――その日以来。
美海の視界にはよく、樹がいた。
…違う。
美海の視界に樹がいるのではなく、美海の目が…何故か、樹を追ってしまっていた。
前々から思ってはいたが、樹の周りには誰かしらいる。
一人でいるのを見たことがない…と思えるほどに。
見る度に、いつも楽しげに何かを話していた。樹は、人の中心にいることが多い。
――だからといって、人の話を聞いていないわけでもないようだ。
誰かの話を聞いて、笑ったりして…更に、違う角度から話題を発展させたりしている。
自分も話して、ちゃんと人の話も聞く樹。
だからこそ…樹の周りには人が集まるのだろうか。
一月が過ぎて、二月の中旬…バレンタインデー。
美海は友人の啓子と文の二人に友チョコをあげた。
チョコというか、チョコクッキーだったが。
樹は「義理チョコありがとう!」と騒いでいたのが聞こえたから、何個かはもらったのだろう。…『義理チョコ』と言いつつ、本命もあったかもしれない。
そんな様子をなんとなく眺めていたら、樹と目が合った。
…美海が見てしまうことが多い所為か、こうやって樹と目が合ってしまうことがある。
樹と目が合う度、美海は焦ってしまった。それは、今回も。
「牧村さん、オレには?」
更に――今回は声までかけられて、更に焦った。「へ?」と聞き返す声がひっくり帰ってしまう程度には。
「チョコ」
美海の妙な声にちょっと笑いつつ、樹は端的に言う。「お恵みを〜!」と両手を差し出す樹に美海は瞬いた。
「…用意してないよ?」
美海は啓子と文の分しか持ってこなかった。家に帰れば、いくらかクッキーは残っているが…多分、今日の内に美波か母…あるいは自分が食べきってしまうだろう。
(そういえば、美波も持って行ってたな)
『美海チャン、もらっていい?』と訊かれたから『いいよ』と応じた。
誰かにあげるのか、と思って訊いたが『アタシのオヤツ』と美波は笑っていた。
…そう考えると、家に残っているクッキーもたかが知れている。
「えぇっ?! 義理も?!」
クッキーの残りを考えていると、『衝撃!』と言わんばかりの樹が映った。
樹の態度に美海は「ナイ」と手と首を横に振る。
「あっさり?!」
美海の切り返しに樹もまたシュバッと反応した。
樹の反応の良さに少しばかり笑ってしまいながら――『持ってくればよかったかな』…なんて思ってしまった。
――持ってくれば、樹は喜んでくれただろうか。
美海はそんなことを思った自分に気付いて、ドキッとする。
(……何考えた? あたし…)
美海は瞬いた。
肘をついたまま、両手で頬を包み込む。
「牧村さんからは貰えなかったー」
「みんながみんなお前にくれると思うなよ」
「オヤツは多い方がいいと思わないか?」
「まだ貰う気か!!」
――すごすごと友人の元へ戻る樹の背を、美海は眺めた。
…また樹を見ている自分に気付き、美海はハッとして視線を樹から逸らす。
(――…なんで…っ)
美海は自問した。…自答はできないまま…授業が始まった。
※ ※ ※
「美海ちゃん」
呼びかけに、振り返った。次の授業は科学で、移動だ。
美海からすると…数学同様、どうも好きになれない教科である。
「何?」
呼びかけたのは文だ。
バレンタインも過ぎ去り…そろそろ、2月も終わる。
今日は啓子がいない。欠席理由は風邪らしいが、実際のところはどうだか謎である。
「今日の科学、自習だって」
「あ、本当? 嬉しいな」
文の言葉に美海はつい、笑顔になってしまった。
「あの先生って自習プリントとかやらせる人だったっけ?」
科学室に向かいつつ、文は美海に問いかけた。美海は首を傾げ「どうだろう?」と応じる。
…と。またもや視界に樹の存在が入り込んだ。
――なぜか、目につく。
美海が、樹を探してしまっているのだろうか。
今日も樹は何か、友人と楽しげに話しながら歩いている。
「……」
「どうしたの?」
ぼーっと樹を見つめてしまっていた美海に、文は声をかけた。
ぼーっとしていたせいか、美海はかなり驚いた。
「え?! い、いや…えと…なんでも、ない、よ?」
「…ふーん」
文はちょっと「本当に?」みたいな視線を美海に投げかけているが、美海はそれに気づかないふりをする。
「あ、そういえば」
美海はこの場を空気を変えようとそう切り出してみたものの――話題が思いつかなかった。
…何を話そう?
「そういえば?」
『そういえば』で止まった美海に対し、文が首を傾げる。
「…今朝、変な夢を見た…気が、する」
美海はようやくそう、言葉を続けた。
…樹の話し声が聞こえて、その話題が『今日見た夢』だったため、それを利用させてもらった美海である。
「えー? 『変な』って?」
「いや、『気がする』だからはっきりと覚えてるわけじゃなんだけど…」
目を覚ました時に「…変なの」と思った、という印象があった。
――夢の記憶は、すでにないのだが…。
「…なんにせよ、けいちゃんと文ちゃんがでてきたよ。うん」
おぼろげに、そんなイメージだけは残っていた。
「えー、何してたの? っていうか、出演料とるよ?」
「うわ…夢の出演料って、ひどいよ」
そんな美海に「美海ちゃんの夢に出演したのと出張代」などと文は笑う。
「100円ジュースでいいけど? 温かいヤツ」
ちょうど校内にある自動販売機に目を向けた文は紅茶を示しながら言った。
「いや」
そんな文に美海はチャッチャと切り返し、首を横に振る。
…と。
(…あ)
なんと、樹がジュースを買っていた。
ちなみに文が希望した紅茶である。
樹の傍を通り過ぎるとき、文は「いいなー」と呟きながら通り過ぎた。それが、樹にとどいていたらしい。
「あげようか?」
「え?」
文は、そして思わず美海も、その言葉に振り返った。
「コレ。今度おごり返してくれるならあげるよ」
「え、本当? …なーんていいつつ、おごり返さないかもよ」
文はごく自然に樹の手から紅茶をゲットすると、そう言った。
行動が素早い。既にストローを容器に差している。
「うわ、それって約束が違う。…牧村さんでもいいよ? おごり返してくれるの」
「え?」
てっきり自分には声がかからないと思っていた美海は、必要以上に動揺した。
「あ、あたし?」
「ああ、それはいい考え。美海ちゃん、私の代わりにおごり返しといて」
文がアハハと笑いながら言った。
「…なんにせよここじゃ寒いから、さっさと科学室に行こうぜ」
樹の隣に立つ友人…出村憲の言葉に、4人で歩き出すこととなった。
(い、意識することなんて、ない。意識することなんて何もないぞー)
美海は心の中で自分に言い聞かせる。
ちなみに美海の右隣に文、後ろに樹、その左隣に憲という具合である。
「あ、美海ちゃんも飲む? 少しだけど、体が温まるかも」
「え? …あ、じゃあ…もらおうかな」
2月も終わりに違く、暦の上ではとっくに春だったが…まだ、空気は冷たかった。
日差しがあれば温かいのだろうが、今日の天気は曇りだ。少し肌寒い。
手渡されたジュースのパックは、少しばかり冷えた指先に温もりを感じさせた。
「うん、温かいね」
美海は文から差しだされたジュースのストローに口を付ける。ずっと、音がした。
どうも、紅茶の量があと一口分くらい…らしい。
文は冗談で「高階くん、はーい」と、美海から奪い取ったジュースを手渡した。
「あ…」
え?
――美海は一瞬、何が起きたのか理解できない。
「お、サンキュ」
樹は文から紙パックを普通に受け取る。
「の、」
飲むのっ?! という美海の叫びは…口の中に留まった。
――樹は、飲んだ。
「なにコレ、一口分も残ってないじゃん」
冗談で樹に「飲めばいい!」と手渡した文は…本当にストローに口をつけ、紅茶を飲んだ樹に、一瞬「え?」という表情をした。
…が、気を取り直すと「でも飲んだでしょ?」と笑う。
「コレでおごり返しの話はナシね」
そう続けた。
「うわ、ひっどー」
樹はパックを潰しながらそんなことを言う。
…美海は自分の顔が赤面していることを感じた。
(うわー、うわー、うわーっ)
こんな顔、文にはもちろん、樹には見せられない。
(どうしよう、どうしよう…っ!!)
早く、治めなくては。
しかし、顔の火照りはなかなか…全然治まらない。
俯いて、冷えて手を頬にあてた。
――やはり、温かい。
つまりは…赤面が治まっていないということではないか。
(早く、早く、治まってよー)
美海は自分に言い聞かせるが、やっぱり治まらない。
そんな…俯いた美海の様子に文は気付いたようだ。
「? どうしたの、美海ちゃん」
「え゛っ」
文とさほど身長がかわらなくてよかった、と美海は思った。
もしも文が美海よりも背が低かったら、この顔をすぐに見られてしまう。
気のせいか、目が潤んできたようだ。
(涙?)
「よ、美海ちゃん?」
美海が涙をこぼしたことに文は気付いた。
オロオロとしている。
「あ、あたし…ちょっと、保健室に行くね!」
美海はそう言うと、くるりと向きを変え、保健室に向かって走り去っていた。
「牧村さん!」
樹がそう、呼びかける。
美海はそのことに気付いたが、涙など他の人に見せるのが恥ずかしいことだと思っているので、振り返ることをしなかった。