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第8章

「美波とオレの話……聞いてた?」
 樹の声を、美海は視線を自分の手元に落としたまま聞いていた。
 ――なぜ、わざわざそんなことを…自分に問うのだろう、と美海は思った。
「うん、聞いてたよ」
 美海は肯定した。

 生徒会室の…机の上に座る美波と、椅子に座っている樹。
『スキよ?』
 笑顔で…真っ直ぐに告げた美波。
『…美波…お前…なぁ…』
 ――少しばかり苦笑しながら…それでも、拒絶することのなかった樹。

 先程見たモノが脳裏に過ぎり、一度止まったはずの…止めたはずの涙が、また、溢れ出てきそうになる。
 ――泣くな。泣くようなことはない。
 ただ、知らなかっただけ。
「……知らなかった。高階くんと美波って、付き合ってたんだね?」
 美海は問いかけるように言いながら、答えは求めていなかった。…目頭が、熱い。
 泣くな。泣くな。…泣くようなことはない。
 美海は、自身に言い聞かせる。
「しかも……」
 美海が息を飲み込むと「こくり」と小さくのどが鳴った。
「かなりの、ラブラブなんだね」
 ハハハと付け足された笑いは、ひどく乾いたモノ。
 ――ひどく、自嘲めいたモノ。
「違うっ…!」
 と。
 美海の言葉を遮るようにして、樹は言った。
「…高階くん?」
 何が、違うと言うのだろう?
 思わず、顔を上げてしまった。樹の強い否定に、目頭の涙が止まる。
「牧村さん、オレ…」
 言いながら樹はギュッと、手を組んだ。
 思わずその手を見ると、寒さのせいか、樹の指が微かに震えているのがわかった。
 美海は今更気付いたが…何か、慌ててでもいたというのか。樹は、上着を着ていない。
「美波と、付き合ってないよ」
 樹の言葉に、美海は視線を樹の手元に固定したまま瞬いた。
 ……それが、違うというのか。
 ――でも、と思う。
「好きって、言っていたじゃない?」
 美波は、どう見ても樹に向かって『好きよ』と言っていた。
 ――しかも。
 美海は息を吐き出す。一つ、二つ、三つ…心臓の鼓動を確かめるようにして、口を開いた。
「…それをわざわざあたしに言う理由は…何?」
 言いながら、俯くと…目を閉じる。
「…あたしには、関係ないじゃない」
 …自分でそう言って、自分で、泣けてきた。『関係ない』という、その言葉に。
「関係ない…」
 樹は、美海の言葉を繰り返した。
 いつもの美海だったら、多分『関係ないよ』と肯定して繰り返すだろう。しかし、今は…言えなかった。
「うん、確かに、……牧村さんには、関係ないね」
 俯いたまま聞いた樹のその言葉に――美海の呼吸は…止まるかと、思った。
『関係ない』
 その言葉は…言われると、悲しい言葉だ。
 関係ない。樹と美海に…関係など、ない。
 単なるクラスメイトで、生徒本部会の仲間…というくらいで。
 樹が美波と付き合っていても…付き合っていなくても…樹が、誰を好きでも――付き合っていても、関係ない。
 美海はぎゅっとハンカチを握った。
「でも」
 樹は、言いながら美海の顔を覗き込む。
 俯いたままの美海の頬を、涙が伝った。――美海の瞳から、止めどなく涙が溢れ出ていた。

「…見な…い…で……」
 言いながら、ハンカチで目元を覆う。目が…目の奥が、熱い。
「…お願い…」
 見ないで、と美海は小さく続ける。
 ――涙を見られてしまった。
 一度だけでも嫌なのに…二度も、見られた。
「牧村さん、…オレにはね、自分が誰と付き合ってるか、とか…関係あるんだよ」
 樹の声を聞きながら、美海は漏れそうな嗚咽をどうにか抑えようと努力する。
 …でもその努力は、実らないモノだった。息が苦しくなって、声になる。…小さな嗚咽が、漏れる。
「オレは、美波と付き合ってなんかいない。…だって」
 微かな嗚咽をこぼす美海に、樹は告げる。
「オレ、牧村さんのこと、好きなんだ」

 ……

 続いた言葉に、美海の頭の中は…真っ白になった。『考える』ということが出来なくなってしまう。
「……え……?」
 涙がまた、ハンカチに沁み込んだ。
 両手でハンカチを握って…顔を隠すようにしていた美海だったが、声と同時にハンカチを握る力が僅かに弱まる。
 美海の隣に腰を下ろしていた樹は、ベンチに座っている美海の前方に回り込んでしゃがみ込むと…言った。
「…自惚れても、いいかな?」
 ハンカチを押さえていた、力の緩んだ美海の左手に温もりが触れた。
 …それは、樹の体温
「牧村さん、オレのこと、好きじゃない?」
 ――じわじわと、樹の体温が美海の左手に広がる。
「……っ」
 樹の掌に…言葉に、美海は上手く声を発することが出来ない。
「…好き?」
 樹は、続ける。
 ――声に宿るのは、乞うようなもの。…恋うような、声音。
 樹は美海の左手を右手で引き寄せ、樹の額へと押し当てた。
「オレ…牧村さんのこと」
 ――嘘じゃない、と。…冗談でもない、と。
 まるで何かの誓いをするように、目を閉じる。 
「……美海さん、のこと……」
 そう言って、樹は言葉を止めた。
 力が緩んで、美海はハンカチを握っていた右手を顔から離してしまっている。
 …そんな美海の目に映ったのは…俯いた樹の赤い耳だった。

「好きなんだけど…」
 樹はそう呟いて、顔を上げた。
 ――樹の頬が赤く染まっているのが…夕日めいた陽光のせいでないことが美海にはわかった。
「できれば…答えが欲しい」
 そう言った樹の声が…手が、震えていた。
 ――今更ながら、美海はそのことに気付いた。
「オレのこと、好き?」
 繰り返し問う声は…乞うような声。
 美海の声を…答え言葉を願う声音。
 声の震えも、触れる指先の震えも…気温のせいではなく、樹自身の緊張のために思えた。

 美海はその答えを言うことが…出来なかった。
 ただ、小さく頷くことしかできなかった。
『高階くんのことが好き』
 美海は言うことは出来なかった。…だが。
 樹は頷く美海を見て、とても幸せそうに――笑った。

※ ※ ※

『スキよ?』
 ――あの、本部会室の美波の言葉。
 それは…。

 

「樹ぃ〜っ!!!」

 美海とよく似た…双子だから当然かもしれないが…美波に突如襟元を掴まれ、樹は「んあ?」と声を上げた。
 美海にドキリとしたことはあるが、美波にドキリの字の「ド」も感じたことはない。
「あんた今日、美海チャン泣かせたデショ?! フザケルナ!」
「は?! …泣き…っ?!」
「…美海チャンはあんたのせいじゃないって言ってたけどね…っ」
 美波は樹を解放しながらそう言うと、机に腰を下ろした。
 …美海が机に腰を下ろしているのを見たことなどない。やっぱり双子でも違う。

 美波は、樹が美海が好きなことを知っている。
 …というか、バレた。なんでバレたのか、樹には分からなかったが。
 樹は美海が座った机の傍の椅子に腰を下ろした。
 前々から思っていたことを、問いかける。
「美波…お前、牧村さんのこと大好きだろ?」
 いつもひょうひょうとしている美波は、双子の美海の話となるとやわらかい表情になる。
 何度も話しているうちに…樹は、そんなことに気がついた。
「えぇー、うん…だって――ねっ?」
 美海に好意を寄せている樹は「まぁ自分も好きなんだけど」と思いつつ美波を眺める。美波は瞬くとやわらかい微笑みを浮かべ、言った。
「スキよ?」
 臆面もなく言い切った美波に樹は苦笑いしながら言う。
「…美波…お前…なぁ…」

 ――そんな会話を、美海は見たのだった。

「マキ、用事があるってよ」
 美海と共にやってきた矢口に言われ、樹も美海も「「え?」」と声を上げた。
 2人の目に、昇降口へと走って向かう美海の後ろ姿が映った。
「ってか、お前らそーゆー関係だったの?」
 続いた問いかけに「「は?」」とも声を上げた。
 矢口は美波を示し、「スキよ、って聞こえたけど?」と笑う。
「美海チャンがね」
 きっぱりと、美波が応じる。
 矢口の言葉を聞いた樹は――美海を追うように、走り出した。
 …美海がこんな直前になって「用事がある」なんて言い出す…ドタキャンするような性格ではないと、美波から聞いていたし…自身も、そう思ったから。
 ――矢口と同じように見られていたとしたら…なんだか、嫌だと思ったから。
 美海と噂になるならまだしも…美波と噂になっても嬉しくないから。
 自惚れの、先走りな思考だったかもしれないけれど…万が一にも、美海に誤解とかされていたら、嫌だったから。

※ ※ ※

「いつか…言葉で聞かせて?」
 樹はしゃがみ込んだまま…美海を見上げ、小さく言う。
 ――好きだと、言って欲しい。
 願いを、口にする。
 樹に対して美海は「うん」と言葉にして応じることが出来なかった。
「…泣かないで、牧村…」
 そこまで言って樹はふと、息を吐き出した。
「…美海、さん」
 ――言いかえて、美海の手を握る力を強める。

 …悲しくはない。
 というか、びっくりして涙は一度治まった。…そのはずだ。――なのになぜ、涙が出るのか。
 樹は立ち上がる。美海を見つめながら、樹が小さく問いかけた。
「オレのこと、好き?」
 美海は言葉の代わりに、笑顔になることで応えた。

言葉<完>

2002年 1月 4日(金)【初版完成】
2010年 3月27日(土)【訂正/改定完成】

 
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