風が、うなる。
先日とは違い、雨は降っていないが――降り出すのも時間の問題であろう。どんよりとした雲が夜空いっぱいに広がっている。
木の枝が窓に叩きつけられ、うるさい。
ミルティエは見るともなく、窓の方を眺めた。
明かりのない部屋。
光源のない外の闇。
暗さに慣れた瞳でも、外の様子はよく分からない。
ただ風の音が、風によって木の枝が窓に叩きつけられる音が、耳にとどく。
「…ミルティエ」
――ノックもせず、部屋のドアは開かれた。
暗かった部屋に、灯りの光が入り込む。
ミルティエは呼びかけに三拍程の間を置いて、振り返った。
声から、『誰』なのかはわかっていた。
暗かった部屋に、灯りを持って現れた男。
「――時間だ」
ミルティエの父…アルラスは暗い瞳で微笑んだ。
+++++
暴風雨は窓を叩きつけ、部屋中にその音が響きわたっていた。
それほどに、静かな部屋。
「…っ…」
少女――ミルティエの、うめき声が漏れる。
…また一つ、大きな花の蕾が完成した。
「ここにもう一つ、と思っているのですが?」
「…好きにしろ」
彫り師の男、ルイヂィの提案に「さして興味ない」といった表情でアルラスは言い放つ。
アルラスの返答に、ルイヂィは嬉々とミルティエの肌にまた一本、赤い線が引いた。
血が滲む。ルイヂィは彫ったばかりのところに染め粉を塗りこもうとした。
微かに触れたルイヂィの指がミルティエの痛みを増させる。
…その時。
ガシャーンッ
派手な音がした。
そのせいで、ルイヂィの手が止まる。
この部屋ではないが木の枝が何度も当たったせいで、窓でも割れたのであろうか。
「…今夜は、やめだ」
アルラスはそう言うと音のした、割れた窓の確認でもするのか、ドアへと足を進める。
ガチャリとドアが開いた。
――アルラスがドアに手をかける前に。
「ぅひゃ?!」
ルイヂィが声を上げる。
ミルティエの痛みに支配された意識が、ルイヂィの声に反応した。
痛みで顔を上げることもままならない。視線だけ、ドアへ向ける。
(――誰…?)
突然の侵入者は、女だった。女だと予測された。
鎖骨以上にある長い髪は、雨水を滴らせ、外にいたことを物語っている。
――さっきの音は、この女が入り込んできた音だったのか。
「…誰だ」
アルラスは別段動じる様子はなく、低い声で問いかけた。
ルイヂィは手に、自分愛用の彫り道具である針を持つ。
突然の侵入者――アルラスの言葉に、招待客ではないと判断した――ミルティエの血の付いた針を振り上げて脅し、脅しが効かないなら突き刺し、追い払おうと。
…だが。
ルイヂィの振り上げた腕はあっさりと避けられ、腹に女の蹴りが入った。
ドゴッ
「かはっ」
小さな声を上げ、ルイヂィは膝を折った。
――女の力じゃない。
ルイヂィは腹を押さえ、そう思う。
喉に込み上がってくる血を抑えきれずに、むせこんで吐き出した。
襲いかかってきたルイヂィに応戦した女の瞳は、もう一方の男アルラスへと向けた。
ドアの傍にいたアルラス。
女は無言で近づく。――アルラスは動こうとしない。
ミルティエはただ、その様子を見ていた。
女はもう一歩、近づく。…それでも、アルラスは動くことをしない。いや、動けないのか…?
女は腰の剣に腕をのばした。
――その時になってミルティエは、女が腰に剣を佩いていたことに気づいた。
痛みだけが、ミルティエを支配する。
支配している。――支配、していた。
アルラスは動かなかった。その表情からは『恐怖』を見て取れない。
相変わらずの無表情である。
女の剣が、空を切った。
部屋の灯りに反射して、剣が光る。
…女は表情を動かさず、ミルティエは訳が分からず、アルラスは…
「…――」
切られた場から赤い血を流して、倒れていく。
――微笑みを浮かべて。
ミルティエは訳が分からないまま瞬いた。
痛みのための幻覚か、とさえ思う。
瞬いて、瞬いて――しばらくして、
「……」
微かに、苦しげに吐く息づかいが聞こえた。
――アルラスの、生きている音。
「…ミ、ル…ティ…エ――」
声と共に息を吐く感覚が、だんだんと広がっていく。
ミルティエは視線を上げた。
痛みに耐えながら、身を起こす。
――女がそこにいることは知っていた。
「…お、ま…え――の…差し向け…か…?」
ミルティエは、瞬いた。
ドアの方へと、視線を向ける。
仰向けに倒れたアルラスを見つめたのではない。侵入者である、女を見つめたのだ。
心許無い光源のもとでは女の顔が見えない。
ただ、髪が長いと判断できるだけで。
「――いいえ」
声を出すと、背中が燃え上がるように熱かった。
は、と短く息を吐き出す。
「…そう、か…」
アルラスの、命の灯火が小さくなるのが見える。――そんな感覚に陥った。
女は、もう一度剣を振り上げる。剣先が狙うのは…喉元。
太刀筋など読めない。読みかたなど、知らない。
ただ、そう思う。
ミルティエは振り下ろされる剣先を眺めた。
狙われたアルラスは、避ける様子など微塵もない。
「――ミルティエ」
ごぽっ
唇から溢れるは、命の水。赤き血潮。
ミルティエはただ、その様子を見ていた。
じっと、眺めていた。
私 ナ ド ノ 為 ニ 泣 ク ナ
声のないアルラスの言葉が、なぜかミルティエの中で響いた気がした。
一瞬のような――そのはずなのに、長く間のあるような、感覚。錯覚。
ザンッ
――血は溢れ、飛び散り、床にひいてある絨毯を赤く染め上げる。
ヒューヒューと空気が漏れるような音が聞こえる。
雨は未だ降り止まないのであろう、窓を叩きつける木の枝と雨の音が、聞こえた。
ずっと聞こえていたはずなのに、ミルティエは今になってその音に気づく。
「…ミ…ル――」
声は、そこで途切れた。
…アルラスは娘の名を呼べずに逝った。
――娘は、涙を流していた。
「…なぜ」
ミルティエは呟く。背中の熱に…痛みに、再び息を吐き出した。
呟きは女に向けられたものではなかった。
アルラスを見下ろしていた女はゆっくりと、ミルティエに近づく。
「――泣いているの?」
ミルティエは自分に問いかけた。
…あんな奴、死んだのは自業自得ではないか。
自分の娘であるミルティエの体を弄び、ミルティエの苦痛に微笑む男など、死んでしまえば、清々するくらいではないか。
そう思う。そのはずだ。
なのに、なぜ。
自分の頬を伝う涙。
――私ナドノ為ニ泣クナ
アルラスの声のない言葉で気付いた。
いつから、涙など流れていたのか。
父を喪った、悲しみの涙なのか。
…アルラスがいなくなった、歓喜の涙なのか。
分からない。
分からないまま、溢れる。流れる。
ただ、止まらない。
近づいてきた女をミルティエは見つめた。
――自分もまた殺されるのか。
どこか遠くで、そんなことを思う。
手を伸ばした女が、ゆっくりとミルティエの肌に…大輪の花の彫られた背に触れた。
痛みで、ビクリと揺れる。
女のモノとしては大きい手だったのだが、ミルティエは気付かない。
痛みで、気付けない。
――剣を握っていたその手が、男のモノであることを。
唇がゆっくりとミルティエの背に触れた。
「…ッ」
再び襲う痛みにミルティエは顔をしかめる。
ミルティエの背に触れた唇に、滲んだ血が付着する。
そのた赤い血を、女のように長い髪の男は――暗殺者は、ゆっくりと舐め取った。そして唇だけが象る。
オ レ ノ モ ノ ニ ス ル
ミルティエはそのことに気づかなかった。
背中に触れていた指先が離れ、ルイヂィを蹴り倒し、アルラスを殺した男が離れる。
二階だが、侵入者は窓から姿を消した。
風雨が部屋へ侵入する。
ミルティエはその様子をしばらく眺め、視線をドアのほうへと移した。
いまだに涙が止まらないまま、ミルティエは父の亡骸を見つめた。