージを与えた。
「…とりあえず、彩花ちゃんの家に行こう? 大事な用事があるんでしょう?」
藍が微かに微笑みながらそう言った。…が。
「ちょっと、あたしの質問に答えない気?!」
――と、かなり反抗的な態度をとられたのであった。