“私は、ヒトではない”
でも、井沢様に想いを寄せていた。
――だから、ヒトというものになりたかった。
“キキョウさんに…なりたかった”
* * *
「…お前…」
猫へと姿を変えたボヤボヤに、井沢は声をかけた。
何度も何度も瞬いて――微笑む。
井沢は中学校に通っていた頃のことを急速に思い出していた。
「……くろ、か?」
ボヤボヤはそんな井沢の言葉に“ニャーオ”と返事をする。
「……最初から、その姿だったら…」
「わかったのかよ?」
有子はビシッと鋭い突っ込みをかました。
そんな有子の突っ込みに井沢は曖昧な微笑みを返してから、そっと、ボヤボヤに手を寄せる。
…当然と言えば当然かもしれないが、触れることは出来なかった。
『井沢様に、私のことを思いだしていただきたいのです』
井沢の中で、ボヤボヤの言葉が巡った。
『井沢様が付けて下さった私の名を、井沢様に呼んで欲しいだけなのかもしれません』
「くろ……」
思い出した。
我ながら単純な命名だ、と思うが…中学にいた、黒猫を『くろ』と名付けた。
…触れたいと思った。フワフワとした毛並みを。
それから、抱き上げたいと思った。黒々とした、柔らかいくろを。
「くろ……おいで」
家で飼うことは出来なかった。
それでもなぜか自分に…井沢に懐いてくれた黒猫。
“(井沢様…)”
有子にはそう、聞こえた。
「だいすき、だったよ」
井沢は一度そう言うと、小さく頭を振った。
いいや、と小さく前置きをする。
「だいすきだよ…」
抱き上げることは叶わなかった。
抱き上げる代わりに、言葉に思いを込めた。
「くろ…」
井沢は目頭が熱くなったのを感じた。
…雨の日。いつもいた校門の側で冷たく硬直していた黒猫。
「助けてやれなくて、ごめんな……」
“ニャーォ……”
“(井沢様が覚えていて下さっただけで、私は幸せです)”
そしてボヤボヤは…姿を消した。
ついさっきまでいた『何か』は…跡形もなく――あっけなく、姿を消した。
「…逝ったのか…?」
窓の外を見て、有子は言った。
「そうなんじゃない?」
空もそう言って、窓の外を見つめる。
――井沢の涙を見ないようにと、彼女らなりの気配りだった。
* * *
「んで……」
有子は重々しく口を開いた。
――教育実習期間最終日。
井沢は、大学の方に戻ることになっている。
なぜか、またもや図書室に集っている空、有子、井沢である。
「んー?」
井沢はニコニコしながら有子の方を見ていた。ちなみに、有子の隣で空もニコニコしている。
「なんでお前がここにいるんだっ!!!」
井沢の足元にいるものを見て、有子は若干吼えた。
“ニャー”
――ボヤボヤが、そこにいた。
「お前じゃないよー。くろだよー」
なー? と、触ることが出来ない猫に、井沢は微笑んで言った。
“ニャーゥ”
有子の耳に、ゴロゴロという猫が嬉しい時や気持ちいい時に発する音が聞こえる。
「お前…逝ったんじゃなかったのか?」
思わず有子はそう、零す。
“(私も最初は消えたと思ったんですよ)”
有子の独り言…問いかけに、ボヤボヤ――くろは答えた。
「……思った?」
コエが聞こえる。くろの、言葉が聞こえる。
有子は…少しは耐性が出来たのか…顔をしかめながらもくろに問い返した。
“(思っていたんですが…どうもまたもや『残りたい』とか思ってしまいまして)”
テヘ、とかいうのが付きそうな口調である。
有子は思わず「可愛子ぶるな…っ」と低く言った。
「いいよなー。くろはボクの守護霊になってくれるんだもんなー?」
やや怒り気味の有子に反し、相変わらず井沢はニコニコしながら言う。
“ナ−ゥ”
有子には、『もちろんです』と言うくろの言葉が…聞こえた。
「もう、くろはくろのままでいいぞ。キキョウの姿なんかになるなよ?」
“(はい♡)”
「…ああ、そういえば」
『キキョウ』という言葉を聞いて、空は思い出した、と言わんばかりにポンと手を打った。
「キキョウさんて、アレでしょ? 確か篤にぃが中学の時に付き合ってた人でしょ」
「その話はやめようね、空」
ウフフ、という(なかなか恐ろしげな)笑い付きて井沢が空の言葉を遮る。
有子はしばらく瞬き…くろがヒトの姿をしていた時、すぐに井沢が『キキョウ』という名を思い出さなかったことを思い「へー」と軽蔑を孕んだ目のまま、口を開いた。
「あんた、付き合ってた人間の顔も忘れてたのか? 最低だな」
有子はそう、キッパリと言い切る。
「有子ちゃん…」
教育実習最終日ということで、『先生と生徒』ではなくなってしまっている。
井沢からすれば有子は幼馴染みの友人だ。
「確かねー、篤にぃン家の玄関で別れ話してたんだよ」
「へぇ…。しかし、家の玄関先でそういう話するモンなのか?」
有子は首を傾げながら空に問いかける。
「オイ、空いいかげんに…」
井沢の言葉は無視されている。
「さあ?」
空と有子の会話は途切れない。
その時。
“(井沢様、あの二人のことは気になさらない方がいいのではないですか?)”
ボヤボヤはそう言って井沢にすり寄る。
「うう、何言ってるかわからないけど…慰めてくれているんだね、くろ」
有子はそんな井沢の呟きを聞きながら…姿を見ることはできているらしいが…井沢にくろの『言葉』は聞こえていないのか、と思った。
“(私の言葉などわからなくてもよいのです。一緒にいられればそれで幸せなのです)”
――有子はそんなくろの声を聞いていた。
そして少しだけ思った。
俗に言う『お化け』にも恐くないヤツがいるかもな、と。
有子の視線の先にはくろがいる。
くろを見ながら、有子の傍らにいた空はボソッと「おばあちゃんに会いたいな」と呟いた。
“此処ニイルヨ”
(………え?)
空の呟きのあとに……声…が……?
有子はそっと声の聞こえた方を向く。そこには、半透明の『物体X』がいた。
「――うわあっ!!!」
有子の声が図書室に響く。
あくまで『恐くないかも』なのだ。…やっぱり、恐いモノは恐い。
――有子の恐怖は…また、始まったようである。
福部中学怪奇譚<完>
2001年12月 8日(土)【初版完成】
2010年 2月14日(日)【訂正/改定完成】