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六、想い−ⅰ

 紅深を前に、心臓が変になった。
 …いや、擢真自身が『変』だった――次の日。
 擢真は初めて部活をさぼった。水曜日である今日は、顧問もちゃんと来る正規の活動日である。

「あれ、片桐?」
 友人の少年…響がその姿を教室で見つけると声をかけた。
 只今四時十五分。いつもの擢真だったら、とっくに部活の方に顔を出している時間だ。
 机の上にグターッとうつ伏せになっていた擢真はその声に顔を上げる。
「榊原…」

 

 昨日は靴を履き替えるのももどかしく、思いっきり走って帰った。
 心臓はバクバクとうるさかったが、久々に走ることはなかなか気持ちが良かった。
 そんな具合で、家に到着した擢真に――母親からの一言。
「あら擢真、顔どうしたの?」
 はぁ はぁ はぁ はぁ…
 全速力で走って帰ってきた擢真は肩で息をし、言っている意味がわからず、問い返す。
「…顔?」
「ええ。なんか…お化粧したみたいな」
 母親である真子がちょっとばかり首を傾げつつ続ける。
(――け、しょう…)
 擢真は自分の中で真子の言葉を繰り返し…猛ダッシュして火照ったハズの体、背筋に冷や水を浴びせられたような錯覚に陥った。
 顔 面 蒼 白

「忘れてたぁぁぁぁぁぁっっっ!!」

 突然叫ぶ息子の様子を見て、真子はこっそり予測した。
(――実は美術部とか何とか言いながら、女装愛好会、とかにでも入っているのかしら?)
 ともかく、自分の息子は結構きれいな肌をしていることは真子も知っていたので、化粧落としの自分の化粧台から化粧落としの洗顔フォームを出す。
「それで洗った後は普通の洗顔フォームで洗って、乳液つけときなさいよ?」
 真子は擢真に渡そうと手を伸ばしたが、『俺は燃え尽きたぜ…』というあおりがよく似合いそうな表情で座り込んでいた。
 真子は小さくため息をついてから擢真の目の前に化粧落としの洗顔フォームを置き、夕飯の準備を始めようと台所に向かう。
「今夜はお・で・ん♪♪♪」
 鼻歌まじりの真子の声。
 多少音痴な自分の母の声でさえ、擢真には届いていなかった。

(夢中になって走ってたけど、一体何人とすれ違った?)
 よくよく記憶をたどってみれば、みんながみんな、振り返っていたような気がする。

(あれは…俺が化粧してたせいだったのか?)
 ────いや、喚いていたせいだろうが。

 明日…明日から…
「俺はからかわれ続けるんだぁぁぁぁぁっっっっ!!!」
 うをぉぉぉぉぉぉっっ!!!
 そんな息子の叫び声にも気をとられず、真子は料理を続けた。

 …そして、運命の翌日。

 誰も、からかったりしなかった。
 擢真はどんなに熱が出ていようと医者が『行ってもいいんじゃない?』と言えば真子に引っぱってでも連れてこられるのでズル休みなんてコトできないし、したこともない。
 だから恐怖だったのだが。
(何だ、そうだよな。俺の顔知ってる奴なんて、昨日すれ違ったヤツの中でも、そうそういるわけじゃないだろうし)
 と、かなり安心したのだった。
 …が。
 実際には、物凄いスピードで走り去った擢真の顔をきちんと見極めた者だと居ないに等しかったのである。

 

 ――そして、放課後。
 擢真は美術室には行かなかった。
 放課後、教室の机にうつ伏せている…なんていう現状を越前にでも見られたら陸上部に強制連行されていることであろう。
「珍しいな…ってか、初めてじゃないか? 部活に行かないの」
 響は言いながら擢真の前の席に座る。
 「そう、だな」と応じながら、擢真は微かに笑った。
 なんかいつもと様子が違うなぁと、頭の端で心配をしながら、そんな素振りは全く見せずに、響はジッと擢真の顔を覗き込む。
「どうした?」
 いつものからかう調子で響は話しかけた。
「…」
 ――沈黙。
 擢真の様子に「これはマジメに変だぞ」と響は考え直し「どうした? 何か、悩み事か?」と今度は真剣に問いかける。
 そんな響の声を聞きながら、擢真はボソッと言った。
「…榊原…」
「ん?」

 ────と、言葉を続けようとした時…
「あっれー? たっちゃん!! 響!!」
 静まり返った教室に、その声はよく響いた。擢真と響の友人であるきらである。
「…輝」
 響はガックリという具合に肩を落とした。
 その様子はしっかりと見えていたが、輝は無視をする。
「なーんだ。今日はちょっと美術室の方に行ってみたらさぁ、ほとんどの人がいないし、たっちゃんもいないし」
 教室にいたのかぁ、と輝は続けると、もう一人もひょいっと顔を出した。
「あれ…擢真?」
 首を傾げるのと同時に、顎の辺りで切りそろえられた黒髪がサラリと滑った。美人で少々近寄りがたい雰囲気の少女…擢真と響の友人、そして輝の友人の日奈である。

 ほとんど人がいない、という輝の言葉に擢真が顔を上げる。
 擢真の言葉を代弁するように「ほとんど人がいなかったのか?」と響が輝に問いかける。
 問いかけに輝は頷き、続けた。
「今日は櫻田…だっけ? とにかく顧問の先生がいないからって、部長の人しかいなかったよ…えっとー」
「刈田サン」
 日奈がこそっと言うと「そうそう刈田さん」と輝は言う。
 ――擢真は『刈田』という名前にピクリと反応した。
 その名前を聞いただけで…なんでか昨日の自分の行動を思い出す。

 ――自分は何をしようとした?

 考えて、考えて。
 足の先から『考え』が溜まっていくのだとして、頭の先が満タンだったのなら。
 すでに、顎のあたりまで答えは来ているのだ。
 だがその後は抑える自分がいて、答えを引き出そうとはしない。
 しかしその答えがわかるまで、何となく自分はあの空間には戻れない、と思った。
 擢真は机に肘をついて、目を伏せる。

「…擢真?」
 日奈がゆっくりと擢真の額に触れた。
 冷たい手が気持ちよくて、ゆっくりと瞳を閉じる。
「特に熱はないみたいだけど…」
 日奈があまり表情を変えないまま――けれど、友人として付き合っているうちにわかるようになった、案じる顔で「本当にどうしたの?」と心配そうに擢真に問う。
 目を瞑った擢真はしばらく応じない。細く息を吐き出し、目を開くと日奈の手が外れた。
 擢真は日奈に「大丈夫」と応じる代わりに笑みを見せる。その笑みに日奈は数度瞬いた。
「…榊原」
「んあ?」
 擢真の呼び掛けに対し、響の態度は悪かったが、別に怒ってるとかそういうわけではない。あくびの出た、すぐ後の所為だ。
「今日、お前ん家、行ってもいいか?」
 ――そんな問いかけは、親しくなって…つるんできて、約一年半。初めての提案だった。
 響は「オッケ」と短く応じる。ニッというその笑みは頼もしそうに見えた。
 擢真はその笑顔に力強さを感じながら、荷物を持って立ち上がる。

「えー、どうしてアタシ等はダメなのぉ?」
 自転車で十五分…歩いて約三十分の所に響と輝の家はある。
 響と輝は幼なじみだ。屋根を渡れば響と輝の部屋を行き来することも可能だったりするらしい。
「男同士の話」
 きっぱりと響は言う。
「だから、今日はひーと語り合いでもしてろよ」
 ちなみに『ひー』とは『日奈』のことである。
 輝はちょっと考えると「それもそっか」と、何に納得したのか…とりあえず、納得した様子を見せる。
「たまには女同士の話もいいよね…暴露大会とか
 ウヒッ、という妙な笑いが付きそうな言い方で輝が言うと、日奈の方に振り返った。
「さぁ、マイルームへご招待!」
 輝は日奈を家にズルズルと引きずり込んでいく。
 ちょっとばかり強制連行に見えた。
 そんな二人の様子を見送っていた擢真だったが、響に「まぁ、上がれや」と家を示され「お邪魔します」と響の後に続いた。

 
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