“どうか、どうか”
私を、恐れないで。
“私の願いを、聞き届けていただきたいのです”
いや、そういうのとは少し違う。
“…手伝って欲しいのです”
* * *
「…んで」
有子は井沢の背中の後ろに控えながら、小さく言った。
…ちなみに現在四人――空、有子、井沢と、『何か』――は、先程まで整理していた棚の間にそのまま座り込んでいる。
「何なの、あんた?」
有子の質問に『何か』は俯いた。
「――ってか、いい加減に空から離れろよっ!」
有子と井沢の向かい側…一向に空から離れる様子のない『何か』に有子は半ば吼える。
“しかし…”
「『しかし』じゃないっ!!」
有子の口調はまるで噛みつきそうな勢いだが、実際には…やっぱり井沢の後ろに控えているので、格好がつかない。
「まぁま。いいじゃん、あんこ」
吼える有子とは裏腹に、空はのほほんと応じる。
井沢がため息と共に「空、お前もなぁ…」と零した言葉を聞かず、空は小さく言った。
「オバケって本当にいるんだねぇ」
そんな空の言葉に、有子と井沢は言葉を失い、僅かに目を見開く。
空は『おばあちゃんこ』だった。
去年、その祖母は亡くなってしまったのだが。
…だから、空はよくお墓参りに行く。たった一人ででも、行く。
逢えるのならば逢いたいのだ。
――例えそれが、おぼろげな存在であったとしても。
それを幼なじみである井沢はもちろん、友人である有子も知っていた。
だから空が、『何か』に抵抗を感じないのはわかった気がするが。
――だが。
「空…大丈夫なのかよ? そんなのが傍にいて」
“『そんなの』って…”
有子の言葉使い…というか扱いに『何か』は「そんな…」とかなんとか、続ける。
おぼろげな…最初に見たときよりはもう少しハッキリと見えるようになった『何か』は、見た目は女の子の姿をしている。長い髪は漆黒。瞳も同様だ。
「んー? 大丈夫だよ。なんとなく」
有子の問いかけに空は「アハハ〜」と笑いながら言う。呑気だ。
「…本当に大丈夫なのか?」
井沢もまた問いかけた。井沢の言葉に同意を示すように頷きながら、有子は空を見つめる。
「心配してくれてるんだ。ありがとう」
「でも」と言いつつ、空はゆっくりと瞬きをする。
自分の傍にある『何か』を一度見て、今度は井沢と有子へと視線を移した。
「でも、ね。直感で『大丈夫』って言ってるから、大丈夫だよ」
エヘへ、と空はまた笑う。
(ああ、可愛い…。犬っぽい…)
有子は空の頭を撫でたい衝動に駆られたが、やらずに踏みとどまった。
――正確には『やれず』に、だったかもしれないが。
最初に見たときよりははっきりとした輪郭の『何か』だが、所々が透け、なんとなく現実味のない存在だ。確実に、肉体のない存在であることには変わりない。
「ところでさ」
場が和んだ…と、空が思ったらしい…ところで、空は瞳を輝かせながら言った。
「ボヤボヤちゃん」
『何か』を見つつ、空は話しかける。
「「なんだそりゃ?」」
空の突然の発言に井沢と有子はそう、聞き返す。
「え? 呼び名。ボヤボヤしてるから、ボヤボヤちゃんかなって」
「「ぼやけて見えるのか?」」
空の発言にまたもや井沢と有子は同時に言葉を紡ぐ。
「え…? うん」
『何か』がおぼろげにしか見えていなかった空が肯定し、そのことに有子は僅かに驚いた。
有子は、その『何か』が最初に見た時よりハッキリと見えるようになっていたから――『人間』とは違う、とわかったが、『ぼやぼや』と言うほどにはおぼろげに見えるわけでもなく――空も井沢も同じように映っていると思っていたから、空の発言に驚いたのだ。
「だからってボヤボヤはないだろう…? 名乗ってもらえばいいじゃないか」
「あ、そっか」
空は井沢の言葉に頷く。
井沢は、『何か』に向かって問いかけた。
「君の名前、教えてくれるかい?」
――その時。
“……え……”
『何か』は自分に問いかける人間…つまりは井沢…に初めて視線を向けた。自分の声を聞く有子と、自分を拒絶しない空以外の人間の存在など、今まで気にとめていなかった様子だ。
だが…『何か』の態度が一瞬のうちに変化した。
“井沢……様?”
「へ?」
名を呼ばれ、井沢はギョッとする。
――自分は、『何か』に名を明かしたであろうか、と。
“井沢篤盛様ではありませんか…?”
…しかも、フルネームを。
「「え゛っ…」」
知り合いなのか、と空も有子も井沢をじっと見つめた。
そんな二人の視線と、『何か』の言葉に井沢は必要以上に動揺する。
「な、何でボクの名を…っ」
“やっぱり、井沢様ですね!”
言うが早いか…『何か』は空から離れ、今度は井沢に抱きついた!
「ひあっ!!」
素っ頓狂な声をあげ、有子は井沢から瞬時に離れる。
その時の有子の反射神経は、今までの中でも一、二を争う素早さだった。