“アノ人…”
自分の声に、気付いたようだった。
“助ケテ…”
くれる、だろうか?
あの人は、私の声を聞いてくれる。
――それは、間違いない。
* * *
授業が終わり、清掃も終わった。
本日は木曜日なので何もない。
――何もない、ハズだった。
「やぁっ! やっさしーい麻見さんと小椋さんっ!!!」
…だが。
『ソレ』の出現によって、普通に帰ることは…夢となった。
「………げ」
有子は声をもらす。空は声のする方向を見て、彼の名を言った。
「井沢センセ」
教室のドアに門番のように立っていたのは、教育実習中の国語教師(希望)…井沢篤盛だ。
空と井沢は幼馴染みで、わりと…かなり、仲がいいらしい。
有子は小学校の卒業と共にこの福部町に引っ越してきたので、そんなことは知らなかったが、小学校時代からの空の友人にはそのことは知られているようだ。
「今日はクラブもなく、麻見さんも小椋さんも部活に入っていない…っ! これはもう、運命としか言い様がないねっ!」
――井沢はテンションが高い。
授業中はこんなぶっ飛んでるヒトではないのだが、普段はこーゆー人…らしい。
とりあえず授業が終わった途端に、井沢はいつもこんな雰囲気だ。
「…勝手に言っててくれ。あたしは、帰る」
有子は片手を上げてその場から立ち去る。
「か、え、ら、せ、な、い、よ☆」
――立ち去ろうと、した。
井沢は「ウフフ」とかいう笑いが付きそうな言い方で有子の肩を掴んだ。
…さすが、と言うべきなのだろうか。細くても男だ。結構、その手には力がある。
空はおもむろに自分と有子のカバンを持つと移動を始めた。
「井沢センセ、図書室に行けばいいの?」
「うん、そう。さすがはあ、さ、み、さ、んっ! 話がわっかるー」
「おい待て、空…っ!!!」
有子は声をあげた。――だがもう、遅い。
「さあさ、小椋さんも図書室に行って本の整理をしようかっ!」
「離せぇぇぇっ」
…有子は井沢に腕をつかまれ、図書室に強制連行されるのであった。
* * *
「では、この棚の整理をしようか!」
…図書室。
なぜか本の整理を手伝うことになっている空と有子である。
「ここ……ねぇ」
整理をしよう! と示されたのは色々な物語を置いてある棚である。
――物語。
図書委員である有子の記憶が正しければこの図書室で最も冊数が多い項目だ。確か。
(何であたしが…)
有子はそんなことを思っているが、結構パッパと、背表紙に付いている番号順に揃えていく。
しかし借りた本の所に、代わりに名前を書いてある木片を入れていくのだから、位置が変わるハズなどないだろうに、結構『何でこんな所に…?』みたいな本が、ある。
放課後に図書室を利用する生徒もいなくなり、この部屋には空、有子、井沢の三人のみとなった。今のところ、司書はいない。
「へぇ…」
有子は空の何か納得するような声が聞こえた。
声の発信源へと視線を向けると何気に本を読んでいる空が見えた。
(何読んでるんだか…)
有子はそんなことを思つつ、また作業を再開させた。
――そんな時。
“――イ…タ…”
何かが、聞こえた気がした。
(へ?)
有子はクルリと振り返る。
誘った張本人でもある井沢は、真面目に作業をやっている。
有子がそんな井沢をじっと凝視していると、見られていることに気付いたらしい井沢が有子へと視線を向けた。
「…なんだい小椋さん、そんなにボクはいい男かい?」
井沢は作業をしていた手を休め、問いかける。
「あんた、何か言った?」
有子は井沢の言葉を完全に無視し、言葉を切り返した。
「『あんた』じゃなくて。ボクは仮にとはいえ教師なんだよ? せめて『先生』と…」
「で、何か言った?」
有子のそんな反応に、井沢は何か言いたげな表情をしてから「別に何も言ってない…」とため息交じりに応じた。
――その時。
“…私ヲ…見テ…”
井沢は伏せていた目を開いた。
有子に『それ』が見えるわけでは、ない。
――だが。
“私ノ話ヲ……”
――井沢と有子の間に『何か』が、いる。
“聞イテ…”
「――ひッ!!」
有子は小さく声をあげる。
また『声』が聞こえた。そう、五時間目の授業中に聞こえたような、声が。
しかも、理科の授業中の時のように…『空耳』には出来ないほどはっきりと。
血の気が引くとはこのことか。有子は指先から足先…体全体の体温がすーっと下がったような気がした。有子はこういうオカルト的な出来事はかなり苦手なのだ。
井沢は、そんな有子をじっと見つめる。…いや。
「――なんだ、これは…?」
井沢と有子の間…有子には見えない『何か』を井沢は見ることが出来ているらしい。
「何? 何?! …何なのっ!」
有子は混乱のあまり、声を大きくして半ば叫ぶようになってしまう。
「どうしたのー?」
棚の向こう側にいた空が、二人の様子が変だと思い、様子を見に来た。
「空…っ!!!」
有子は振り返り、名を呼ぶ。
“…オ願イ…”
その声は、止まることなく有子の耳に届いていた。
――顔面蒼白。
有子は今にも口から心臓が飛び出そうだ。
「? どうしたの?」
((え?!))
有子と井沢は心中で叫んだ。
「これ…。空には見えないのか…?」
井沢は『これ』と称する『何か』を指さして言った。
呼びかけが『麻見さん』ではなく『空』と、幼なじみの呼び方に変わってしまっている。
空は井沢の指さす方をじっと見つめた。
「――何を…?」
呟きつつ、空は有子のもとに足を一歩進める。
すると――有子には声しか聞こえなかったそれが、姿を現した。
…おぼろげな存在。向こう側の本が、透けて見える。
「何これっ!!!」
有子はとうとう叫んだ。
“……アア”
対する『それ』は、何か喜ぶような声を上げる。
“力ガ得ラレル…”
そして『何か』の目と思われる部分と、有子の目が…合った。
有子の背筋にぞっと、冷たいものが走る。
“私ノ声ヲ聞イテクレルアナタ…”
『何か』はゆっくりと、有子に近づいた。…そう思った。
有子はそれが近付くよりも早く、有子の正面にいた井沢のもとへ走り寄る。そのまま、井沢の背後に隠れた。
「お?」
「頼りにしてくれるの?」と呟いた井沢に「空を盾にするわけにはいかないからなっ」と有子は言い放った。そう言った後、表情をさっと変える。
「…って、」
(空!)
有子の背後に移動してきた空は、相変わらず「何が何だかわからない」と言うように、そこに立ち続けたままだ。
空は有子のいたところに立ち続け…『何か』は、空へと近付いていく!
「「わーっ!!!」」
有子と井沢の声が重なった。
――『何か』と空が、衝突する。
「え?」
二人の叫び声に、空は首を傾げる…と。
『何か』の姿は有子と井沢の目に、一層はっきりと映し出された。
“どうか…。私を恐れないで下さい”
…それは気の所為なのだろうか? 声が、よりはっきりと聞こえるようになった気がする。
“あなたに…。あなた方に、危害を加える気はありませんから”
『何か』はゆっくりと有子を見据えて、言う。
“……信じて……”
空はパチパチと瞬いた。有子と井沢の目に映っていた『何か』をじっと眺める。
「――何これ?」
空は不思議そうな声を上げた。
…その声音は、今初めて『何か』が見えたような口調だった。