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十、タノシイ、タノシイ…

 週明けの、火曜日。
「片桐君、どうしたの?」
 …どうも自分の考えは甘かったようだ。と言うか『向こうが「いい」っつったら、教えてもらおうか』と言ったのが悪かったらしい。
 問いかけに擢真はしばらくの間を置いて「いいえ」と応じた。
 机を挟んだ向かい側に座る存在をチラリと見る。
 擢真と目が合うと、相手は僅かに瞬いた。――紅深が親しげに『マサ』と呼ぶ生徒会長。

 紅深の、『生徒会長マサに教えてもらえば?』という提案に『生徒会長向こうがいいと言えば』と応じたのだが…本当に、教えてもらうことになったのだ。
 『その時になって断れば…』なんて甘い考えだった。
 擢真は紅深に説得されてしまったのである。

「悪いね。火曜日以外はちょっと用事が入っちゃってて」
 擢真の視線に何か思ったのか、生徒会長はそう言った。『本当かよ』とか、思わずツッコミたくなる。
 正規の部活動日は月曜日、水曜日、金曜日の週三日。
 ――よりによって顧問のいない部活の日に補習(?)させるとは…!
 実は、紅深と自分を二人きりにさせたくなくてこんなコトを言いだしてるんじゃないか? なんて思ってしまう擢真である。
「さてと。どこでやる?」
 わざわざ美術室に擢真を誘いにきた生徒会長は擢真にそう言った。
 問いかけに擢真は瞬く。
「――美術室ここじゃダメですか?」
 低く問い返した。
 紅深と同じ空間にいたい。と、いうのも理由の一つであったが『生徒会長と二人きりというのは気まずそうだ』というのも擢真をそう言わせた要因の一つだった。
 擢真の問いかけに生徒会長はまたもや瞬いて「いいけど…」と応じ、視線を紅深へと向けた。半ば美術室の主と化している紅深に擢真の疑問を投げかける。
「紅深、美術室でやっててもいいかな」
「んー、マサがイイならイイよ」
 …そんな対話にまたもやショックを受ける擢真。
 美術室でやれることはいいのだが――
(『マサがイイならイイ』?!)
 ――そんな紅深の言い方が、ショックだった。親密っぷりを見せつけられた気がする。
 ある意味、擢真は邪魔者だ、ということか? 
(ハハッ。邪魔者なら邪魔者なりにやってやろーじゃん。…妨害してやる)
 くっくっくっと低く笑う。生徒会長と紅深とがそんな擢真を見てコッソリ目を合わせて首を傾げていたのだが多少キている擢真は気付かない。
 ――それはタノシイ、タノシイ数学補習の始まりであった。

 紅深に言われたから、一応数学の教科書は持ってきてあった。
 授業中に一応開きはするものの、ほぼ手付けなしとも言えそうなキレイな教科書を広げ、ノート代わりに使っているルーズリーフを新たに一枚取り出す。
「それじゃあ、ちょっと解いてみようか」
 続いた生徒会長の「ほんのちょっとでもつっかかったら言うようにして」という言葉に擢真は頷きつつも『誰が言うか!』と密かな決意をしていた。
 今日は数学の授業がなかったが、昨日は数学の授業があり、その部分を教えてもらうことになった。生徒会長が説明する部分で解らないところがあったが、擢真はそれを問わずにいた。
 ――のだが。
「じゃ、これ解いてみて」
 今までの生徒会長の説明がきちんと理解できてるなら、当然解けるであろう問題。
「……」
 擢真はスッと冷たいモノを感じた。――解けない。
 「ワカリマセン」と口の中だけで言うと「それじゃあもう一度、」と生徒会長は説明を繰り返した。

 擢真が少しでも、「ワカラナイ」と思うと顔に出ているのだろうか。
 生徒会長の説明を聞きながら、三回は「え?」と思った。
 言わないでいる擢真だったのだが、「え?」と思った三回ともマサは見抜き、擢真に「これを解いてみて」と類題を出してきたのである。
 解けないでいると――擢真から見れば、であるが――勝ち誇ったような微笑みをしてからもう一度、説明を始める。
 「ちくしょうッ!」と思いながらもきちんと聞いていると…それを予想外と言うべきか、予想通りと言うべきなのか。
 生徒会長の説明は解りやすかった。授業で聞くよりも、ずっと。

「ちょっと休もうか」
 生徒会長の提案に「はぁ」と応じて時計を見上げると、始めてから約三十分経っていた。
 その間に進んだ教科書問題数は…三問。
 授業だったらもっと解き進めていると考えられる時間である。
 生徒会長は随分と丁寧に説明してくれているのか…なんて、頭の隅で思った。

「お疲れさま!」
 休憩を提案した生徒会長の声が聞こえたのか、擢真と生徒会長の様子で判断したのか、紅深が言った。
(…ドッチに言った?)
 そう思いながら紅深へと視線を向けた擢真だが…
「ん」
 紅深に当然のように応じたのは、生徒会長である。

「…――」
 擢真は悔しかった。
 悔しかったが…文句なんか、言えない。
 はっきり言って理解、飲み込みが遅いのは自分の方なのだから。――苦労をしているのは、生徒会長の方だろうから。
「擢真くん」
 紅深の言葉は聞こえたが、偶然を装って机にうつ伏せる。
 胸の中渦巻く感情は黒くて、ドロドロで…ニガイ。
「マサの説明、解りやすいでしょ?」
 これは事実で、頷くしかなかった。それに、紅深の言葉を無視するなんてこと…擢真にはできない。
「……ん」
 短く応じながら、擢真はうつ伏せたまま僅かに唇を噛んだ。
 ――悔しい。
 紅深の認める人物――生徒会長は…認めたくなかったけれど、本当に出来が良いヤツだ。
 そして、その人格も。約三十分で三問。単純計算、一問につき十分かけて説明してくれるような、根気強いヤツで。
(俺はすぐに嫉妬して。カッとなって。…勉強も、できなくて…)
 『自信喪失』だった。
 生徒会長に良いところがあるのはもちろんだが擢真は擢真で良いところがある。
 『人それぞれ』『十人十色』という言葉があるというのに、そんな簡単なこと事実を忘れてしまうほどに――自身と自信を、失くしていた。

 擢真が頭でグルグルとそんなことを考え、重いため息を吐き出す間に、さっさと時間は過ぎていく。休憩してから五分経った。
「さて、後三十分くらい、頑張ってみようか」
 生徒会長が擢真に向かって声をかける。
「……はい」
 顔を上げると、生徒会長と雑談していた紅深が生徒会長の隣に並んで立って、擢真の問題を解いたルーズリーフを覗き込んだ。
 ――擢真の癖のある右上がりの数字、数式。
 …間違える度に生徒会長の――習字でも習っていたのであろうか?――生徒会長自身のようなピシッとした美しい字が書き込まれていて、黒い。

 ――恥ずかしい。
 真っ黒なルーズリーフ。『出来ない』自分を証明するかのようなルーズリーフそれ

「――見んなよッ」

 擢真は思わず怒鳴ってルーズリーフをグシャリと潰し、紅深を睨んだ。
 そうした後――正気へと戻る。
(――しまった…!)
 目前の紅深が『ショック』という言葉が一番似合う表情をしていた。
 大きく目を見開いて…でもそれは、驚きとは違うもので。口元に手を当て僅かに後退りし、「ごめんなさい」と小さく呟く。
 そんな紅深の耳元で、生徒会長は何かを囁いた。

「………」
 擢真はそんな様子を見て、手元の潰したルーズリーフを見て――また、恥ずかしくなった。
 ――どうしてこうなるのだろう?
 紅深が生徒会長を見て小さく頷く。擢真の方をチラと見たが、その瞬間に目が合うと、勢い良く目をそらした。
 今度は擢真がショックを受ける。
(――どうして、こうなるんだろう?)
 紅深は生徒会長に近い方の席に座り、また、スケッチを始めた。
 …最初にいた席より擢真より間を開けた場所で。
「さて今度はこれから、やろうか」
 教科書に載っている問題を指さしながら、生徒会長は言う。
「………はい」
 擢真は自分に腹が立った。――自分が恥ずかしくなった。
 もやもやと、ぐるぐると…毒が回るように、感情が巡った。

 
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