擢真は夕暮れの道をゆっくりと歩いた。昼間の暑さがまるで嘘のように、涼しい。
息を吸い込むと、まるでタイミングを計ったかのように夜風が擢真の頬を撫でる。
(気持ちいいなぁ)
腕をゆっくりと広げた。擢真の腕時計…アナログの、磨き込まれた物だ…がかろうじて見える。
日が延びたな、と思いつつも時計が示すのは六時半。
擢真の家と響の家とは高校を挟んで逆方向なので家に着くのに最低三十分はかかるだろう。
…と。
部活帰りか、数人の話し声がする。どうも、男のようだ。しばらくするとすれ違う。『コーチが…』とか『今度の練習試合…』とか言っていたのが聞こえた。大きなバックから、野球部であろうと予測された。
そしてしばらく経ってからもう一人、歩いてきた。
擢真はドキっとする。先程まで紅深について話したからであろうか? なんだか、身長の所為かも知れないが、紅深に見える…ような気がする。
横を過ぎようとしたとき、思わず、振り返った。
――全く同じ様子で、相手の方も。
「…あ」
思わず、声が漏れた。微かに、唇が震えているのが自分でわかる。
――タイミングがいいとは、このことだと思った。
「やっぱり、擢真くん」
紅深の声が擢真の頬を撫でる…そんな感覚に陥った。
三歩ほど離れたところからゆっくりとUターンする紅深。
トクン トクン トクン トクン…
早速意識しているのか、鼓動の早さがわかるようになった。
(落ち着け、自分!!)
そして今度は、響の言葉が思い出される…顔の温度が、鼓動にあわせるように上昇していく。
『しかし『スキかも』とかそういう課程すっ飛ばしてキスしたいなんてな』
(う、うるさいっ!!)
頭の中で、この場にはいない響に言い返す。
『いよっ、けだものッ!!』
かぁぁぁぁぁ
もう、夕日が落ちきっていた。夕日の残像のように広がる茜空。東からは夜の藍色が滲み始めている。
「擢真くん、初サボり、ね」
そんな紅深の言葉に、擢真は言い訳をしようと顔を上げて、相手をしっかりと見た。…と、その時、擢真は初めて気づく。
「あれ? 私服…?」
白の五部袖のシャツがこの暗くなってきた中でも見える。流れるような模様が左胸から右脇腹まで広がっていた。下は膝までのジーパン。薄い底のサンダル。それから、意外なことにも…。
「びっくりした、私服でメガネはずすと大抵の人、あたしだって分かんないのよ」
そう言いながら紅深は笑う。
――紅深の言う通り、紅深は今、メガネをしていなかった。
擢真は自分自身でも驚いた。よくわかったな、と今更ながら感心する。
メガネは外しても、三つ編みは健在だ。…だが、学校での『優等生』という雰囲気よりは『元気!』という雰囲気な気がするのはなぜだろうか?
「凄いね」
「…何が?」
突然の紅深の言葉に心から『何が?』と思う。
「遠くで見たとき『あの人擢真くんに似てる』とか思ってたら、本当に歩いてくるのが擢真くんなんだもん。驚いちゃった」
「…それは俺が凄いのか?」
「え? まさか。あたしが凄いのよ」
そう言うと笑顔になった…気がする。暗くなる瞬間は、早い。先程まで広がっていた茜空の割合は大分小さくなっていて、いまではあまり人の表情は識別できないほどの暗さになっていた。
「どしたの? 今日は」
会話するネタを探そうと、擢真は問う。
「初サボり」の言い訳は頭の隅にもない。結構テンパっていた。
「え?」
瞬いて聞き返してきた紅深にややモゴモゴと「どっかからの帰りみたいだったから」と擢真が言えば、「あぁ」と紅深はあっさりと応じた。
「父親に差し入れ」
空であろうパサパサッと軽い音のする紙袋物を振る。
「共働きって言ったよね? 子供使いが荒いのよ。うちの両親」
そう言ってからクスクスと笑う。
「しかも二人で未だに新婚モードだから、余計に。仕事場も一緒だしね」
トン、と塀に背中をあずけたのがわかった。目が慣れてきたのだ。微かながら、紅深の表情を見ることもできる。
「へぇ」
「さて…と」
背中をあずけたのも束の間、歩く気満々! といったように背を伸ばす。
「じゃ。あたしは帰るわ」
「え?」
唐突の別れの宣言に、擢真は声を上げる。
「暗い夜道はあたしでも一応怖いの」
紅深は言いながら手を小さく振った。そしてさっさと回れ右をする。
…行かないで…
「へ?」
――紅深が前進しようとした瞬間、何かに引っぱられて素っ頓狂な声を上げる。
「…あ」
犯人は擢真だった。
意識せず伸ばしてしまった腕。掴んでしまった、肩。
(うわ…!)
やってしまった! と思った。
「何? いじめ?」
冗談めいた口調ではあったが、そう言った紅深に擢真は少し声を大きくする。慌てて、掴んでしまった肩から手を離した。
――指先に感じるのは、紅深の体温か…自分の体温が上がった故の熱か。
「ち、違う! …一応、あんたも女だし、送ってくよ」
「一応って…失礼ね」
紅深はパシッと軽く擢真の肩を叩いた。
「いいよ。こっち方向なんでしょ? 擢真くんの家。逆方向っぽいし、悪いよ」
遠慮する紅深に擢真は「いいから!」と、紅深の向かう進行方向に立つ。
ちょっと強引過ぎるか? とドキドキしながらも続けた。
「俺はいいの。越前の惚れた足の速さがあるし」
擢真が歩き出すと、肩に衝撃があった。
「…!!!」
紅深がふざけて体当たりをしてきたのだ。
「それも違いない」
紅深の言葉と、笑顔と…一部触れた、熱と。
擢真の体温は上昇。心拍回数は増加。――意識してないって罪深い。
そして二人は歩きだした。この時ができるだけ長く続くようゆっくりと、ゆっくりと、擢真は足を進めた。
『擢真くんて、女の子にもてる?』
『…唐突に、なんで?』
『いや、歩調あわせてくれてるみたいだから。気が利くんだなぁと思って』
『さぁね』
告白されたことはあるが。あれは自分を想っているというよりは髪の色が明るめ…っていう見た目と、彼氏が欲しい! みたいな願望のせいで告白されたんだと思う。入学したての頃の話である。
『そういう、あんたは?』
『へ?』
『あんたはもてるの?』
『…あのねぇ。年上はもっと敬いなさいよ』
『はぁ?』
何げに話題が切り替えられていることに気付かないまま、擢真は妙な声を上げた。
『あんた、あんた、あんた…。ちゃんと“刈田先輩”とか呼びなよね』
あたしの名前はあんたじゃないわ、と紅深は続ける。
『じゃあ、くみ』
冗談で…しかしかなりドキドキしながら…擢真は言う。答えは、しばしの沈黙。
『い・や』
――その答えにちょっと…もとい、相当ショック、な擢真である。
若干魂が抜けかけたところで紅深は『だって、』と理由を述べた。
『あたしの方が年上なのよ? えらいのよ? 呼び捨てなんて、ダメダメ』
冷静になってみれば年上ってだけでえらいのか! とかツッコんでしまいそうだが…そういう意味での拒絶だったのか、と擢真はホッとした。
紅深にばれないように、安堵の吐息をもらす。
『じゃ、くみ先輩』
ちゃんと彼女の言うように『先輩』を付けて、呼んでみた。
『…どうしても名前で呼びたいの?』
紅深のなんだか複雑そうな心境がのぞき見えたが『だって、いい感じの名前じゃん』と擢真は応じた。
――惚れた弱みというか。もしも惚れた相手の名前が『しじみ』とか『あさり』とかでも、今の擢真なら『いい感じ』とか言ってしまいそうだが。
言いながら擢真はふと、疑問に思った。『かった』の字はわかるが、『くみ』の字がわからない。
『そういえば“くみ”ってどう書くの?』
疑問をそのまま唇に乗せれば紅深は『知らないで人の名前を呼ぼうとしたの?』と僅かに笑う。
『…だって、知る機会がないだろう』
転校生が黒板に名前を書いたりするような自己紹介なんてしていない。
部長である紅深は部員である『片桐擢真』の名前と字を知っているかもしれないが、擢真は彼女の名前を知っていても字は知らなかった。
『それもそっか。…うーん、でも、顔に合わないのよ。この字』
ちょっとばかり童顔であるという自覚のある紅深は『紅が深い』というのが、なんだか格好良すぎる字な気がしていた。
『いいから、いいから』
どんな些細なことでも知りたいと思う擢真は問う。
紅深は一つ息を吐き出した。何か気合いをいれ、口を開く。
『色の“紅”が、“深い”で“紅深”よ』
紅深の言葉に、頭の中で字を浮かべた。
『紅深』と。
『“ふかい”って…深海とかの?』
『そうよ』
『ふーん…“み”って読むんだ…』
擢真的新発見だった。思わず呟くと『あは』と紅深がまた笑う。
『知らなかったんだね。じゃあ、これで一つ利口になったわけだ!』
言いながらペシペシと擢真の背中(正確にはカバン)を叩いた。
そんな調子で、紅深の家(結構大きい家)に到着。時間は七時ちょっと過ぎ。
――本当に、至福の時間であった。
別れは惜しかったが、連絡なしで七時半以降に帰ると、飯がなくなってしまうのである。
例え話ではなく、食べても食べても脂肪にならないらしい擢真の父と母は『美味しいものは美味しい間に食べよう』がモットーで、擢真の分までキレイに食す。
「じゃ!」
紅深がそう言って振り返った。
「わざわざ送ってくれてありがとね」
「じゃあこの礼はいつか…」
なんかおごって、とか言おうとする前に紅深が口を開いた。
「擢真くんをもっときれいにしてあげる、という礼なんてどう?」
「うわっ、いらねー」
苦笑いをしつつチラリと時計を見た。門に取り付けられている電灯が擢真に時計の時刻を見させてくれる。…只今七時六分。
持久力に自信はなかったが、走って帰れば両親が夕食を食べている内には帰れるであろう。
「気をつけてね」と擢真を見つめている紅深に一礼をして、…改めて――初めて、呼ぶ。
「紅深先輩」
それだけでドーッと頭に血が上った。
「ん?」
改めて名を呼ばれた紅深は何事? みたいな表情をして首を傾げた。
『カワイイ』なんて思ったらまた、体温が上がった気がする。――顔が赤い、とかバレていなければいいのだが。
「…さよなら。また明日」
「おやすみー」
ひらひらと手を振る紅深にまた頭を下げて、擢真は踵を返した。
アドレナリン大放出中でやや興奮気味なのと、自分の夕食のためと…体温を下げるため、風をきって走り出す。
「…ハハッ」
テンション高く、自然と笑い声をもらしてしまう擢真だった。