「あ…あべっち!」
あたしは、遠くに見えたその人を呼んだ。
きれいな長い髪と、切れ長の瞳。
それらは、吸い込まれそうな黒。
ゆっくりと近づいてくる…とてもキレイな、男の子。
「――李花…」
あたしに呼びかけて、近付いてくるあべっちに手をのばした。
「――り…か…」
…次の瞬間、視界が赤く染まる。
「…え…?」
滲む、赤。――広がる、赤。
伝い、溢れる…色。
その『赤』は…。
「――…っ!!!」
あべっちの…血の、『赤』だった…。
広がる。止まらない。
そして…
・ ・ ・
「…!」
ビクリ。――そう、反応したのが自分でわかった。
瞬きを繰り返す。
心臓が、妙にドキドキしてる…。
あたしは『今』を理解しようと、視線を動かした。
まずは…天井。頭を少し動かして…机。
「…」
――ここは…あたしの部屋。
あたしは今、寝ていたんだ。
…じゃあ…今のは…
「夢…?」
そう言って、今が現実だと確かめる。
――あたしは大きく息を吐き出した。
心臓がドキドキするのを感じながら…それでも、『今』が『現実』なのだと、確かめる。
夢だった。…夢で、よかった。
あべっちが血に染まる…嫌な、夢。
あたしはぶるぶると頭を振った。
今見た夢を、追い払おうと。
この頃あたしは夢を見る。
――夢はよく見るほうだと自分でも思ってるんだけど…。
でも…この頃は…あんな夢ばかりだ。
苦しげに歪む顔。…溢れ、流れる血の夢を。
――実を言うと、今日…昨日も、見た。
それで眠れなくなって…やっと眠れたと思ったら、寝坊したんだ。
枕元の時計を見る。
…4時27分。
今日は日曜日。――仮に平日でも、起きるにはさすがに早すぎる。
でも…布団にもぐってても、眠れそうにない。
あたしはふと、首元に手で触れた。
…冷たい。
汗をかくような季節じゃないのに、あたしは汗をかいていた。
「…水…」
水でも飲めば、このドキドキは治まるかな。
あたしの心臓は、さっき目覚めた時からずっとドキドキしている。…まぁ、この『ドキドキ』がなくちゃ、死んじゃうけど…。
(死…)
自分で考えて、ゾッとした。
…夢の中で、あたしは…。
(――あたしは…)
さっきまで見ていた夢を思い出して、頭を振った。
…夢を。…それから、重く沈んだ気持ちを追い払うことはできなかったけど。
あたしは階段を下りて、居間へむかう。
…と…。
(あれ…?)
明かりが、点いていた。
(昨日、誰か消し忘れたのかな?)
あたしはそう思いながらも居間の戸を開ける。
…そこには。
「あ、かえちゃん」
あたしの4つ年上の兄、かえちゃんがいた。
名前は『楓』なんだけど…小さい時からずっと『かえちゃん』って呼んでる。(ちなみに長男)
多分、ドアを開ける時からこっちを見ていたとは思う。
「…李花。人のことは言えないが、こんな時間にどうした?」
――本当に人のこと言えないよね。
「へへ…」
問いかけに、あたしは思わず笑ってしまった。
どうやら、かえちゃんも水を飲みにきたらしい。…もう、飲んだのかもしれない。
かえちゃんはコップを持ったまま、あたしのほうに歩み寄る。
あたしは戸を閉めると、かえちゃんに近づいた。
「…眠れないのか?」
「んー…」
あたしは曖昧に応じる。そして、「かえちゃんは?」と、逆に訊きかえした。
「…まぁ、そんなところだ」
かえちゃんが持ってたコップに手を伸ばして「あたしも水飲む」と言うと、かえちゃんからコップを貰った。
居間のソファーに腰を下ろすかえちゃんをチラリと見たあたしは、台所の水道から水を出した。そして、飲む。
すーっと、冷たいものがノドを伝う。
「…ふぅ…」
息を吐き出すと、ドキドキは少し治まったように思えた。
「そういえば…」
かえちゃんは突然、思い出したようにポツリと言葉を呟く。
コップを簡単に洗ってから振りかえると、かえちゃんは「もうすぐ、誕生日だな」と言った。
あたしはドキドキが大分治まったものの、眠る気になれなくて――って、案外水を飲んだのが悪かったのかもしれない。目が覚めたような気がする。
…ともかく。
「そうだね」
かえちゃんの横に腰を下ろしながらあたしは言った。
「…何か、欲しいものはあるか?」
「え? 欲しいもの? …う〜ん…」
欲しいもの…。欲しいもの…。うーん、突然言われても、案外思いつかないなぁ…。
あたしの誕生日は、来週…6月3日なんだ。
あと…ちょうど一週間。
「思いつかない」
「…そうか」
まぁ、突然いわれてもな、とかえちゃんは呟く。
あたしはしばらくかえちゃんを見つめた後、ポフ、と寄りかかってみた。
「…どうした?」
「ん? んー…なんとなく」
肩に乗せていた頭をズリズリとかえちゃんの膝に移動させる。
「…ここで寝るのか?」
つまり、あたしはかえちゃんに膝枕してもらってる状態だ。
「寝ていいなら、寝る」
あたしはよいしょ、と足をソファーに上げた。
「…風邪をひくぞ」
「大丈夫。バカは風邪ひかないんだよ」
そう言うと、かえちゃんの「…そうか」という小さな声が降ってきた。
――ちょっと、否定してほしかったかも…。
こっそりそんなことを思っていると、かえちゃんはあたしの頭を一度、軽く撫でてくれる。
「…早く起きてくれよ」
そう言いながら…だけど、あたしをどかしたりしないかえちゃんに思わず笑った。
かえちゃんの言葉に甘えて、あたしは瞳を閉じる。
…じわりと感じる、かえちゃんの体温…。
なんとなく安心できて、眠気がやってくる。
ゆっくりと、あたしは眠りに落ちた。
・ ・ ・
「…李花」
呼びかけに、あたしは振り返った。
かえちゃんが、あたしの頭を撫でる。
「…もうすぐ誕生日だな。…何か…」
そこで、かえちゃんの言葉が――止まる。
見開かれた、目。
かえちゃんは口元を手で覆う。
「…な…ぜ…」
くぐもった声があたしの耳に届いた。
かえちゃんは言って…ゆっくりと倒れこむ。
――胸元を血で染めて。
「…っ!!!」
――そして、かえちゃんを傷つけたのは…。
手のひらに水のような…感触。
ペタリと…温かい、感触。
――…いやだっ!!!
声の限り叫んだ。
その、つもりだった。
なんで
どうして
(――かえちゃん…かえちゃん…っ!)
声は声にならないまま、ノドの奥に突っかかったようにして…カタチにならない。
――かえちゃんを傷つけたのは…胸元を血で、染めたのは…
「――………っ!!!」
紛れもなく――あたし自身、だった。
・ ・ ・
「…か…李花?」
ビクリと、体が動いた。
あたしは、呼吸を繰り返す。
声の方に顔を向けると、そこにはかえちゃん。
――かえちゃんの…顔が…。
『…ナ…ゼ…』
――胸元ヲ血デ染メテ。
――カエチャンヲ傷ツケタノハ…アタシ自身…
「うなされていたようだが…嫌な夢でも見たのか?」
かえちゃんの言葉をちゃんと理解するのに、しばらくの時間が必要だった。
どうにか体を起こす。
かえちゃんの胸元に思わず触れた。
――血に染まっていない、かえちゃんの胸元…パジャマ代わりのTシャツをぎゅっと握る。
握る手が、妙にしっとりしていた。手に汗をかいていたらしい。
「…ゆ…め…?」
呟く声が震えた。
呼吸を、繰り返す。ぜぇぜぇと、妙に荒い。
うまく息が出来なくて、浅いのかもしれない。
「…こんな所で…変な格好で寝るからだぞ?」
かえちゃんはそう言って、あたしの頭を軽く撫でる。…優しく、撫でる。
「…夢…」
――この頃あたしは夢を見る。
…あんな夢ばかり、見る。
なぜ。…どうして。
声は、カタチにならないまま。
真純ちゃん、トシ、よっちゃん。
母さん、かえちゃん…父さん、ハナちゃん、李樹…。
叶ちゃん、ユウ、麻利亜ちゃん。
――あべっち。
『何故――…』
あたしに問う声に、答えないまま。
…答えが、見つけられないまま…。
夢の中で…あたしは、何人もの人を――血で染めた。
――何人もの人を、血で濡らす。
…この手で…。
「…李花?」
――大好きな人たちを、傷つける。
「…どうした、李花」
…かえちゃんの呼びかけに、あたしは応じることができなかった…。