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十一、瞬間

 七月二十五日。
 中途半端ながら、本日が終業式で明日から夏休みだった。どうせなら海の日である二十日からにしてしまえ! という声が高いことはもちろんである。
「?! …うをあっ?! 片桐ッ?!」
 そう、擢真の姿を見て言ったのは響であった。
 何というか『でろーん』と言うか、『どろーん』と言うか…溶けているとでも言うべきか。
 ともかく。机にうつ伏せになっているだけならまだしも…落ちかかっているのだ、擢真の体は。
「…は〜よ〜。榊原〜」
 こんな状態ならば、学校に来なければいいのに。そう言いたくなるような姿である。
 目はどこを見ているのか…虚ろで。体は先程述べたように机からはみ出るように落ちかかっていて。
「……おい、マジでどうした?」
 この見るからにヘコんでいる様子…約一年の付き合いがなくても分かってしまいそうなほどの落胆ぶり。
「ははーん。さっかきばらー。お前が来るの、待ってたんだー」
 …様子がおかしい。おかしすぎる。
 響はそんなことを思った。
 この間『紅深に触れたい』ということで悩んでいた擢真とはまた違う。…いや。全く違う。
「保健室、行くか?」
 マジメに響は言ったのだが擢真はプルプルと頭を振る。

 昨日の自分に腹が立って、――恥ずかしくて。
 …寝ようと思ってもうまく眠れず、昨日のことが思い浮かぶ度にまた腹が立って、恥ずかしくなって――。
 その繰り返しで朝になってしまった。
 寝ようと思っても眠れないなら、別のことでもやって気を紛らせるしかない。そう思って、学校に登校してきた擢真だった。
「お前の顔見ると、元気でそうー」
「オレは栄養剤か、っての」
 擢真の言葉に響は思わず苦笑する。でも、自分の顔で擢真が元気になるならまたそれはそれで良かった。
 ヘコんでいる理由など、後で『こってり』と聞き出せばいいのだから。
 響がそんなことを考えているとは露ほどにも知らず「ははー。そっかも」と擢真は応じる。
 眠いは眠いのだが、――ぼんやりしてくるとまた昨日のことを思い出して…一人『グアーッ!!』となった。
 表情オモテに出なくても、擢真は悶えていた。

「…たっちゃん、どうしたの?」
 響と一緒に登校してきた輝も擢真の様子がおかしいことに気づいた。
 そんな輝の隣にいるのは日奈だ。
「本当に。…大丈夫?」
 あまり表情の変化のない日奈だが…親しくなってからの約一年の付き合いで本気で心配してくれているのだと、分かった。
 ありがたいなと、…素直にそう、思えたのだけれども。
「……」
 擢真は目を伏せた。
 ――昨日、自分が起こしてしまった行動。
それを考えるとまた、気分がブルーを通り越してブラックになる。
「だいじょう…じゃあ、ない」
 うつ伏せながら言った擢真に「休めば良かったのに」と日奈は小さく応じる。
 聞こえた日奈の呟きに「休む気にもなれねー」とぼそぼそと言った。
 時間になればショートホームルームは始まる。
 チャイムが鳴ると、担任教師である福本は生徒達に「座れぃ!」と指示した。
 擢真の様子が変なことが目に明らかで心配ではあったが、担任教師のその言葉に従わないままでいる擢真の友人達ではなかった。
「片桐、後でな」
 響がポソッと言う。
 擢真はそれを無視したわけではなかったが、返事をしなかった。

 福本が各自の掃除場所を指示をする。
 教室での机の並び順を縦に割り、全部で六列あるところを五つに分けた。
 廊下側に座っている擢真は他の列に比べて縦に並ぶ机の数が少ない。その為、擢真の席の列と隣の列…一番廊下側の列と一緒に教室掃除をやることになっていたが、擢真はそんなこと聞こえてなかった。
 廊下側から二列目。前から二番目、後ろから三番目…。
 擢真の席は、割と教師の目に付くところに位置している。
「おい、片桐ッ」
 口調は乱暴だが、福本はヤな教師というわけではない。
 「ボーッとしてるみてぇだが、聞いてっかぁ?」…と、続けたのだが。
 いつもの擢真であれば「聞いてます」くらいの返事をするのだが、今回は応じない。
「……片桐?」
 ちょっと心配になった福本は繰り返し呼び掛ける。
 クラスの大半は擢真に注目していたが、擢真は全く動じることなく…むしろ気付かないまま…相変わらず、ぼーっとしている。
「どうしたんだよ?」
擢真の隣に座っている少年、平が声をかける。女の子顔負けの、カワイイ顔立ちをしていたりする平を擢真は見つめた。
「……んあ?」
 眠そうな表情のまま、返事をする。
 擢真の間の抜けた声に福本は一度こめかみを押さえた。
「…ま、ともかくだな…」
 福本は擢真の様子が「こりゃダメだ」と判断したらしい。擢真のことは放置したまま、話を続行した。

「それじゃあ始めろよー」

 ぼんやり、その声を聞いていた。
 擢真は…特に何かが書いてあるというわけではなかったが…黒板を見る。
「おい」
 正確には、黒板と自分の間に存在する、空気を見ていたといった方が正しいか…。
「おい、片桐っ!!」
 ――呼ばれていることに、やっと気付いた。
「…榊原?」
 ゆるゆる瞬きつつ切り返した擢真に「そーだよ」と響はちょっとばかりため息をついた。
「――ったく。掃除、始まるぞ?」
 むしろ、ある意味始まっている。
 擢真は振り返って教室全体を見渡し行動を開始している様子を確認すると「あ、ああ」とようやく動き出した。
 実は響は掃除なんぞサボる気満々だったのだが、見た目によらず、妙なところで真面目な幼馴染みに「やることはやらなきゃダメじゃん」とたしなまれてきちんと掃除をすることにした。
 ちなみに響は擢真とは違う列に席があり、分担は視聴覚室掃除だった。擢真に「掃除が始まる」ということだけを告げると響は視聴覚室に向かう為教室を後にする。
 響に応じながらもしばらく動かない擢真はガタガタと机を寄せる音に「掃除をしなくては」と思った。机に椅子をひっくり返して上げると、窓側を見る。
 教室掃除の女子がきゃあきゃあと何かを騒ぎながら、窓拭きをしていた。
 机を後ろ側へと寄せつつ、掃除用具が詰め込んである縦長のロッカーに向かい、ガゴンッという凄い音と共に開けてみたが既にそこにホウキはなく、擢真は廊下の窓拭きをすることにした。

 教卓に雑巾と窓拭きスプレーのセットが置いてあったのを拝借して、廊下に出る。
 平日の掃除の時間だと数人がたむろしていたりするのだが、今日はいない。大掃除のせいであろうか?
 今日はいないが、いつもクラスメイトの女子が陣取っている西側の窓から拭くことにした。
 シュッと青い液体を窓に吹きかける。
 ゆっくりと…ゆっくりと…伝う。枝分かれしながら、泡を残しながら。
 擢真は液体の流れ落ちる様を見てはいたが、頭に入ったというわけではなかった。
 はたから見ればボーッとしているように見えるが、擢真の頭の中は結構フル回転していたりした。
 昨日の自分…ある種の八つ当たりを、紅深にしてしまった…自分。
 何で自分はカッとなりやすいんだろう?
 そうそう変えるのは難しい『自身』。
 昨日、なくしてしまった…『自信』。
 もっと、数学ができれば――生徒会長に教えてもらうなんてことにはならなかったのに。
 あんな真っ黒なノートを紅深が見るなんてことにはならなかったのに。
 もっと、自分の頭が良ければ…。
 自分が、二年生でなければ…紅深と、同じ歳だったら。
 変えようのないことばかりが擢真の脳裏に浮かんでは、消える。

 ――それでも『自分擢真彼女紅深を好きにならなければ』とは、思わなかった。

 窓拭き用の液体洗剤が流れ落ちる様を見ていながらも、頭に入っていなかった擢真だったのだが…視界の隅に気になるものをみつけた。それはきちんと頭にまで届いて、脳が擢真に『見る』ということを促す。
 一瞬、頭の中が真っ白になる。
 ウダウダと、グダグダと考えていたことはどこへやら。
 みつけたものは…少女。
(…紅深、さん…っ!!!)
 視界に映ったのは、窓の外…二階から見下ろす自転車置き場でろくに落ちていないであろうゴミ拾いをしているのは、間違いなく紅深だった。
 全く拭いていない窓などお構いなしに、全開にする。
 二階こんな所から声をかければ、結構目立つと…ちょっと考えればわかりそうなことも忘れて、擢真は紅深の名を呼ぼうとした。
 ごめん、と。
 カッとして…驚かせたりして、ごめんと。
 昨日は怒鳴ったりしてごめん、と言いたい…!
「く…ッ」
 擢真は窓の下の少女の名を呼ぼうとしたが、続けることができなかった。――隣に、一人の存在を見てしまったから。
 ――生徒会長である。
 当然のように寄り添って、二人で肩を並べて――紅深は微笑んでいて…。
「…――」
 紅深、とおとにならないまま呟いた。
 自分など、彼女を想うだけ無駄なのか?
 ――浮かべる、あの微笑み。
 擢真はどちらかというと短気だし、勉強が得意ではなく…理解が、遅い。
 ――目に映るのは、自分に向けられるものより鮮やかな微笑み。

(…紅深、さん…)
 ――『瞬間』だと、響は言った。
 結構フザけていることが多い響なのだが、あの日…話を聞いてもらった日に言った。
 幼馴染みである少女…輝を十年は想い続けている響は――例え自らが気付かなくとも想いが変わるのは多分『瞬間』なのだと。
 マジメな顔をして言っていた響を茶化すことはできなかった。
 妙に、納得できてしまったから。

「――…」
 童顔で、『化粧したい症候群』が出たりして。
 絵にむかう時には真剣な眼差しをみせて…笑うと、誰よりも可愛くて…。
(――紅深さん…)
 声を出すことは、できなかった。
 擢真はゆっくりと、一度勢いよく開けた窓を閉めようと窓枠に手をかけた。
 ――自分の存在に全く気付かない紅深。
 手に触れる窓枠は冷たい。
(紅深…)
 しかし…それでも、この心を…想いを止めることは、できない。
(…バカみたいだ)
 そう思いながら擢真は目を伏せた。

 そんな――紅深を想う心が、届いたのだろうか?

「おーいっ!!」
 近くない場所から聞こえた声。
 微かな声だった。…なのに、こんなにも聞こえる。――分かる。

 擢真は窓を閉じかけた手を止めた。
 声を聞き間違えるはずがない。でも「まさか」と思いながら視線を落とした。
 ――擢真の目に映ったのは、手を振る紅深。
 擢真が見下ろすと、振り返し腕を振る。
 …擢真に向かって手を振って、声をかける。笑顔を見せる。
 その声と姿は、誰でもない…違えようもなく刈田紅深、その人であった。

 瞬間、だった。
 想いの変わる…気持ちの変わる瞬間、だった。
 当然のように紅深の隣に立つ生徒会長。その存在は、はっきりいって大きい。
 それでも、『好きにならなければ』なんて思わなかったし――だからって、この想いは変えられないと自分が思ったのだから。

 …どんなに想っても紅深は振り返らないかもしれない。
(だから諦める?)
 でも、紅深は今――擢真に気付いた。笑って、手を振った。
諦めるなんてそんなこと、してやるものか!)
 無謀バカだっていいじゃん。継続は力なり。何もやらずに諦めるよりはずーっと、ずーっとイイはずだ。
 自分に向けられた笑顔。それを糧に――
(俺は、紅深さんを想おう)

 思わず、擢真は微笑む。
 ヒラヒラと手を振る紅深に応じて、擢真もまた手を振り返した。
 すると、生徒会長が紅深に何かを囁くのが見えた。
 当然ながら聞こえない囁きに頷いて、ふわりと微笑む紅深。
 ――ズキリ、と痛む。

 生徒会長の存在が全然気にならないと言ったら、嘘になる。
 自分にむけられない鮮やかな笑顔も…気にしないとか言ったら大嘘になる。
 並んで昇降口に向かう二人の後ろ姿を眺め、擢真は勢いよく頭を振った。
(イジイジしてどーする、自分!)
 擢真は「よしっ」と自分自身に活を入れる。

 無謀バカでも届かなくても、気持ちを変えることが出来ないから。好きだと思ってしまったから。

「とりあえず、窓拭き!」
 擢真は一人呟いた。

 
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