ソシラとはミルティエの家の前で別れた。
夕焼けの色が刻々と闇色に変わっていく。
…いい加減に家に入らねば、さらにひどい目に遭いそうだ。
憂鬱な思いを拭いきれないまま、ミルティエは我が家へ向かう。
「ただ今戻りました」
小さな炎がすでにユラユラと玄関を照らしだしている。
ミルティエは室内履きに履き替え、自分の部屋に向かおうと足を進めた。
――正確には、進めようとした。
「――ミルティエ」
低い声に、鼓動が早くなる。
それは…聞きたくない声。
「――…」
――今宵、あるのは痛み。
それを見て楽しみ、それを考えた男…ミルティエの父、アルラス。
ミルティエは我知らず、胸元を抑えた。
自らの呼吸を整えるように、呼吸を繰り返す。
――うまくできず、浅いものをなってしまう。
「…なんでしょうか、父上」
口の中が渇き、声が掠れた。
――そんなに遅くには帰っていないはずだ。家に入ったとき、日は完全に沈んでいなかった。
そんなことを思いながらも、ミルティエは瞬く。
口の中が乾くのに反して、手にはじわりと汗が浮かんだ。
「言うのを忘れていたが…明日からユーダを里帰りさせることにした」
「…はい」
ミルティエは男…アルラスに低く、短く応じた。
――早く、この男から離れたい。
ぎゅ、と指を組む。僅かに指先が震えた。
…夜の、あの時間。
ミルティエの苦痛の顔に微笑む…アルラス。
傍にいるだけで、ミルティエの痛みは再発しそうだ。
「長い間…休みを取っていなかっただろう? どうせなら二人同時に、と思ってな。ラタルも里帰りしてもらうことにした」
そう言って、アルラスは微笑む。
「…十日間。二人きりだ」
ミルティエはしばらく考え、アルラスの言おうとした、ミルティエに伝えようとした意味がつながり…背筋がゾクリとした。
ユーダとラタルは、住み込みで働いている。
ずっと、家にいる。
その二人のおかげで…まだ、恐怖の時間が少ないようなものだ。
その二人がいないとなれば…あの時間の延長など、容易い。
(あの時間を…!)
言葉にすることなく…それでも、震える。
――ミルティエの顔は僅かに青ざめていた。
「十日間…楽しみだな。ミルティエ…」
ふふふ、と吐息を洩らすような怪しい笑み。
アルラスのそれは生きていると思わせない、不自然な笑いだった。
「…!」
ミルティエは息を止めた。
アルラスはゆっくりとした足取りで去る。
今のミルティエに光はなかった。…ガナマとの約束も、今は忘れ去っていた。
――星が、光る。
人々はとうに眠り…熟睡の極みであろう時間。
――その時間は、始まる。
「今日は、どこまでいきそうだ?」
アルラスは、細い針のようなモノを持つ男に問いかけた。
「…えー…肩の花が全部終わるといったところでしょうか」
アルラスと男の会話を、遠く聞いていた。
…暴れると、この時間は長くなる。
ミルティエにできることはただひたすらに、この時間が過ぎるのを待つだけなのだ。
「では…始めます」
男はそう言い…間をおかずにミルティエの右肩に痛みがはしった。
星とロウソクの光に照らしだされているのは、人の――ミルティエの――肌の彫り物だった。
たまにカリ、カリと皮膚を削る音がする。
ミルティエは布をぐっと噛みしめた。
布を噛みしめても尚――噛みしめた奥歯がぎしぎしと痛む。
ミルティエの肌は、陽にあたっていないことがよく分かるような白さだ。
…いや、白かった、というべきであろうか。
今は紅い、大輪の花が背中に施され、痛々しい。彫って色を刷り込んだばかりではなく、血が滲んだままの部分もある。
「しかし、アルラスさまも思いきったことをなさいますなぁ。体中に、彫り物とは」
ため息と一緒に男…彫り師は、そんな言葉を依頼人…アルラスにかける。
もともとこの彫り師は木や、金属に彫るといった普通の彫り師であった。
だが、アルラスの誘いに、二言返事で人の肌に施す彫り物を承諾した。
腰から背中、腕にいたるまで、大輪の美しい花。
彫り師はこの仕事を誇りに持ち、どこかで快楽を感じていた。
(この白い肌に赤は似合う…。まるで、血を滴らせたようだ)
ゾクリとする。
彫れば彫るほど血はにじむ。
彫り師はミルティエの洩らすうめき声にも満足していた。
+++++
窓の外…一人、その様子を眺める存在があった。
(…明かりがついてると思えば、自分の娘に彫り物か…)
バルテールに、アルラスの暗殺を依頼された…カシーサだった。
人の体に彫り物をする習慣など、この辺にはないはずだ。
…カシーサの生まれた土地にはあった。だが男の強さを示すためのものであった。
様子見をしていたカシーサは、今日は一旦退くべく、壁を蹴る。
カサ…と降りられればよかったのだが、着地に失敗した。
「しまった」と思うが、重いナニかが落ちた音がしてしまう。
途端に、窓が開いた。
動物に例えるならばネズミのような男が顔を出す。
(…アルラスか?)
カシーサは身をひそめながら観察をした。
「――誰だ!」
喚くネズミ男に対し、そこで素直に答える者がいるだろうか。もちろんカシーサもその一人だ。
(なんにせよ…今夜は無理だな)
しばらくして窓が閉まったことを確認するとカシーサは素早く立ち上がり、塀に突進する。
地を蹴り、塀を乗り越えた。
+++++
「…今のは、一体…?」
猫か? と一人でネズミ男…彫り師のルイヂィは呟く。
「…泥棒にしても、不運だな。我が家はそんなに栄えてはいない」
ルイヂィの独り言に、アルラスは答える。
ふいと視線を動かし、アルラスはミルティエの背中を見た。
白い肌に施された赤い花。
大輪の…紅い、花。
「…グラシェルもそうだったが、お前も体力がないな」
呟きながらそっと、ミルティエの背中に触れる。
――今、彫られたばかりの部分を。
瞬間に、ズキズキと…ビリビリと痛んだ。
痛みと同時にミルティエの奥歯がまた、軋む。
「…気が削がれた。今夜は終わりにしてくれ」
アルラスはルイヂィに言った。
「あと、もう掌分だけ、やらせてくれませんか」という言葉を、ルイヂィは喉の奥で押しとどめる。
――逆らって、自分の楽しみが減ったらかなわない。
…ルイヂィは、この仕事がすでに自分の娯楽となっていた。
ズキズキと、背中が痛む。
『痛い』と言うよりも、『熱い』と思えた。…まだ、彫られているような感じがする。
痛い。痛い。――熱い。
その時、ふと…ミルティエは背中に冷たさを感じた。
『痛みがひく』とまではいかないが――少し楽だ。
ただの気のせいかもしれないが…気持ちいい。
(誰…?)
ミルティエの中、当然わき起こる疑問。
…だが、瞳は開かない。
(だ…れ…?)
ミルティエは、眠りに落ちた。