擢真は図書館に向かうため、ペダルをこぐという単純作業を続ける。
目で見て判断は出来ないが、どうも北川駅方面の方が擢真の住む場所より高いらしい。ペダルが重いような気がする。
だからってそう簡単に疲れるような擢真ではないが。
七月下旬の太陽はジリジリとアスファルトを焦し始める。
まだ我慢できる程度だが…真昼間となればどうなるか。天気予報では例年並み、ということだったが。
擢真はあまり大きな道は選ばず、あえて住宅街のような道を自転車で進んでいた。その方が車に煽られたり威嚇されることが少ない。十字路を左に曲がった。
別に真っ直ぐに行っても図書館には着くのだが、紅深の家の前通るために、少しばかり遠回りをする。遠回りとは言っても、自転車であれば三分も変わらないだろう。
ペダルをこぐ早さをゆっくりにする。視界に映るのは紅深の家、である。
カチャン カチャン
手元にある自転車の速度調整を構ってみたりしながら、自転車での最低速度で紅深の家の前を通過。
人の出てくる気配はなく、通過してからも人が出てきたような気配はなかった。
「…ちぇっ」
今日から早速遭遇できたら、それこそ『運命は味方している!』という状態だが…世の中、早々うまくいかせてくれないらしい。
『北川町立図書館』
縦長の木板に真っ黒な墨でそう書いてある。
割と最近に代えたのであろうか? 字は本当に真っ黒で、木目がすごく分かりやすい。
『北川町立図書館』と金色に書いてある濃い水色のスリッパに履き替え、自分の名簿番号である10番のナンバーのある靴箱に靴を入れる。…入れようと、する。
すでに靴が入っていた。
薄い底のサンダル、ということ色合いからして女の子の物だと思われる。
しかし開館後すぐ…只今十時十五分…に、なろうとするくらい。図書館にいる物好きなど自分くらいだと思ったのだが、そんな人が他にもいるんだ、なんて思ってみたり。
この図書館は二階建てで、入ってすぐのところに広いカウンターがある。
外観はキレイで、割と新しくも思えたのだが…なかなか古くささあふれる内装だった。
外観に反するあたりが響の家を思い起こさせたがそんなことは今はどうでもいいとして。
何か手続きが必要なのだろうか?
何しろ擢真は生まれて初めて図書館というものを利用する。
授業で学校の図書室くらい利用はするが…町の図書館など、入ったこともない。
カウンターにいる人の良さそうな白髪のおばちゃんに数問尋ね、館外に本を持ち出すときにだけ手続きが必要なことが判明した。
「ありがとうございます」
なかなか礼儀正しく頭を下げ、擢真はでかでかと『館内図』と書かれた物の前に立った。
一通り、どういった本がどこにあるか、みたいなことを書いてある。
擢真はどういった理由か分からないが、ドイツにひどく惹かれている。ドイツの地理についてまとめ、それを地理の課題として提出しようと思ってみたのだが。
(見るならどの辺だろ…)
ジーッと見てみたが、どうもピンとくるような表示はない。
とりあえず二階でなさそうなことは確かだ。絵本コーナー、児童図書、恋愛小説、SF小説、雑誌などと書いてあるあたりからして擢真の欲しい情報があるとは思えない。
と、いうわけで一階図書室(ちなみに第一図書室と表示されている)の手前のドアから入ってみることにした。
重い、曇りガラスのはめ込まれたドアを押す。
開けた瞬間、いくらかかけてあるらしい冷房の涼しさを感じた。
その涼しさに目を細め、次の瞬間には目を見開く。
本、本、本…! 図書館だから当然なのだが、本がある。たくさんある。
擢真は量の多さに圧倒された。
天井に達している本棚もあるが、だからって全ての本棚が天井までいっているわけではなく、日光をいっぱいに差し込ませるよう設置されたらしい窓側は、窓のすぐ下…擢真の腰程度までだ。なんにせよ、ズラーッと本が並んでいることは確か。
窓側、廊下側、壁という壁には必ずというくらい本棚がある。もちろん、壁にくっついてないところにも本棚はあるのだが。
意図的に作られたであろう空間には一つの机に六人座れるように椅子が配置され、椅子を引いても後ろの人に当たることがないように机と机に広い間が取ってある。
机は四つあり、擢真の利用した入り口に一番遠い机に人の姿が見えた。
(俺以外の物好きの人だ)
なんて密かに親しみを込めてその姿を見た。瞬いて――思わず、見つめた。
そこにいたのは、二人。…二人の少女だった。
一人は、黒髪でショートカット。そこまでなら男か女かなんて判断できないが、今は夏だ。薄着のせいで体全体の線が分かる…なんて言うといやらしい感じもするが、要するに肩の線が細いのだ。服の色合いと線の細さで少年ではないだろう、と判断できる。そのショートカットの存在はこちらに背を向けて、もう一方の少女に何かを教えている。
…二人は、こちらの様子に気づいていない。
いや、気づいていたのかもしれないが気にするような様子はない。
そして擢真は――見入った。
もう一方の少女に。
今日は、三つ編みではない。メガネを外している。
腕の細さが、やけに濃い色の机に引き立てられている。
…紅深である。
(…どーりで、いないわけだよな…)
トクン トクン トクン トクン…
昨日、会ったではないか。昨日、会話したではないか。
――なのに、こんなにも。胸が高鳴る。
人違いではないのか?
自問してみるが…自身で否定する。確信できる。彼女は紅深だ。あの少女は紅深だ、と。
擢真は一度声をかけようとして、止める。
一生懸命勉強しているようだ。邪魔をするのはなんだか、悪い気がする。
とりあえず自分も調べ物をしようと擢真はその場をスルーした。
擢真は机に向かわないまま、資料になりそうな本を探した。…が。
(…集中できない)
擢真は先程から何度も、机に向かう二人に視線を向ける。
話しかけたい、気付いてほしい!
…そんな思いと。
勉強の邪魔は、したくない…。
――そんな思いと。 擢真の中で二つの思いがある。
今のところ『勉強の邪魔をしたくない』という思いが優位にたち、擢真は未だに紅深に話しかけていないし、机に近付いてもいない。
もう一方の少女がそこにいるから、というのも理由の一つではある。
擢真が知らない少女と一緒にいるのに割り入る気は起こらない。
もうすぐで、擢真が来てから一時間経とうとしている。
それより(もしかしたら二、三分かもしれないが)前に来ているのだから、下手するともっとやっていることになるだろう。
なんにせよ、すごい集中力だ。擢真はとてもじゃないが真似できない。
持続性がある、というか。
擢真は『ヨーロッパ〜華麗なるルイ世代〜』という、ドイツと関係ないのでは? みたいな分厚い本をパラパラと見ていたりする。
二人の会話を途中で聞き耳をたててみたのだが、サッパリわからん。あの二人はちゃんと勉強しているのだ。
ぱたん、と本を閉じ、次の本に手を伸ばそうとする。
――その瞬間。
「はー、頑張った! ね、ちょっと休もう?」
そんな紅深の提案が擢真の耳に届いた。本棚からちょっと覗くと、紅深が伸びているのが見える。
「ん、そうだね。十一時過ぎか…」
擢真はふと「おや?」と思う。
(この声、どこかで訊いたような気が…?)