紅深を前に、心臓が変になった。
…いや、擢真自身が『変』だった――次の日。
擢真は初めて部活をさぼった。水曜日である今日は、顧問もちゃんと来る正規の活動日である。
「あれ、片桐?」
友人の少年…響がその姿を教室で見つけると声をかけた。
只今四時十五分。いつもの擢真だったら、とっくに部活の方に顔を出している時間だ。
机の上にグターッとうつ伏せになっていた擢真はその声に顔を上げる。
「榊原…」
昨日は靴を履き替えるのももどかしく、思いっきり走って帰った。
心臓はバクバクとうるさかったが、久々に走ることはなかなか気持ちが良かった。
そんな具合で、家に到着した擢真に――母親からの一言。
「あら擢真、顔どうしたの?」
はぁ はぁ はぁ はぁ…
全速力で走って帰ってきた擢真は肩で息をし、言っている意味がわからず、問い返す。
「…顔?」
「ええ。なんか…お化粧したみたいな」
母親である真子がちょっとばかり首を傾げつつ続ける。
(――け、しょう…)
擢真は自分の中で真子の言葉を繰り返し…猛ダッシュして火照ったハズの体、背筋に冷や水を浴びせられたような錯覚に陥った。
顔 面 蒼 白
「忘れてたぁぁぁぁぁぁっっっ!!」
突然叫ぶ息子の様子を見て、真子はこっそり予測した。
(――実は美術部とか何とか言いながら、女装愛好会、とかにでも入っているのかしら?)
ともかく、自分の息子は結構きれいな肌をしていることは真子も知っていたので、化粧落としの自分の化粧台から化粧落としの洗顔フォームを出す。
「それで洗った後は普通の洗顔フォームで洗って、乳液つけときなさいよ?」
真子は擢真に渡そうと手を伸ばしたが、『俺は燃え尽きたぜ…』というあおりがよく似合いそうな表情で座り込んでいた。
真子は小さくため息をついてから擢真の目の前に化粧落としの洗顔フォームを置き、夕飯の準備を始めようと台所に向かう。
「今夜はお・で・ん♪♪♪」
鼻歌まじりの真子の声。
多少音痴な自分の母の声でさえ、擢真には届いていなかった。
(夢中になって走ってたけど、一体何人とすれ違った?)
よくよく記憶をたどってみれば、みんながみんな、振り返っていたような気がする。
(あれは…俺が化粧してたせいだったのか?)
────いや、喚いていたせいだろうが。
明日…明日から…
「俺はからかわれ続けるんだぁぁぁぁぁっっっっ!!!」
うをぉぉぉぉぉぉっっ!!!
そんな息子の叫び声にも気をとられず、真子は料理を続けた。
…そして、運命の翌日。
誰も、からかったりしなかった。
擢真はどんなに熱が出ていようと医者が『行ってもいいんじゃない?』と言えば真子に引っぱってでも連れてこられるのでズル休みなんてコトできないし、したこともない。
だから恐怖だったのだが。
(何だ、そうだよな。俺の顔知ってる奴なんて、昨日すれ違ったヤツの中でも、そうそういるわけじゃないだろうし)
と、かなり安心したのだった。
…が。
実際には、物凄いスピードで走り去った擢真の顔をきちんと見極めた者だと居ないに等しかったのである。
――そして、放課後。
擢真は美術室には行かなかった。
放課後、教室の机にうつ伏せている…なんていう現状を越前にでも見られたら陸上部に強制連行されていることであろう。
「珍しいな…ってか、初めてじゃないか? 部活に行かないの」
響は言いながら擢真の前の席に座る。
「そう、だな」と応じながら、擢真は微かに笑った。
なんかいつもと様子が違うなぁと、頭の端で心配をしながら、そんな素振りは全く見せずに、響はジッと擢真の顔を覗き込む。
「どうした?」
いつものからかう調子で響は話しかけた。
「…」
――沈黙。
擢真の様子に「これはマジメに変だぞ」と響は考え直し「どうした? 何か、悩み事か?」と今度は真剣に問いかける。
そんな響の声を聞きながら、擢真はボソッと言った。
「…榊原…」
「ん?」
────と、言葉を続けようとした時…
「あっれー? たっちゃん!! 響!!」
静まり返った教室に、その声はよく響いた。擢真と響の友人である輝である。
「…輝」
響はガックリという具合に肩を落とした。
その様子はしっかりと見えていたが、輝は無視をする。
「なーんだ。今日はちょっと美術室の方に行ってみたらさぁ、ほとんどの人がいないし、たっちゃんもいないし」
教室にいたのかぁ、と輝は続けると、もう一人もひょいっと顔を出した。
「あれ…擢真?」
首を傾げるのと同時に、顎の辺りで切りそろえられた黒髪がサラリと滑った。美人で少々近寄りがたい雰囲気の少女…擢真と響の友人、そして輝の友人の日奈である。
ほとんど人がいない、という輝の言葉に擢真が顔を上げる。
擢真の言葉を代弁するように「ほとんど人がいなかったのか?」と響が輝に問いかける。
問いかけに輝は頷き、続けた。
「今日は櫻田…だっけ? とにかく顧問の先生がいないからって、部長の人しかいなかったよ…えっとー」
「刈田サン」
日奈がこそっと言うと「そうそう刈田さん」と輝は言う。
――擢真は『刈田』という名前にピクリと反応した。
その名前を聞いただけで…なんでか昨日の自分の行動を思い出す。
――自分は何をしようとした?
考えて、考えて。
足の先から『考え』が溜まっていくのだとして、頭の先が満タンだったのなら。
すでに、顎のあたりまで答えは来ているのだ。
だがその後は抑える自分がいて、答えを引き出そうとはしない。
しかしその答えがわかるまで、何となく自分はあの空間には戻れない、と思った。
擢真は机に肘をついて、目を伏せる。
「…擢真?」
日奈がゆっくりと擢真の額に触れた。
冷たい手が気持ちよくて、ゆっくりと瞳を閉じる。
「特に熱はないみたいだけど…」
日奈があまり表情を変えないまま――けれど、友人として付き合っているうちにわかるようになった、案じる顔で「本当にどうしたの?」と心配そうに擢真に問う。
目を瞑った擢真はしばらく応じない。細く息を吐き出し、目を開くと日奈の手が外れた。
擢真は日奈に「大丈夫」と応じる代わりに笑みを見せる。その笑みに日奈は数度瞬いた。
「…榊原」
「んあ?」
擢真の呼び掛けに対し、響の態度は悪かったが、別に怒ってるとかそういうわけではない。あくびの出た、すぐ後の所為だ。
「今日、お前ん家、行ってもいいか?」
――そんな問いかけは、親しくなって…つるんできて、約一年半。初めての提案だった。
響は「オッケ」と短く応じる。ニッというその笑みは頼もしそうに見えた。
擢真はその笑顔に力強さを感じながら、荷物を持って立ち上がる。
「えー、どうしてアタシ等はダメなのぉ?」
自転車で十五分…歩いて約三十分の所に響と輝の家はある。
響と輝は幼なじみだ。屋根を渡れば響と輝の部屋を行き来することも可能だったりするらしい。
「男同士の話」
きっぱりと響は言う。
「だから、今日はひーと語り合いでもしてろよ」
ちなみに『ひー』とは『日奈』のことである。
輝はちょっと考えると「それもそっか」と、何に納得したのか…とりあえず、納得した様子を見せる。
「たまには女同士の話もいいよね…暴露大会とか♡」
ウヒッ、という妙な笑いが付きそうな言い方で輝が言うと、日奈の方に振り返った。
「さぁ、マイルームへご招待!」
輝は日奈を家にズルズルと引きずり込んでいく。
ちょっとばかり強制連行に見えた。
そんな二人の様子を見送っていた擢真だったが、響に「まぁ、上がれや」と家を示され「お邪魔します」と響の後に続いた。
「…そういえば、お前の家に来るの初めて、だな」
「あぁ、そう言われてみればそうだよな」
そう言いつつ出された菓子は…みたらし団子。ついでに日本茶付きである。
『オレの部屋』と響に通された部屋は和室…しかも八畳はあろうかという広い部屋だ。
勉強机はなく、部屋の真ん中辺りに普通の木製の机が置いてあった。冬にはコタツになるかもしれない。
響の部屋に扇風機はあったが、響は窓を開ける。
今の風は心地よいもので、人工的に空気をかき混ぜるよりは窓を開けたほうが気持ちよさそうだ。
(…言っちゃ何だが)
擢真は響に放り投げられた座布団に腰を下ろしながら軽く部屋を見渡し、続いて響を眺める。
「――お前、この部屋には似合わんな」
思わずシミジミと言ってしまった擢真だったが「何でオレが部屋に合わせなきゃいけないんだよ」とどっかりと座りこんだ。
ちなみに本日の響の色合いは原色の紫に炎のイラストプリントTシャツと、目に鮮やかな青色の膝下までのハーフパンツ。…と、ナカナカすごい色合いである。
「いや、いけないとは言ってないけどよ」
思わずこぼした擢真の言葉に反抗的な言葉を発したものの、機嫌を損ねたというわけではないらしい。
「日本なら日本らしく和風の家でいいだろが。いいじゃん、和室」
そう言うと急須と茶碗を自分側に置き、響は一口熱い茶を飲んだ。猫舌である擢真はまだ飲めないな、なんて出された茶碗を眺めていた。
すると、響はゆっくりと切り出す。
「さぁて、何でも言ってごらん?」
ここまできてウジウジしている自分がイヤだ、とは思ったが、すぐには話を切り出すことができない。
フーッと茶を冷ますように息を吹きかけてから、擢真は何度か呼吸を繰り返す。
「よし」と口の中だけで呟くと腹をくくった。
「あのな…」
「――へ?」
「だから」
響があまりにも目を丸くするもので、やっぱり変なことを言っただろうか? とも思いつつ、擢真はもう一度言った。
「急に、触れたくなったりしないか?」
「…女に?」
その切り返しは、露骨な言い方だった。
「…女っていうか…」
少しばかり言葉を濁らせると響は「特定のヤツに、か?」と案外穏やかな口調で続ける。
擢真は思わず、響の顔を見る。目が合うとニッと笑った。
「ある、ある」
うんうんと首肯し、また笑った。――それは少し、苦笑とも言えそうな笑顔。
「あるのか? …お前も?」
「おうよ」と響はオヤツのみたらし団子を頬張った。
咀嚼して、飲み込んで。日本茶を飲んだ。
「しかも、毎日ってほど」
「毎日?!」
続いた言葉を思わず繰り返してしまった。
それは、自分にも起こりうることなのであろうか?
擢真は昨日の動悸を思い出して我知らず胸元を掴んだ。…昨日の動悸が毎日、ずっと続くとしたら心臓が保たなそうだ。寿命が短くなる気がする。
「そ」
擢真は「誰に?」と言おうとして、やめた。
なんだか噂好きの安っぽいヤツに思えて。――それから、その質問は相手に対して失礼な問いと思えて。
「お前、顔が『相手誰?』って言ってるぞ」
クックック、と本当におかしそうに笑いながら響は言う。
「…わり」
「いいって、いいって。オレだって気になるしな」
言いながらまだ笑っている響を見て擢真は今更ながら思った。
友人として、イイヤツだなぁと思う。…スキだなぁ、と。
ひっそり友人として惚れ直している擢真に気付かず、響は続ける。
「しかもオレの場合…向こうが特に気にせず腕組んだりとかしてくるからさ」
結構、辛いわ。とその言葉に擢真は顔を上げる。
「――彼氏いるくせにさ」
ボソッと付け加えた言葉に擢真の中のパズルがカチッと噛み合った。
脳裏に思い浮かぶ、一人。
「おま…まさか…」
それ以上言う前に「その先は言うなよ?」と、響は茶碗を掲げた。
「多分その先に出てくる名前は合ってるだろうからな」
呟きに瞬いて、猫舌の擢真はまだ飲めない温度の日本茶に息を吹きかける。
「…お前が、ねぇ」
言いながら擢真の頭の中に浮かぶのは――響と並ぶといつも以上に派手になる組み合わせになる少女…輝の姿だった。
「十年…飽きっぽい自分がよく今まで想ってると思うよ」
ズズズ、と茶をすする。響は熱いモノ好きらしい。
「十年も?」
「そんくらいは経ってると思うぞ」
(十年か…凄いな)
純粋に感心していた擢真だったのだが。
「――さぁて」
響は低めの声で言いつつ、指をポキポキと鳴らした。「次はお前の番な」という言葉に「…へ?」とちょっとばかり間抜けな声を上げてしまう。
「オレの中では『触れたい』っつーのか『想ってる』ってことだからな。相手を白状してもらいましょ?」
未だに指をポキポキ鳴らしている響は…いつもの響だった。
――擢真をからかって楽しむ、響に戻っていた。
「まさかここまで白状させといて自分は言わない、なんてことはないよな?」
「う゛」
響はニヤニヤと笑う。…そんな言い方をされたら絶対に白状せねばならないではないか。
かと言って、ペロッと言えるような擢真ではない。
躊躇って言葉を濁す擢真に響はあっさり言った。
「オレの予想としてはぁ、刈田さん、だけどな」
…長いような、短いような、沈黙が流れた。
「わかるのはえぇよ!!」
思わず喚いた擢真に「だって」と響は飄々と言葉を続ける。
「突然そんなこと言いだして、今日部活に行かないってことは美術部の誰かだろ?」
そこで一旦言葉を区切り、響は擢真を眺めた。また、ニヤリと笑ってみせる。
「でも、オレが名前知ってんのは刈田さんくらいだけどな」
「……」
(これを『墓穴を掘る』と言うのか。ハハッ、日本語の勉強だ)
顔を微かに赤くし…しかもどことなく青くするという、なかなか器用な芸当をしている…擢真はそんなことを思った。
擢真の顔色をチラ見しつつ響は茶をすすって言った。
「そうかそうか。ま、頑張れよ」
あっさりさっぱり飄々と。
「────お互いにな」
擢真はやっとのことで響にそう返すと、やっぱりサラリと「違いない」と言われ「勝てない」なんてことを頭の隅で思う。
「お邪魔しましたー」
響の家から帰りつつ、擢真は考えた。
何となく、自分の中でモンモンと考えるよりはスッキリした。良い感じだ。
今日の会話を反芻する。そして次の瞬間、赤面した。
(俺って気が早い…)
『なぁ、『触りたい』って思うと、まずどこ?』
間があって、響はボソッと言う。
『片桐、その言い方やらしい…』
『え、そ、そうか?』
『しかもそんなことまで言わせる気か? ここでいきなり…』
『うっわー、待て待て!!』
下ネタ突入の意志を察知し、止めた。そんな擢真の姿を見て『プッ』と吹きだすと響は言う。
『オレの場合は、手、かな』
『手?』
『んー、笑われそうだけど、手をつなぎたい、とか思う』
『…へぇ』
『この野郎、少女趣味とか思ったな』
言ってしまったものはしょうがなかったが響はこの時(少なくとも擢真の前では)初めて赤面した。それを見て、今度は擢真の方が吹きだす。
『…失礼なヤツだな』
『お互いにな』
『あのなぁ』
ビシッと指さし、響は擢真に言う。
『お前確か、頬に触ったとか言ったな』
…そう。こってりと暴露させられたのである。
無言を肯定ととり、響を続ける。
『つまりはそのまま引き寄せてキスしたかったことじゃないの?』
そう言って、ニヤリと笑う。擢真をからかう時の表情だ。
『イヤン、擢真くんてばエッチ♡』
そう言われて、顎で突っ掛かっていた答えが(ある意味)無理矢理引き出される。
『キスって…』
自分がボーッとしていて、思っていることをそのまま言ってしまっていることに気づかぬ擢真に、響はあっさりと言った。
『唇と唇を重ねること。接吻。『気を吸う』ってのも語源らしい』
『うわっ、俺って…』
我知らず口元を覆う。擢真に昨日の『夕日でごまかせないほどの赤面』が復活した。
『いよっ、けだものッ!!』
響の言葉に殴りかかるふりをしてから、擢真は反動のようにガタッと座り込む。
『しかし『スキかも』とかそういう課程すっ飛ばしてキスしたいなんてな』
ニヤニヤ。からかう気、未だ十分な響である。
『ま、最初の課題は両想い、だな』
擢真、パニック続行中。
『頑張れよ?』
頭の中で響の含み笑い付き『頑張れよ』がグルグルと回っている。
「はぁ…」
擢真は思わずため息をこぼした。
(両想い…ねぇ)
――そういう恋愛沙汰は生きてきた中で経験の少ないものだ。
自分が好きになった人なんて、数少ない。
でも…ま。
「頑張るか」
零れたのは「仕方がない」みたいな呟きではあったが、その瞳は水を得た魚のように活力のあるものだった。