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五、変化

 ス――シャシャッ
 鉛筆がスケッチブックにはしる音だけが美術室を支配する。
 ふと擢真が顔を上げると紅深と目が合った。

(…っ)

 次の瞬間にはフイッと擢真は目をそらし、なぜか、呼吸を整える。
 鼓動が早くなったせいだ。そのせいでなんとなく酸素が足りない感じがして――ついでに、胸がぎゅっとした。…初めて見る、紅深の真剣な表情。
 そういう表情を今までしていたのかもしれないが、少なくとも擢真は見たことがない。
(…???)
 自分の様子が変なことはわかる。…なぜ急に鼓動が早くなったのだろう?

「――」
 紅深は小さくため息をついた。パラッと乾いた音をたててスケッチブックをめくる。
 気に入らない出来だったらしい。
「擢真くん、ごめん。少しポーズ変えてくれる?」
 トクン トクン トクン トクン…
(なんだ? なんだ??? なんだ?!)
 自分の中で響く音に集中していて、紅深の声は擢真に届いていなかった。

「擢真くん?」

 紅深は立ち上がり、自分の方を見ていない擢真を覗き込む。まるで幼児と視点を合わせるよう具合だ。
「!! うをあっ?!」
 そんな紅深の様子…というか、紅深と目が合ったことに、擢真が必要以上に驚く。
「ど、どしたの?」
 その驚き方に紅深のほうも驚いた。童顔である彼女の、大きい目がさらに大きく見開かれる。
「な、何でもないっ!!」
 そう言うと擢真は椅子の背もたれに背中を預けてちゃんと座った。つまり、紅深から見れば後ろ姿だ。
「???」
 紅深はちょっとばかり「どうしたんだろう」と言わんばかりに首を傾げつつも、擢真が一向に動こうとしないのでそのポーズをスケッチすることにしたらしい。
 一つ息を吐き出すとまた、真剣な表情となる。

 シュ… ス、ス…
 擢真の耳には鉛筆がスケッチブックを走る音が聞こえる。
 ――当然だ。静かなこの美術室部屋にいるのは擢真と紅深の二人だけなのだから。
(二人、だけ…)
 擢真はその事を突然意識し始める。
 ドクン ドクン ドクン…
 気のせいであろうか、先程よりも更に鼓動が早く――大きくなっている。
(何だ、何だ、何なんだっ?!)
 擢真は紅深に背を向けていた。神経は背中に集中している…気がする。
 見られている。
 そう思うと、さらに鼓動が早くなった。
 このまま心拍数が上がっていけば、そのまま心臓は止まってしまう…というか、破裂してしまうのではないだろうか。
(やべぇ、俺ってもしかして心臓病?)
 突然の自分自身の心臓の状態に、そんなことを思う。
 ――今までだって紅深と二人っきりだったことがある。
 それこそ、何度も。
 なのに、なんで、こんな――

「あぁ、もうっ!」
 紅深の一声に、擢真の肩がビクリと揺れた。
 何なんだろう? 恐る恐る、というような動きで擢真は声の主――紅深へチラリと振り返る。
 紅深はスケッチブックを近くの机の上に置き、腕を大きくのばした。
「ふにゃあ」
 妙な効果音をつけながら、のびる。
「…?」
 ゆっくりと…だが、確実に。擢真の心拍数は通常に戻りつつあった。
(――何だったんだ?)
 自分自身でナゾだった鼓動。今は落ち着きだしている心臓にそんなことを思う。

「もう、終わりっ」
 しゅーりょーと言いながら、紅深は立ち上がった。
 ちゃっちゃと擢真の前の席に移動すると、化粧箱を開けた。
 擢真に施した化粧を落とすらしい。
 とはいってももうすぐ五時で、文化系の部活は基本的に五時までが活動時刻なので帰る準備をするならしなくてはならない。

「うーむ」
 頬、瞼、顎…ゆっくりと化粧落としシートを滑らせながら、紅深は唸った。
「なんだ?」
 すっかりいつもの調子に戻った擢真は普通に聞き返す。
「擢真くんって、まつげが長いなぁ、と思って」
 その言葉が切れると、擢真はゆっくりと目を開けた。

「ん?」

 紅深が軽く首を傾げているのが、擢真の視界を占領した。
「…」
 ――唐突に。

 擢真の中で、一つの思考が支配した。
 ――触れたい、と。

 先程の、真剣な表情の紅深。
 人に化粧をしたがる、ちょっと子供っぽい紅深。
 どちらも紅深だ。
 その二つの表情を持つ紅深の顔に触れる。

 ゆっくりとその、柔らかい頬に…。

「…擢真くん?」
 「まだ終わってないけど…」と、化粧落としシートを片手にそう続けようとした紅深の言葉を遮るように、擢真がガタンッと凄い音をたてて椅子をひっくり返した。
 なかなかの勢いで。

(――今日の俺、変だ!)

 今、頬に触れた後に、何をしようとした?
 …紅深の柔らかな…すべすべとした肌。
 紅深自分に化粧をすればいいのに、と頭の片隅で思いながら触れた頬。

 その頬に触れた後――
(何をしようとした、俺?!)

「――…っ!!」
 カーッと、頭に一気に血が上る。
 擢真の顔が夕日の所為にできないほど、真っ赤だ。

「??? 擢真くん、どうしたの???」
 わけがわからない、といったように紅深が首を傾げる。
 そんな紅深に対し、擢真は椅子をひっくり返したままアワワと言葉を続けた。

「わりっ!! 俺っ!! 変っ!! 帰るっ!! 今日!!」

 ――『言葉』ではなく、『単語』だけを言い、擢真は自分の荷物を掴む。
「あ、擢真くんっ!!」
 紅深の声は聞こえていた。だが…
(うわぁぁぁぁっ!! 今、オレの顔を見ないでくれぇぇぇぇぇっっ!!)
 自分でも顔が火照っているということが分かる。――ということは、かなり真っ赤だということじゃないか!!

 ガシャーッ
 ズダダダダダダダダダダダダダッッッ!!!

 擢真は紅深の呼び掛けに応じず、ついでに開けたドアを閉めないまま走り去る。
 越前の惚れこんだ早さだ。かなり、早い。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ」

 叫びつつ、擢真は昇降口に向かった。
 叫び声だ。すれ違う何人もの…大まか…生徒が振り返る。
 放課後の職員室にも擢真の「うわぁぁぁぁっっっ」という声は届いていた。
 諸先生方はその声がしてから廊下側を見たから、誰が通過していったかなんてことは分からなかった。

 

 一方、美術室に取り残された紅深は、しばしぼんやりと擢真が開けたままにしたドアを見つめる。
 いくべき場のない手は中途半端なまま、呟いた。
「お化粧、完璧に落としてないのに…」
 続けて呟いて、紅深ははっとした。
「――どうせ出ていってしまうのなら、もっとお化粧の完璧度が高いときに出ていけばよかったのに、擢真くん!!」
 と、拳を握る。

 紅深のそんな声を聞く者はいなかったが、紅深は自分の作品…つまり、擢真の化粧姿…を見てもらうことを諦めていない、ということがわかる。
 もし、いつもの擢真が紅深の発言を聞いていたのなら『ナニを言うんだ!!』とか怒鳴っていたことであろう。

 紅深は化粧箱を片づけ、擢真が倒したままにした椅子を起こす。
「…そういえば急にどうしたのかしら…」
 叫びつつ走り去った擢真――当然影も形もない――が開けたままのドアを見て、再び首を傾げた。

 
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