呼んで欲しい。
自分を。自分の、名を。
“なのに…”
* * *
「え、じゃあ…名前は?」
井沢は言った。
名を呼ぶくらいで満足するのなら、それはそれでいいと思ったからだ。
“私の名…ですか?”
井沢の視線を受け、ボヤボヤが瞬く。
「ほら、早く言って…呼んでもらいなよ!」
空がニパッと笑って言った。「ね?」と首を傾げつつボヤボヤを見つめる。
“私…の……名は……”
ゆっくりと、ボヤボヤは言った。
「名前は?」
ワクワクと空が続きを促す。
――そして。
“名前は……覚えていない……”
「「「は?」」」
そんなボヤボヤの言葉に、三人の声がハモった。
“あるには…あるんです。ですが…”
――それは当然だろう。
ボヤボヤは井沢に『自らの名を呼んでもらいたい』と言っているのだから。
ボヤボヤは井沢に名付けられた、とも言っていたのだから。
「――……」
有子はじっとりと、ボヤボヤを睨みつける。
“……覚えていないのです……”
ボヤボヤは狼狽えるようにして、言った。
…語尾が狼狽えるようになってしまったのは、睨みつけた有子の眼力のせいであろう。
「こ、困ったねぇ…」
有子をまぁまぁ、となだめつつ空は瞬きをする。
「じゃあ…君の存在を思い出すか、名前を思い出さなきゃいけないんだね…?」
語尾に疑問符が付いているが、別に訊ねているわけではなさそうだ。井沢の表情は既に思案するものとなっている。
「……はぁ」
有子はあからさまにため息をついた。ボヤボヤを見据え、小さく言う。
「本当に、覚えてないのか?」
“…え?”
有子の言葉に、ボヤボヤは小さく首を傾げた。
有子はもう一つ大きく息を吐き出して――相変わらず空を盾にしているのは変わらないまま――問いかける。
「名前に繋がるようなそういう…記憶、みたいのはないのかよ?」
空は有子の言葉に「あぁ」頷いてボヤボヤを見つめる。
「例えば…『有子』とか、名前に『子』が付いてたとか」
空の言葉に「あたしの名前を例にするな!」と有子が吼えるが、空は気にしない。
「あと…花の名前だった、とか」
空の声に井沢は、ボソリと「花の…名前…」と呟いた。
瞳を閉じて、記憶の海をさまよっているらしい。
…が、かなり険しい表情をしているのはなぜなのだろう?
「……あ゛……」
妙な声をあげ、井沢はクワッと目を見開いた。
「…脅かすなよ」
有子は少し後退りして、言う。
しかし、さらに。
「あ゛ーっ!!!」
ボヤボヤをじっと見つめたまま、井沢は声を上げた。
びくっ!!
空と有子、そしてボヤボヤも井沢の奇声にビクッと肩を動かした。
図書室では静かに…なんていう常識が、今の井沢の中から消えてしまっているらしい。
「……キキョウ……?」
井沢が呟いたのは紫色の花の名前だった。
続けて「違うか、オイ」と言った井沢にボヤボヤは瞬く。
“……キ、キョウ……”
そう、ボヤボヤは区切りながら言った。
しばらくの間を置き、井沢は更に言葉を重ねる。
「…少なくとも、その姿はキキョウ、だろう?」
井沢は瞬いた。繰り返し、「違うか?」と問いかける。
“…はい”
ボヤボヤは僅かに俯いた。
「え、違うの?」
肯定したボヤボヤに空が問いかけると、ボヤボヤは俯いたまま首を横に振る。
“この姿は…キキョウ。キキョウさんと呼ばれた方の、姿です…”
(あれ…?)
ゴシゴシと井沢は目をこする。…が、見間違いではなさそうだ。
人の姿だったボヤボヤがどんどんと小さくなっていく。
どんどんと小さくなって…そして、人の姿ではなくなったボヤボヤは――…。
“ニャー”
黒い、細身の猫へと姿を変えていた。
“(これが、私の本当の姿です…)”
有子は猫の姿になったボヤボヤから、そんな言葉を聞いた。
「……猫?」
空はそっと息を吐き出して、呟いた。