「……あ」
しばらく雑談をしていたのだが、雅子が何か思い出したかのようにして声を上げた。
細い銀色の時計を覗き込む。
「十一時半…か。紅深、ご飯食べてからまた来てもいいかな?」
「あれ? マサ、お昼ご飯持ってきてないの?」
「今日は弟が家に居てさ。なのにご飯の用意してなかった」
そう言うと雅子は立ち上がる。
「あ、そうなの?」
じゃあ、一回帰らなきゃダメだね、と紅深は少し寂しそうに呟いた。
「んじゃあ、優しいあたしがマサの荷物を持ってきてあげよう!」
雅子に「持ってて」と飲みかけのジュースを手渡し、紅深は荷物が置いてある第一図書室に入った。
擢真はそんな紅深の後ろ姿を眺める。
ドアが閉まっても、まるで目だけで追うように見つめ続けた。
「片桐君さ」
雅子のほうから擢真に話しかけてくる。擢真は「え」と思った。
「――はい?」
なんかちょっと…緊張する。
生徒会長は男だと思い込んでて…でも、今目前にいる雅子はどこからどう見ても、女の子で。
「紅深に惚れてる?」
問いかけに擢真はしばらく瞬いた。
脳ミソに、雅子の言葉が届く。
…………
「え、ええっ?!」
か――っ!!
頬が熱い。耳たぶも赤いかもしれない。
瞬間湯沸かし器よりも早い温度の上昇だった。
「な、なななっ?!」
なんで?! なんで?!
『なぜ、生徒会長がそんなことを?!』そう、言葉として続けることはできなかったが、擢真は口をパクパクさせながら言う。
「さあ、なぜ知ってるでしょう?」
雅子は…いや、生徒会長は数学を教えてくれた時のような、ちょっと意地悪そうな笑みを浮かべた。
(――生徒会長だっ!!)
先程まで、なんかちょっと『知らない女の子』と思って緊張してしまっていたが…雅子は、まぎれもなく生徒会長だった。
「ぐあぁああああっ」
擢真はピシャピシャと頬を手で軽く叩く。
「ま、あの子は鈍感だからね。玉砕するなら、さっさと玉砕しちゃいなよ?」
そう言って今度はクスクスと笑う。明らかに他人をからかって楽しんでいる。
(しかも玉砕?! 砕け散ろってことか?)
擢真は頑張って考え、そんな風な結論に行き着いた。
「告白するならさっさとしちゃいな」
そう言って立ち上がる。
素晴らしいタイミングだ。生徒会長が立ち上がった瞬間、紅深が図書室のドアから顔を出す。
擢真の顔の火照りはいまだに治まらない。
生徒会長は「ありがと」と紅深から荷物を受け取り、ジュースを手渡すと擢真に向かって「頑張れよ、少年」と言って少しばかり笑みを見せた。
(頑張れって…)
擢真の目に映るのは背中だというのに、生徒会長のニヤリとした、少しだけ意地の悪そうな笑顔が映るような気がする。
「擢真くんは帰る?」
生徒会長に手を振っていた紅深だったが、生徒会長の姿が見えなくなると擢真にそう、声をかけた。
「え? あ、あの…」
困った。未だに火照りは治まることを知らない。
「そう言えばマサと何の話ししてたの?」
紅深の問いかけに擢真は「え?!」と声を上げてしまう。
まさか、聞こえたのだろうか?! そうだとすると…かなり、恥ずかしい…ッ!!
「え、ええ、まあ、世間話を…」
「ふーん」
紅深は擢真たちの会話を「聞こえていた」とも「聞こえていなかった」ともとれる言い方をする。
少し首を傾げながらするその様はかなりラブリーである。
頭の中で、生徒会長の言葉がこだました。
『告白するならさっさとしちゃいな』
(告白ッ!! 告白ッ!!! 告白ッ!!!!)
『さっさとしちゃいな』
――夏休みは、長くて短い。短くて、長い。
「? どうしたの?」
ピトと、紅深は自らの掌を擢真の額に伸ばす。
温かい…というか、熱い。紅深がこの時期にしては少し手が冷たい、と言うのもそう感じさせる要因かもしれないが。
「大丈夫? 無理しない方が良いんじゃない? 夏休みは、まだあるよ?」
紅深は擢真が調べものをしに来たと思っていた。
単なるカンだったが、そのカンはある意味当たりだと言える。
「……」
擢真は小さく息を吐き出した。
自分に伸ばされた、…触れた、自分より一回り小さそうな掌。
心配そうに擢真を見つめる瞳。柔らかそうな、薄い唇。
ある意味、今現在も目眩中なのかもしれないが…目眩がしそうだ。
離れていく掌を思わず引き止める。
「え?」
その行動と、その掌の予想を上回る体温の高さに紅深は驚く。
「風邪ひいてるの?」
大丈夫? もう一度紅深が言う。
『プツン』と、擢真の中で何かが弾けた…気がした。
北側の網戸は開いていた。風が、そよそよと二人を包み込む。
「――…っ!!」
擢真の行動に紅深は息を飲んだ。
掌を引かれて、抱き寄せる。夏の暑さの中――それでも擢真は、紅深を自らの腕に閉じ込めていた。
「………紅深……先輩のこと、好きなんだ」
紅深の耳元で告げた言葉に返事はない。
擢真は口を開いた。紅深にもう一度、擢真は告げた。
「――好きなんだ」
がっちりと抱きしめらてしまった紅深はふと、顔を上げた。
擢真の顔が見えて…思わず、吹きだす。
「なんだよ」
擢真は頬を赤く染めた。いや、すでにこれ以上にないほど擢真の頬は赤い。
その赤さはきっと、夏の暑さの所為ではない。
紅深はもぞもぞ動いてナイショ話をするように口元に手を当てる。
「……?」
――かのように思われた。
バッ!!
擢真は勢いよく紅深を抱きしめる腕を緩めた。
顔は茹でたタコなんて軽く超える赤さだ。『これ以上にないほど赤い』を、さらに通り越した。
「仕返し」
紅深はナイショ話をするかのように見えたが、違った。
擢真は耳に手を当てる。…紅深は擢真の耳に息を吹きかけたのだ。
「さぁて、お昼お昼…」
「え? …え???」
擢真は間抜けな声しか上げられない。
「って…紅深先輩!!」
呼びかけに、第一図書室に向かっていた紅深は振り返る。
紅深の頬がほんのり上気しているのは…周りの気温の為か、己自身の感情の所為か。
「ありがと、ね」
小さく呟いて紅深が笑みを見せる。
夏休みは、今日から始まった。
恋愛白書−TAKUMA'S SIDE−<完>
2001年 2月26日(月)【初版完成】
2009年11月20日(金)【訂正/改定完成】