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二、夢

「あ…あべっち!」
 あたしは、遠くに見えたその人を呼んだ。
 きれいな長い髪と、切れ長の瞳。
 それらは、吸い込まれそうな黒。
 ゆっくりと近づいてくる…とてもキレイな、男の子。
「――李花…」
 あたしに呼びかけて、近付いてくるあべっちに手をのばした。
「――り…か…」
 …次の瞬間、視界が赤く染まる。

「…え…?」

 滲む、赤。――広がる、赤。
 伝い、溢れる…色。
 その『赤』は…。
「――…っ!!!」
 あべっちの…血の、『いろ』だった…。
 広がる。止まらない。
 そして…

・ ・ ・

「…!」
 ビクリ。――そう、反応したのが自分でわかった。
 瞬きを繰り返す。
 心臓が、妙にドキドキしてる…。
 あたしは『今』を理解しようと、視線を動かした。
 まずは…天井。頭を少し動かして…机。
「…」
 ――ここは…あたしの部屋。
 あたしは今、寝ていたんだ。
 …じゃあ…今のは…
「夢…?」
 そう言って、今が現実だと確かめる。
 ――あたしは大きく息を吐き出した。
 心臓がドキドキするのを感じながら…それでも、『今』が『現実』なのだと、確かめる。
 夢だった。…夢で、よかった。

 あべっちが血に染まる…嫌な、夢。

 あたしはぶるぶると頭を振った。
 今見た夢を、追い払おうと。

 この頃あたしは夢を見る。
 ――夢はよく見るほうだと自分でも思ってるんだけど…。
 でも…この頃は…あんな夢ばかりだ。
 苦しげに歪む顔。…溢れ、流れる血の夢を。
 ――実を言うと、今日…昨日も、見た。
 それで眠れなくなって…やっと眠れたと思ったら、寝坊したんだ。

 枕元の時計を見る。
 …4時27分。
 今日は日曜日。――仮に平日でも、起きるにはさすがに早すぎる。
 でも…布団にもぐってても、眠れそうにない。
 あたしはふと、首元に手で触れた。
 …冷たい。
 汗をかくような季節じゃないのに、あたしは汗をかいていた。
「…水…」
 水でも飲めば、このドキドキは治まるかな。
 あたしの心臓は、さっき目覚めた時からずっとドキドキしている。…まぁ、この『ドキドキ鼓動』がなくちゃ、死んじゃうけど…。
(死…)
 自分で考えて、ゾッとした。
 …夢の中で、あたしは…。
(――あたしは…)
 さっきまで見ていた夢を思い出して、頭を振った。
 …夢を。…それから、重く沈んだ気持ちを追い払うことはできなかったけど。

 あたしは階段を下りて、居間へむかう。
 …と…。
(あれ…?)
 明かりが、点いていた。
(昨日、誰か消し忘れたのかな?)
 あたしはそう思いながらも居間の戸を開ける。
 …そこには。
「あ、かえちゃん」
 あたしの4つ年上の兄、かえちゃんがいた。
 名前は『かえで』なんだけど…小さい時からずっと『かえちゃん』って呼んでる。(ちなみに長男)
 多分、ドアを開ける時からこっちを見ていたとは思う。
「…李花。人のことは言えないが、こんな時間にどうした?」
 ――本当に人のこと言えないよね。
「へへ…」
 問いかけに、あたしは思わず笑ってしまった。
 どうやら、かえちゃんも水を飲みにきたらしい。…もう、飲んだのかもしれない。
 かえちゃんはコップを持ったまま、あたしのほうに歩み寄る。
 あたしは戸を閉めると、かえちゃんに近づいた。
「…眠れないのか?」
「んー…」
 あたしは曖昧に応じる。そして、「かえちゃんは?」と、逆に訊きかえした。
「…まぁ、そんなところだ」
 かえちゃんが持ってたコップに手を伸ばして「あたしも水飲む」と言うと、かえちゃんからコップを貰った。
 居間のソファーに腰を下ろすかえちゃんをチラリと見たあたしは、台所の水道から水を出した。そして、飲む。
 すーっと、冷たいものがノドを伝う。
「…ふぅ…」
 息を吐き出すと、ドキドキは少し治まったように思えた。

「そういえば…」
 かえちゃんは突然、思い出したようにポツリと言葉を呟く。
 コップを簡単に洗ってから振りかえると、かえちゃんは「もうすぐ、誕生日だな」と言った。
 あたしはドキドキが大分治まったものの、眠る気になれなくて――って、案外水を飲んだのが悪かったのかもしれない。目が覚めたような気がする。
 …ともかく。
「そうだね」
 かえちゃんの横に腰を下ろしながらあたしは言った。
「…何か、欲しいものはあるか?」
「え? 欲しいもの? …う〜ん…」
 欲しいもの…。欲しいもの…。うーん、突然言われても、案外思いつかないなぁ…。
 あたしの誕生日は、来週…6月3日なんだ。
 あと…ちょうど一週間。
「思いつかない」
「…そうか」
 まぁ、突然いわれてもな、とかえちゃんは呟く。
 あたしはしばらくかえちゃんを見つめた後、ポフ、と寄りかかってみた。
「…どうした?」
「ん? んー…なんとなく」
 肩に乗せていた頭をズリズリとかえちゃんの膝に移動させる。
「…ここで寝るのか?」
 つまり、あたしはかえちゃんに膝枕してもらってる状態だ。
「寝ていいなら、寝る」
 あたしはよいしょ、と足をソファーに上げた。
「…風邪をひくぞ」
「大丈夫。バカは風邪ひかないんだよ」
 そう言うと、かえちゃんの「…そうか」という小さな声が降ってきた。
 ――ちょっと、否定してほしかったかも…。
 こっそりそんなことを思っていると、かえちゃんはあたしの頭を一度、軽く撫でてくれる。
「…早く起きてくれよ」
 そう言いながら…だけど、あたしをどかしたりしないかえちゃんに思わず笑った。
 かえちゃんの言葉に甘えて、あたしは瞳を閉じる。
 …じわりと感じる、かえちゃんの体温…。
 なんとなく安心できて、眠気がやってくる。

 ゆっくりと、あたしは眠りに落ちた。

・ ・ ・

「…李花」
 呼びかけに、あたしは振り返った。
 かえちゃんが、あたしの頭を撫でる。
「…もうすぐ誕生日だな。…何か…」

 そこで、かえちゃんの言葉が――止まる。
 見開かれた、目。
 かえちゃんは口元を手で覆う。
「…な…ぜ…」
 くぐもった声があたしの耳に届いた。
 かえちゃんは言って…ゆっくりと倒れこむ。
 ――胸元を血で染めて。
「…っ!!!」
 ――そして、かえちゃんを傷つけたのは…。

 手のひらに水のような…感触。
 ペタリと…温かい、感触。

 ――…いやだっ!!!

 声の限り叫んだ。
 その、つもりだった。

 なんで
 どうして
(――かえちゃん…かえちゃん…っ!)

 声は声にならないまま、ノドの奥に突っかかったようにして…カタチにならない。

 ――かえちゃんを傷つけたのは…胸元を血で、染めたのは…
「――………っ!!!」
 紛れもなく――あたし自身、だった。

・ ・ ・

「…か…李花?」
 ビクリと、体が動いた。
 あたしは、呼吸を繰り返す。
 声の方に顔を向けると、そこにはかえちゃん。
 ――かえちゃんの…顔が…。

『…ナ…ゼ…』
 ――胸元ヲ血デ染メテ。
 ――カエチャンヲ傷ツケタノハ…アタシ自身…

「うなされていたようだが…嫌な夢でも見たのか?」

 かえちゃんの言葉をちゃんと理解するのに、しばらくの時間が必要だった。
 どうにか体を起こす。
 かえちゃんの胸元に思わず触れた。
 ――血に染まっていない、かえちゃんの胸元…パジャマ代わりのTシャツをぎゅっと握る。
 握る手が、妙にしっとりしていた。手に汗をかいていたらしい。
「…ゆ…め…?」
 呟く声が震えた。
 呼吸を、繰り返す。ぜぇぜぇと、妙に荒い。
 うまく息が出来なくて、浅いのかもしれない。
「…こんな所で…変な格好で寝るからだぞ?」
 かえちゃんはそう言って、あたしの頭を軽く撫でる。…優しく、撫でる。
「…夢…」

 ――この頃あたしは夢を見る。
 …あんな夢ばかり、見る。

 なぜ。…どうして。
 声は、カタチにならないまま。

 真純ちゃん、トシ、よっちゃん。
 母さん、かえちゃん…父さん、ハナちゃん、李樹…。
 叶ちゃん、ユウ、麻利亜ちゃん。
 ――あべっち。

『何故――…』
 あたしに問う声に、答えないまま。
 …答えが、見つけられないまま…。
 夢の中で…あたしは、何人もの人を――血で染めた。
 ――何人もの人を、血で濡らす。
 …この手で…。

「…李花?」

 ――大好きな人たちを、傷つける。

「…どうした、李花」
 …かえちゃんの呼びかけに、あたしは応じることができなかった…。

 
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