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九、マサ

「あの人…」
 ドア付近で倒れこんでしまっていた擢真は、どうにか起き上がり、立ち上がると紅深の近くの席に腰を下ろし、机にうつ伏せながら紅深に話しかける。
 今日の紅深は『化粧やりたい症候群』がこないようで美術室から見える景色をスケッチブックに描いていた。
「ん?」
 視線は外を見ながら、紅深は擢真の声に応じる。
 擢真はしばらくの間をおいて「なんでもない」と呟いた。
 訊けるわけがない、と思った。付き合ってるのか? なんて…。
 ――そう思ったのだが。
「何? マサがどうしたって?」
 切り返しに擢真はひっそり「聞いてるし…」なんて内心ため息をついた。
「いや、本当になんでもない」
 擢真がそう言うと、紅深がクルリとこちらを見た。まっすぐな瞳と目が合う。
「ヤだなぁ。そういう中途半端なの。一番キライ。あたし」
 紅深の言葉がグサッ! とキタ。
『一番キライ。あたし』
 …その一言が、自分に言われたような気分になって、さらに落ち込む。
 暗雲たちこめる、でもないが。『ズーン』と、擢真の発するオーラが暗いモノになっていっているが、そんなことに紅深は気づかない。
「まさか、マサのこと、知らないの?」
「……生徒会長だろ?」
 あんまり…ってか、かなり。そいつのことは話したくないのだが、紅深の開いた唇から出た内容は、生徒会長…マサのことだった。
「そ。確か会長選挙でダントツの票数だったのよ」
 …まるで、自分の身内を誇るような口調。
 擢真も選挙に参加したが既にもう、候補者だった顔ぶれも、誰に投票したかなんてことも忘れた。
「去年の清涼祭では、人気投票で一位だったし…」
 …まるで、自分の選んだ相手者を誇るような口調…。
 清涼祭とは北川高校の文化祭の名である。夏休みが終わったすぐ後の、結構暑い時期にやる。――擢真も、去年の文化祭には参加したが途中で抜けた。
「凄いよね、マサって」
 止 メ テ ク レ
 擢真は耳を押さえたいような衝動に駆られる。
 そんな、誇らしそうに…嬉しそうに。生徒会長の話をしないでくれ。

 嫉妬は、醜い。
 ――そんなこと、分かっているはずなのに…。
 擢真は誰よりも、誰よりも…一人に嫉妬していた。

 紅深はいろいろと言っている。生徒会長に関するコトを。
 耳を塞いで「止めてくれ」と言えばいいのだろうか?
 「聞きたくない」と、紅深に告げればいいのだろうか――?
 ふと紅深が…止まる。
「…どうしたの?」
 紅深から見て、擢真の様子は十分に変だったらしい。心配するように擢真の顔を覗き込む。
「…いや」
 そう応じる擢真だが、紅深はまだまだ心配そうな顔をして問いかける。
「もしかして、昨日は本気で具合が悪かった…とか?」
 サボリじゃなかった? との問いかけに擢真は瞬く。
「――…」
 サボリはサボリだったのだが…ある意味、具合が悪かったそうだったかもしれない。
 紅深を見ると心臓がバクバクして、自分のしようとしたことに赤面して…。
 響が――擢真に気付かせる、という――クスリをくれたのが効いたらしく、今日の調子は良かったが。

「――ん」
 曖昧な返事で応じ、擢真はまたうつ伏せた。
「具合悪いなら、無理しなくてイイよ」
 心配そうな声音。うつ伏せたままで表情は見えないが…今も、案じている顔をしているのだろうか。
「…でも。擢真くんって、結構賢そうなのに、今の時期に風邪ひくの?」
 紅深の言葉を自分の中で繰り返し、しばし考える擢真。
 今月下旬には夏休みになる。しばらくの間をおいて擢真は声を上げた。
「…それは一体、どういう意味だ? あ?」
 一つ思い当たった言葉は『夏風邪はバカがひく』。
「いやん、そこで怒っちゃいけないよ」
 顔を上げた擢真に紅深はくるくると人差し指を回して見せる。
 態度の悪いまま、擢真は「はっ」と鼻で笑った。若干荒んだ気持ちのままで。
「――どうせ俺は数学と生物で1の一歩手前だったよ。…会長さんと違ってな」
 公立北川高校は単位制で、成績は1から5の五段階評価となっている。
 評価として低いのは『1』であり、『1』という評価をされると進級が危ぶまれる、という評価意味だったりした。
 もっとヤバイ奴もいたが…実は擢真は二年に上がる頃、『進級が危険です』という状態になった。
(自分の大バカヤローっ!!!)
 擢真はそう、叫びたくなる。
 思わず会長を引き合いに出し――言った後にどっと後悔の念が襲った。

 あんな、ある種『完璧が当然です』みたいなヤロウと自分が比較できるような相手でないということは、誰でも分かる結果ではないか。
 …そう思うことは、戦う前に『負けた』と降参していると同じだけれど。
 そんな擢真の心情も気付かないまま、紅深はきょとんとした顔つきだ。
「擢真くんて、見た目によらず理数系が苦手?」
 紅深は「なぜそこでマサの名が出てくるのだろう?」というような不思議そうな顔をしながらも、それは口に出ないまま問いかけた。
「…見た目によらずって?」
 切り返した擢真に「何となくだけど、スキ…得意そうだなって」と応じる。
 そうなのか? と頭の隅で思いつつも「紅深先輩は?」と擢真はまた切り返した。「あたし?」と、またもやパチクリとした紅深に擢真は続ける。
「俺の予想だと…1の一歩手前なんて取らなさそうだけど?」
 その問いかけに「あぁ、」と紅深は少しだけ笑った。
「あたし、先生受けだけは良いから。…とは言っても、普通に授業うけてるだけだけどね。内職しないで」
 その紅深の言う『フツウ』が、擢真には難しい。
「その『内職しないで』ってのが難しいんだよ…俺いつも…ってかよく、か。寝ちまうんだよなぁ…数学、分かりずらいし、やる気もでなくて…」
 紅深は「ウーン…」と考えてから、「閃いた!」みたいな顔をして、擢真に提案した。
「マサに教えてもらえば?」
「――はぁ?!」
 思いっきり、素っ頓狂な…イヤな声をあげてしまう。
 そんな擢真の様子に気づかず、紅深は提案を続ける。
「マサね、下手な先生より教え方が上手なの。あたしも結構教えてもらってるけど、分かりやすいんだよ」
 …教えてもらってる?
 やっぱり、頭が良くないと、紅深の相手にはならないんだろうか?
 見た目だけなら擢真も同じ年タメ(下手すれば擢真の方が年上…紅深が童顔なだけ、ともいうかもしれないが)になるだろうが。
 グダグダとそんなようなことを考えている擢真に「ね? どう?」と、ちょっとばかりウキウキしているように見える紅深が言った提案に、小さく「考えとく」と応じる。
 紅深からしてみれば、擢真に対する親切心からそういう提案をするのだろう。…無下にはできない。
「善は急げ。早速今日、言っとくね」
 しかし、早速そんなことを言った紅深に、擢真は抗議の声を上げる。
「俺は考えとくって言っただけだろ?!」
 思わず声を荒げてしまった擢真に紅深は「え?」と声を上げた。

「……イヤ?」
(……う゛っ……)
 擢真の中で、衝撃が走った。――こんな時に、卑怯だ。
(…カワイイかもしれない)
 紅深は童顔であることもあり、元より『美人』と言うよりは『可愛い』という顔つきをしているのだが…ちょっと拗ねたような表情と、擢真の方に多少上目づかいで見つめる瞳。
 しばらくして、見るからにしょんぼりしてきた様子に、擢真は何だか自分の方が悪いような気になってしまう。
(どーすっかなぁ。…その時になって断ればいいか?)
 ――紅深を悲しませたくない。紅深を落ち込ませたりしたくない。
 …これも惚れた弱みというヤツか。

「…まぁ、向こうが『いい』っつったら、教えてもらおうか」
 ボソッと零した擢真の言葉に、紅深はやや俯きかけていた顔を上げる。
 数度瞬くと紅深は微笑んだ。嬉しそうな…心からの笑顔に見えるに表情に擢真の心臓は飛び上がる。

「うんっ! ちゃんと、マサに言っておくね」
 この微笑みを見られるなら、どんなことでもやろうかという気になってしまう。
(…ヤベェな、俺)
 紅深への想いを自覚したのは、昨日だというのに。
 ――また、自ら深みに足を進めてハマっている気がした。

 
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