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四、それから

 入部して、約二ヶ月。七月もそろそろ下旬…火曜日である。
 時の経つのが早いなぁと擢真は感じていた。
 期末テストも終了し、もうすぐ夏休みである。

 ミーン ミーン ミーン ミーン…

 飽きはしないのだろうかと思うほどセミは止めどなく鳴き続け、正直うっとうしい。
 擢真は机にダランとうつ伏せた。
 暑い盛りの、昼食後の四時間目。今は、現代文の時間である。
 教室内の生徒の九割がぐったりとしている。そのうちの半数以上は眠りたいが眠れない、といったところだろうか。

「この時の主人公の気持ちは…」
 暑さにも負けず、夏目漱石の小説を解説しているのは、擢真のクラス担任でもある福本である。昨年の文化祭では職員発表でフルートを奏で、時の人となった。
一見怖そうな顔つきではあるが、性格はそれに比例しない。
 「今日はこんなに暑いし、ダラダラしたくなるのもしょうがないよなぁ。ハッハッハッ!」…と言うような、そんな先生だったりする。

 擢真は一度、目を閉じた。
 今日は部活だ。…正確には、今日も、だが。基本的には顧問の櫻田のいる月曜日、水曜日、金曜日が部活の日であるのだが、紅深は美術室の鍵をもっているし、毎日やっている。
 …部活動らしい部活動であるかはまた別の話なのだが。

 時の経つのは早い。――本当に早い。

 ――放課後――

「あっ」
 美術室に入ると語尾にハートが付いていそうな紅深の声が響いた。
 紅深は擢真より早く美術室にいて、擢真はいつも紅深に迎えられる状態だ。
「あのね、あのね、あのね」
 童顔の紅深が、眼鏡越しの瞳をキラキラさせる。
「…何?」
 美術部に入部してからの紅深の行動は若干理解してきていたのだが…擢真は敢えて、聞き返した。
「あたしの手が、芸術を求めているの!」
 そう言いながら、紅深は擢真を椅子に押しつける。問答無用だ。
「――だから?」
 紅深がそう言う時は何をやりたいかわかっていながら…知っていながら、擢真はあえて問う。

「だから? ジッとして、ここに座って」
 ニッコリ
 輝くばかりの全開の笑顔。
「あぁーのぉーさぁー」
 座りはしたものの――正確には強制的に座らせられた、だが――何気に化粧をしようとする紅深の手をガードし、擢真は言葉を紡ぐ。
「部員が来ないってのも、あんたのその癖のせいじゃないのか?」
「…そうかしら?」
 そうである。
 紅深のこの、『お化粧させて』という癖が、部員を美術部から遠ざけているらしかった。
 何故なら月曜日、水曜日、金曜日の正規の部活の日…美術教師で部活顧問である櫻田がいる日には来て、きちんと部活動している。部活顧問の来ない日は、部員達も来ない。
 擢真が偶然美術室に足を踏み入れた日は顧問の櫻田が出張のため不在で、部員達が来ていなかっただけだった。
「ま、いいじゃない。キレイになることは良いことよ?」
 あっさりと当然のように紅深は言うが、そこで擢真は「そーだな」と素直に納得することはできない。
「化粧は俺じゃなくて、女にやればいいだろ?!」
 …そう。部活中には稀に、ではあったが擢真の友人である日奈や輝が来ているのである。(もちろん響も、だ)
 どうせ化粧をするなら男の擢真自分ではなく、女である日奈や輝にすればいいと思う。――それなのに、そういう時は『化粧をしたい』癖が出てこない。

「やるなら、やられなれてないヒトのほうが楽しいじゃない」
 紅深はきっぱり言うと化粧道具を置いた。
 …始める気満々、といった具合だ。

「でもさぁ」
 紅深はカチャン、と化粧その時間を始める合図のように化粧箱の蓋を開けた。
「その『悪い癖』に付き合ってくれてる擢真くんって、イイヤツだよね」
 いつもの、先生を丸め込むための『ニッコリ』ではなく、少々意地悪さを含んだ微笑み。
 思わず「う゛…」と声を上げる擢真に紅深は追い打ちをかけるように続ける。
「イヤなら、来なきゃいいのにさ?」

 言いつつ、ファンデーションを滑らせる。
 なんだかんだで紅深の言いなりに、化粧をさせている擢真はちょっとした言い訳を唇にのせた。
「…だってさ、好みの部活がないんだ」
 「どうせやるなら、夢中になれるのがいい」とも続けると「どういうのがいいの?」と紅深が突っ込んだ。
 問いかけに、擢真は考える。
「…作る、かな?」
 擢真は美術部に入っているが、絵は描かずに何かしら作っている。プラモデルであったり、彫刻であったり…この二ヶ月で作り上げたものの数は十前後と結構な数にのぼる。
 まぁ、学校のある週五日間(最低でも十五分ほどは)作業しているのだ。結構な作品数になるのも無理はない。

「作る? …調理部とか、手芸部は?」
 擢真の答えに紅深は提案をする、
「調理はともかく、手芸はなぁ。あんま、俺好みじゃない」
 なんだかんだで大人しく化粧をさせたまま擢真は会話を続ける。
「ついでに…女子だらけの中、男一人ってのはちょっと…」
「うーん、確かに…」
 紅深は頷きつつ、「目を閉じて」と指示した。瞼の上に、柔らかいような堅いような感触がゆっくりと動く。
「今日はブラウン♪」
 鼻歌混じりに言いつつ、紅深は言葉を紡いだ。
「写真部なんて、どうよ?」
 「作るとはちょっと違うけど」と紅深は言い「何となく絵を描くことに似てない?」とも続ける。
 そんな紅深に擢真は「うぅーん」と小さく声を上げた。
「…あんたはさ、噂、知らねぇの?」
「――噂?」
 何それ? と問いかけつつ、今度は頬の上を太い筆のような物で撫でる。

「ま、真実のほどは定かじゃねぇけど。エロい写真売ってるって噂」
 続いた言葉に紅深は若干の間を置いた。
「…へぇ」
 「そうなの」と呟きつつ、紅深が複雑そうな顔をしていたことを擢真は知らない。何となく擢真の口から『エロい』という言葉が出てきたのが変な感じ、と思っていたことも。
 紅深の思考に気付かないまま擢真は「そういう噂があるから、イヤだ。俺のプライドが許さないし」と呟く。

「じゃ、模型愛好会とか、パソコン愛好会は?」
 そんな紅深の提案に、目を閉じていた擢真が目を開けた。
「そんなの、あんの?」
「擢真くんが作ればね」
 切り返した擢真に少々笑いつつ紅深は応じた。
(オイオイオイ…)
 そう思いつつ、もう一度、目を閉じた。
 …なんだかんだと文句を言いつつ、擢真はこの時間がスキになりつつあった。
 化粧をさせられるのはちょっとイヤだったが、優しく、柔らかく触れる紅深の指や、紅深との対話をするこの時間は案外悪くない。
「あとは…うーん、少なくともあたしは思いつかないかな」
 紅深は言いながら口紅を塗る。擢真は喋りたくとも喋れない。

「はい、完成

 「あたしってば、いつもながらいい腕」と、自画自賛しながら紅深は擢真に目を開けるように指示する。
「今日のテーマは『秋色の人』です」
 ちょっとかしこまった口調で、紅深は鏡を差しだしながら擢真に言う。
(秋色…)
 今は、夏真っ盛り――下手すればこれからさらに暑くなっていくが――そんな中、『秋色』か?
 擢真はそう思ったが、口には出さなかった。紅深に「どう?」と示されたところで常にノーコメントで、感想ナシである。

 …そしてここ最近、紅深は『化粧以上』に事を発展させようとする。
 つまり…。
「ねぇ、擢真くん、今日も頑張って洋服持ってきたのよ?」
 着てくれないの? と紅深は言った。
 ここ最近――紅深は、顔に化粧をするばかりではなく、擢真に服まで着替えさせようとするのだ。
「………」
 擢真はしばし沈黙でもって応じた。
 ――この化粧タイムが『嫌いじゃない』と感じている擢真。
 「自分は実は『女装したい』という気があったのか?!」と頭を悩ませている時――これ以上『女装好き』になるかもしれない、進展させるかもしれない原因を作りたくないし、増長させたくなかった。
「いや、俺の中のギリギリは化粧までだ」
 擢真が紅深に構うことを許すのは顔だけだ。
 髪の毛(正確には髪型)には手を出させない。爪にもマニキュアを塗らせたりしない。
「ぶー」
 紅深はブタのように文句を言うと、さっさと諦めたらしく、服をカバンの中に入れた。

「さーてと。…あ、部員として、協力してくれる?」
「何?」
 急に話が切り替わる。キュッと口元を引き締め、紅深が擢真に言った。マジメモードの、真剣な瞳。
「モデル、お願いできる?」
「モデル?」
 真剣な瞳と言葉ではあったが、擢真は「この女装姿を絵にするのか」とちょっとばかりイヤな顔をする。そんな擢真の感情を見取ったのか「あ、大丈夫」と言ってまた、笑った。

「ちょっと通信教育の課題があってね。人間の身体の線…骨組みって言うのかな? それを描けっていう課題なんだ」
 大きい紙を擢真にさしだす。それは通信教育の教材らしく『こういうものを描いてみよう』という出だしで、人間の厚みを全く気にせずに描いた棒人間の絵がでかでかと載っていた。
「本当は家の人をモデルに、とか書いてあるんだけど…うち、共働きでいないから」
 大きな紙に書いてある文章と描かれた絵を擢真は眺める。そんな擢真に対し、紅深は「お願い!」と軽く手を合わせた。
「あぁ、そんなことならいいよ」
 少しだけ笑うと、「どうすればいい?」と擢真は立ち上がる。紅深は「ありがとう」と礼を言った。
「擢真くんの楽な格好でいいよ」
 座ってても、立ってても、壁に体を預けてても…と、一例を示す。
「ん、じゃあ、楽な格好…」
 擢真は呟いて一度立ち上がったが、椅子に座る。
 ピシッと姿勢よく…ではなく、少し俯き加減で背もたれに両腕を置いた。
「動いてもいいの?」
「大きく動きを変えないならいいわよ」
 そう言うと、紅深はいつも持ち歩いている大きなスケッチブックを広げた。渋い紅色の、黒い縁取りのある物である。

 …シン…

 ――沈黙が、訪れた。

 
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