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三、趣味−ⅰ

 五月最後の木曜日…放課後。
 擢真は授業が終わると美術室に直行する。
 ――コンコン。
 擢真はゆっくりとそのドアをノックした。
 特に返事など期待せず、中に入り込む。

「あ、片桐くん」
 パタパタという軽い音と共に、擢真を呼ぶ声がした。
「入部してくれるの?」
 擢真を見上げるメガネ童顔少女…紅深を見下ろしつつ「やっぱり年上には見えないよなぁ」なんてことを思った。
 自分の中で紅深の言葉を繰り返した擢真は、その問いに疑問を感じた。
「『入部してくれるの』って…。入部させるつもりで誘ったんじゃなかったのか?」
「アハ、そうなんだけどさ。嬉しい」
 紅深はそう言って擢真の背中を軽く押す。

 ――背中を押された擢真は気づいていない。その時、紅深が上下式のドアの鍵をゆっくりと掛けたことを。
 そしてあまり音をたてないように…ドアの窓にあるカーテンを閉めた。

 

「あれ? そういえば、昨日もそうだったけど」
 クルリ、と擢真は教室内を見渡す。
 どう見ても(机の下、教卓の下などに誰かが隠れてでもいない限り)擢真と紅深の二人きりだった。
「部員って、いないのか?」
「え、ちゃんといるよ」
 「だけど」と前置きをして紅深は続ける。
「毎日きてくれる部員はいないのよねぇ」
「…え」
 それでは擢真的計画――陸上部顧問越前から逃れるために毎日部活動をしてほしい――にあまりありがたくない。
 というか、ある意味紅深のためだけにこの部屋が使えるのか? とか突っ込んだ擢真に動じることなく紅深は「わたしって、先生受けだけはいいから」とニッコリ微笑む。
 昨日も見た、紅深の笑顔。
 なんだか、不思議な魅力のある笑みだと思った。
 先生もこの笑顔に騙されて――なんて言っては言葉が悪いが――いるのだろうか。

「先生受け…ね」
 制服である格好はもちろんのこと、昨日の越前の様子からして確かに受けは良さそうだ、と思えた。
「確かに良さそうだな」
 擢真は思わず呟く。擢真の言葉を誉め言葉ととったらしい。紅深が「ありがと」と礼を言う。

「で、一応入部届け持ってきたけど」
 思い出したように擢真はヒラヒラと手に持った紙を揺らした。
「ああ、先生がいないと、判子とか押してもらえないのよ」
 「でも先生、今日はいないのよね」と紅深は少し考えるような表情を見せた。
「まぁ、いいか。わたしが預かっとく?」
 紅深の手から美術部の顧問…櫻田、とかいったか…に渡そうか、という提案だ。
 あまり面識がないからそっちの方が楽そうだ。
 が、こういうところはしっかりと自分でやるものだと擢真は思っている。
「いや、自分でやるよ」
 擢真は紅深から視線を外し、美術室を見渡した。壁には何人かの作品が飾られている。
 静物画と、ポスター。それぞれの絵の下には小さくクラスと名前が書いてあった。
 「んで、今日は何するの?」と擢真は髪を構いながら紅深に問う。
 今日はダークブルーのシャツを着ている。
 どうしても暗い色を好んで着てしまうのはどこかで自分の髪の色を際だたせたい思いが働くからであろうか。
 そんな擢真の問いを聞いてか聞かずか。
「……」
 紅深からの返事が、無い。
「おい…」
 何かするのか、と続くはずだった言葉は。
「じゃーん」
 紅深の輝く笑顔の前に掻き消えた。

「………」
 擢真は思わず、息を詰まらせた。
 ――女の、独特の香り。
 いや、女というよりは、小中学校の授業参観の時の香り、というか。
 紅深は固まったままの擢真の前でしっかりとした、少し大きめの箱をパカッと開いた。

(化粧…箱?)
 擢真はどこか呆然と、そんなことを思う。

「はいはいはいはい、座って座って」
「――え?」
 擢真は間抜けな声を上げた。
「す・わ・る!」
 紅深はそんな擢真にお構いなく、一文字ずつ区切るようにして指示を繰り返した。
 身長的には擢真の方が大きいのだが、何となく迫力負けして、指定された席に座る。

「んふー。やっぱり普段お化粧してない肌って、やっぱりキレイよねぇ」
 芸術に値するわ。
 そう、言うが早いか、擢真の頬にスーッとファンデーションが滑った。

「え、あ、あの…?」
 何がどうしてこんな現状?
 擢真は突然始まった作業に動けないまま、口を開く。、

「黙って」
 紅深はピシャリと言い置いた。
 擢真の目が泳ぐ。
 なんだ、なんだ、何なんだ。
 そんな擢真に反し、紅深は軽く鼻歌まで歌ってみたりして「つ・ぎ・は、アイシャドーっと」などと言っている。
 「目、閉じて」と擢真に指示をした。

 …もしかしたらここで目を閉じなければ、最後までやられるということにはならなかったかもしれないが、擢真は拍子抜けしていて、思わず指示通りに目を閉じてしまった。

「んー、やっぱあんまり濃い色じゃない方がいいわよねぇ」
 どれにしよーかなぁ。と非常に楽しげな紅深の声が聞こえた。
 目を閉じている擢真に現状はわからない。

「ブルー、パープル、ピンク…オレンジ!」
 これだ! みたいな声があがり、擢真の瞑った目…瞼に軽く何かが触れる。
 「次ぃ」と、カタカタコトコトと、化粧箱を漁るような音がして、
「ピンク、ローズ、ワインレッド…」
 擢真の聞いたことのない色の名が呟かれる。
 ピンクだけは分かったが…。
(何をする気だ?!)
 擢真は内心叫んだ。
「よしっと。唇『んーっ』て、して?」
「んー?」
「そうそう」
 『何やる気だ?!』と心で叫びつつ、紅深の言うことに従っている自分がなんだか悔しい擢真である。

「やーん、これだけで完成って言っても大丈夫そう
 ちょっとした歓声があがり、擢真は目をゆっくりと開けた。
 ――と。
 擢真の目の前に突然『にゅっ』と現れたのは、少し大きめの手鏡である。
「どう、どう? どう??」
 多少興奮状態の紅深が擢真に問う。
 擢真は、と言えば。

「あんじゃこりゃぁぁぁぁぁぁっっ??!!」

 教室中に響き渡る声で、叫んだ。
 何というか…コワイ。
 他のヤツからみればどうなのか分からないが、なんだか自分がおかまになったみたいで、半端じゃなくイヤな感じだ。
「うっわー、嫌だっ!!」
 こわっ! キモッ!!
 喚きつづける擢真に紅深は「えー」と声を上げる。
「そんなことないよ、とってもよく似合うじゃない
 ニッコリと、紅深は笑う。その笑顔に騙されてたまるか! と擢真はまた吼えた。
「男に化粧が似合っても、しょうがないだろうが!!」
 相手は先輩なのだが、擢真はずっとタメ口で対応してしまっている。
「えー、いい、いい。全然オッケー」
 擢真のタメ口を全く気にする様子なく、紅深はまだにこにこと笑っていた。
「あんたが良くとも、俺が良くないっ!!」
「はいはい、実はまだ未完成なのよー。座って」
 鏡を持って立ち上がっていた擢真を、紅深は席に押しつける。
「これ以上何する気だぁっ!!」
 「はいはい騒がない、騒がない」と、その手に握られていた鏡を奪った。
「他の人が来たらそれこそ恥でしょ」
「う゛…」
 擢真は声を失う。――紅深の言う通りであった。
 知ってるヤツなら…いや、知ってるヤツの方がなお恥ずかしいかもしれないが…知らない人に見られたら噂が着々と広まって――恥ずかしすぎて、学校に来られなくなる!!
 擢真が押し黙り、大人しくしているものだから、紅深はどんどんと作業を進める。

「カーラーで巻いて…と。うふ、目がぱっちり」
 子供のようにはしゃぎ、また次の作業に…の繰り返しで、完全に出来上がったのはそれから約二十分後のことだった。

 
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