「美波とオレの話……聞いてた?」
樹の声を、美海は視線を自分の手元に落としたまま聞いていた。
――なぜ、わざわざそんなことを…自分に問うのだろう、と美海は思った。
「うん、聞いてたよ」
美海は肯定した。
生徒会室の…机の上に座る美波と、椅子に座っている樹。
『スキよ?』
笑顔で…真っ直ぐに告げた美波。
『…美波…お前…なぁ…』
――少しばかり苦笑しながら…それでも、拒絶することのなかった樹。
先程見たモノが脳裏に過ぎり、一度止まったはずの…止めたはずの涙が、また、溢れ出てきそうになる。
――泣くな。泣くようなことはない。
ただ、知らなかっただけ。
「……知らなかった。高階くんと美波って、付き合ってたんだね?」
美海は問いかけるように言いながら、答えは求めていなかった。…目頭が、熱い。
泣くな。泣くな。…泣くようなことはない。
美海は、自身に言い聞かせる。
「しかも……」
美海が息を飲み込むと「こくり」と小さくのどが鳴った。
「かなりの、ラブラブなんだね」
ハハハと付け足された笑いは、ひどく乾いたモノ。
――ひどく、自嘲めいたモノ。
「違うっ…!」
と。
美海の言葉を遮るようにして、樹は言った。
「…高階くん?」
何が、違うと言うのだろう?
思わず、顔を上げてしまった。樹の強い否定に、目頭の涙が止まる。
「牧村さん、オレ…」
言いながら樹はギュッと、手を組んだ。
思わずその手を見ると、寒さのせいか、樹の指が微かに震えているのがわかった。
美海は今更気付いたが…何か、慌ててでもいたというのか。樹は、上着を着ていない。
「美波と、付き合ってないよ」
樹の言葉に、美海は視線を樹の手元に固定したまま瞬いた。
……それが、違うというのか。
――でも、と思う。
「好きって、言っていたじゃない?」
美波は、どう見ても樹に向かって『好きよ』と言っていた。
――しかも。
美海は息を吐き出す。一つ、二つ、三つ…心臓の鼓動を確かめるようにして、口を開いた。
「…それをわざわざあたしに言う理由は…何?」
言いながら、俯くと…目を閉じる。
「…あたしには、関係ないじゃない」
…自分でそう言って、自分で、泣けてきた。『関係ない』という、その言葉に。
「関係ない…」
樹は、美海の言葉を繰り返した。
いつもの美海だったら、多分『関係ないよ』と肯定して繰り返すだろう。しかし、今は…言えなかった。
「うん、確かに、……牧村さんには、関係ないね」
俯いたまま聞いた樹のその言葉に――美海の呼吸は…止まるかと、思った。
『関係ない』
その言葉は…言われると、悲しい言葉だ。
関係ない。樹と美海に…関係など、ない。
単なるクラスメイトで、生徒本部会の仲間…というくらいで。
樹が美波と付き合っていても…付き合っていなくても…樹が、誰を好きでも――付き合っていても、関係ない。
美海はぎゅっとハンカチを握った。
「でも」
樹は、言いながら美海の顔を覗き込む。
俯いたままの美海の頬を、涙が伝った。――美海の瞳から、止めどなく涙が溢れ出ていた。
「…見な…い…で……」
言いながら、ハンカチで目元を覆う。目が…目の奥が、熱い。
「…お願い…」
見ないで、と美海は小さく続ける。
――涙を見られてしまった。
一度だけでも嫌なのに…二度も、見られた。
「牧村さん、…オレにはね、自分が誰と付き合ってるか、とか…関係あるんだよ」
樹の声を聞きながら、美海は漏れそうな嗚咽をどうにか抑えようと努力する。
…でもその努力は、実らないモノだった。息が苦しくなって、声になる。…小さな嗚咽が、漏れる。
「オレは、美波と付き合ってなんかいない。…だって」
微かな嗚咽をこぼす美海に、樹は告げる。
「オレ、牧村さんのこと、好きなんだ」
……
続いた言葉に、美海の頭の中は…真っ白になった。『考える』ということが出来なくなってしまう。
「……え……?」
涙がまた、ハンカチに沁み込んだ。
両手でハンカチを握って…顔を隠すようにしていた美海だったが、声と同時にハンカチを握る力が僅かに弱まる。
美海の隣に腰を下ろしていた樹は、ベンチに座っている美海の前方に回り込んでしゃがみ込むと…言った。
「…自惚れても、いいかな?」
ハンカチを押さえていた、力の緩んだ美海の左手に温もりが触れた。
…それは、樹の掌。
「牧村さん、オレのこと、好きじゃない?」
――じわじわと、樹の体温が美海の左手に広がる。
「……っ」
樹の掌に…言葉に、美海は上手く声を発することが出来ない。
「…好き?」
樹は、続ける。
――声に宿るのは、乞うようなもの。…恋うような、声音。
樹は美海の左手を右手で引き寄せ、樹の額へと押し当てた。
「オレ…牧村さんのこと」
――嘘じゃない、と。…冗談でもない、と。
まるで何かの誓いをするように、目を閉じる。
「……美海さん、のこと……」
そう言って、樹は言葉を止めた。
力が緩んで、美海はハンカチを握っていた右手を顔から離してしまっている。
…そんな美海の目に映ったのは…俯いた樹の赤い耳だった。
「好きなんだけど…」
樹はそう呟いて、顔を上げた。
――樹の頬が赤く染まっているのが…夕日めいた陽光のせいでないことが美海にはわかった。
「できれば…答えが欲しい」
そう言った樹の声が…手が、震えていた。
――今更ながら、美海はそのことに気付いた。
「オレのこと、好き?」
繰り返し問う声は…乞うような声。
美海の声を…答えを願う声音。
声の震えも、触れる指先の震えも…気温のせいではなく、樹自身の緊張のために思えた。
美海はその答えを言うことが…出来なかった。
ただ、小さく頷くことしかできなかった。
『高階くんのことが好き』
美海は言うことは出来なかった。…だが。
樹は頷く美海を見て、とても幸せそうに――笑った。
※ ※ ※
『スキよ?』
――あの、本部会室の美波の言葉。
それは…。
「樹ぃ〜っ!!!」
美海とよく似た…双子だから当然かもしれないが…美波に突如襟元を掴まれ、樹は「んあ?」と声を上げた。
美海にドキリとしたことはあるが、美波にドキリの字の「ド」も感じたことはない。
「あんた今日、美海チャン泣かせたデショ?! フザケルナ!」
「は?! …泣き…っ?!」
「…美海チャンはあんたのせいじゃないって言ってたけどね…っ」
美波は樹を解放しながらそう言うと、机に腰を下ろした。
…美海が机に腰を下ろしているのを見たことなどない。やっぱり双子でも違う。
美波は、樹が美海が好きなことを知っている。
…というか、バレた。なんでバレたのか、樹には分からなかったが。
樹は美海が座った机の傍の椅子に腰を下ろした。
前々から思っていたことを、問いかける。
「美波…お前、牧村さんのこと大好きだろ?」
いつもひょうひょうとしている美波は、双子の美海の話となるとやわらかい表情になる。
何度も話しているうちに…樹は、そんなことに気がついた。
「えぇー、うん…だって――ねっ?」
美海に好意を寄せている樹は「まぁ自分も好きなんだけど」と思いつつ美波を眺める。美波は瞬くとやわらかい微笑みを浮かべ、言った。
「スキよ?」
臆面もなく言い切った美波に樹は苦笑いしながら言う。
「…美波…お前…なぁ…」
――そんな会話を、美海は見たのだった。
「マキ、用事があるってよ」
美海と共にやってきた矢口に言われ、樹も美海も「「え?」」と声を上げた。
2人の目に、昇降口へと走って向かう美海の後ろ姿が映った。
「ってか、お前らそーゆー関係だったの?」
続いた問いかけに「「は?」」とも声を上げた。
矢口は美波を示し、「スキよ、って聞こえたけど?」と笑う。
「美海チャンがね」
きっぱりと、美波が応じる。
矢口の言葉を聞いた樹は――美海を追うように、走り出した。
…美海がこんな直前になって「用事がある」なんて言い出す…ドタキャンするような性格ではないと、美波から聞いていたし…自身も、そう思ったから。
――矢口と同じように見られていたとしたら…なんだか、嫌だと思ったから。
美海と噂になるならまだしも…美波と噂になっても嬉しくないから。
自惚れの、先走りな思考だったかもしれないけれど…万が一にも、美海に誤解とかされていたら、嫌だったから。
※ ※ ※
「いつか…言葉で聞かせて?」
樹はしゃがみ込んだまま…美海を見上げ、小さく言う。
――好きだと、言って欲しい。
願いを、口にする。
樹に対して美海は「うん」と言葉にして応じることが出来なかった。
「…泣かないで、牧村…」
そこまで言って樹はふと、息を吐き出した。
「…美海、さん」
――言いかえて、美海の手を握る力を強める。
…悲しくはない。
というか、びっくりして涙は一度治まった。…そのはずだ。――なのになぜ、涙が出るのか。
樹は立ち上がる。美海を見つめながら、樹が小さく問いかけた。
「オレのこと、好き?」
美海は言葉の代わりに、笑顔になることで応えた。
言葉<完>
2002年 1月 4日(金)【初版完成】
2010年 3月27日(土)【訂正/改定完成】