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四、享名きょうめい

「ただ今戻りました」
 歌姫は、ユーラの様子を横目で見ながら自分に対する態度と随分違うと思った。
 「どうぞ」という静かな声がドアの向こうから聞こえると、ユーラは歌姫を見下ろし「失礼な態度を取るなよ」と低く言った。
 歌姫は無言で応じる。そんな歌姫にユーラは厳しい印象の焦げ茶色の切れ長の目を細め、無言の圧力をかけてきた。
(その程度でビビるかちくしょう)
 歌姫は心の中のみで言い返す。
「失礼します」
 扉を開け、入室する。
 パチパチと暖炉の火の燃える音がした。
 高い天井に、淡く優しげな色使いの広い部屋だ。歌姫は思わずきょろきょろと見渡してしまう。
 ユーラが「ただ今戻りました」と元々この部屋にいた二人の女性に言葉を繰り返した。
 一方の女性はおばちゃんだった。五十代後半の、やや癖のある髪を首の後ろでまとめている。
 もう一方は、まだ若い少女だった。
 歌姫よりは年上に見えたが女性の一歩手前というか…ひとまず、二十代前半に見えるユーラよりは年下に見えた。
 二、三言葉を交わしユーラが少女に歌姫を示す。次にユーラは歌姫の肩を軽く叩き、視線を少女へと促した。
「貴方が…歌姫?」
 歌姫はそう言った少女…アルスタインを見て思ったことは「人形?」だった。
 か細い声。まるでこの部屋の淡い色に――暖炉の火が揺れる光にとけこんでしまいそうな白い肌…。
 答えない歌姫にアルスタインは微笑んだ。歌姫はその笑顔にドキリとする。
 死んでしまった歌姫の母に、その印象が重なった。

「ハリウルさん、ありがとうございました。お陰さまで歌姫を探し出すことができました」
「ようございました」
 では今日はここで、と淡々と喋るおばちゃん――ハリウルが歌姫にも頭を下げつつ部屋を後にする。見送りでもするのか、ユーラも続いた。歌姫には言葉なき圧力をかけつつ。
(アイツ、二重人格か?)
 ユーラに対して歌姫はそんなことを思う。思わず舌打ちしたくなるほど態度が違うと繰り返し思った。「ふん」と鼻で荒々しく息を吐き出して歌姫はアルスタインへと視線を戻す。
 目が合うと、アルスタインは再びふわりと微笑んだ。

「――」
 そんなアルスタインの笑みに、歌姫はまた『似ている』と思った。
 白い肌に、横の髪を後ろへとまとめた、サラサラの黒髪。背中の半分ほど覆いそうな黒髪でも重い印象にならないのは、きっとアルシタインの髪が細いのだろう。
 優しかった母。…少し病弱だった母。
 歌姫に歌を教えてくれた――今はもう、いない母。
 名前が似ると、雰囲気も似るのだろうか。
 歌姫の母の名は、アルスティンといった。

 ――だから、歌姫は来た。
 アルスタインが女だということを確認して、腹が立つ男、ユーラと共に。母と似た名のユーラの主がどんな人なのかと思って。
 まさかユーラの主がユーラより年若いとは思っていなかったのだが。

 「失礼します」とドアの向こうから声が聞こえた。「どうぞ」とアルスタインが応じる。
 思わず振り返ると、予想通りの存在が立っていた。手には何か――ポットとコップが乗ったトレイを持っている。
 歌姫と目が合うと「妙なマネはしなかっただろうな」と低く言った。「おめぇじゃねぇからしねぇよ」と、歌姫もまた低く応じる。アルスタインは二人の会話に少しばかり首を傾げた。
 歌姫はアルスタインへと視線を戻す。
 ユーラがアルスタインの座っているベッドの傍のサイドテーブルにトレイを置いた。

「そういえば自己紹介もしていなかったわね」
 アルスタインは自らの胸元に手を置き「初めまして」と、柔らかな声音で続ける。
「私は、アルスタイン。アルスタイン・ワイオレッド。享名きょうめいは、香菜」
「…カナ?」
 歌姫はアルスタインの告げたもう一つの名に瞬いた。
「アルスタイン様っ」
 ユーラはアルスタインの言葉にぎょっとして、咎めるような響きで叫ぶ。

 『享名』とは、親から授かる名前とは別の『天から授かる名前』のことで、誕生を証明する手続きと同時に神殿――神官から授かる名前だ。
 享名を知る者は、その人間を支配できると言われる。また、信頼している証として、契約の場などで用いられたりする。
 つまり、軽々しく他人に告げる名前ではないのだ。

 声を上げたユーラにアルスタインは笑みを見せて、再び視線を歌姫へと戻した。
 アルスタインを見つめたままの歌姫を真っ直ぐに見返して続ける。
「そう。香る、菜の花」
 アルスタインはそう言って、また笑った。
「香菜と、呼んでね」
「――」
 ユーラはなんとも言い難い顔をしていた。
 自分の主に考えに口出しをする気はないが…このことに関してはしたい。
 享名は、軽々しく口にするものではないと。

「貴方は? 歌姫?」
「…へ?」
 アルスタインの問い掛けに歌姫は素っ頓狂な声を上げる。その声音に「ああ」とアルスタインは少しだけ慌てたような様子を見せた。
「あの…別に「享名を教えて」というわけではないのよ? ただ、『歌姫』が本当の名ではないでしょう?」
 歌姫はしばらく口をぽかんと開けて、アルスタインを見つめた。瞬いて、瞬いて、開いてしまっていた口にフタをする。
 視線を少し泳がせて、何か閃いたかのような光を瞳に宿した。そして、アルスタインへと応じる。

「カナ。あたしは…花の名、だよ」
「花の名…? まあ、問題?」
 アルスタインの呟きに歌姫は答えない。ただ、にひゃっと笑う。
「……」
 ユーラは何か言いたげな顔をして、二人を見つめた。結局口を開くことはしなかったが。
「何かしら? お花の名前…」
 アルスタインがそう呟くと、ユーラが口を挟んだ。
「アルスタイン様、今夜はひとまずこのくらいで…」
「あ…そうね。遅くなのに、ごめんなさい」
 歌姫に詫びるアルスタインに「ダイジョブ」と歌姫は笑う。ユーラには向けない態度と笑顔だ。

 ユーラは歌姫へ視線を向け、切り出した。
「歌姫、荷物とかあるか。部屋を案内する」
「あ? 荷物も何も、お前があたしをむりや…んぐっ」
 ユーラは歌姫の口を手で覆う。歌姫の言おうとする言葉を封じた。
「さあ、こっちだ。アルスタイン様、ちょっと失礼します」
「ええ…?」
 アルスタインはそんな二人の様子を、首を傾げて見ていた。背中を見送りつつ、瞬く。
(ムリヤ…?)
 アルスタインは歌姫の言葉が『無理やり連れて来た』となるとは、夢にも思わない。

「…んーっ! んーっ!!!」

 ドアの外で歌姫はもがいていた。
 まあ、当然だ。未だにユーラの手が、歌姫の口と鼻を覆いつつも外されていないのだから。
 いい加減苦しくて、歌姫はユーラに反撃をした。今回は足を踏みつける。
「…ってぇ…」
 足を踏みつけられたユーラは思わず、歌姫の口を押さえ込んでいた手を緩めた。
「ぷはっ! だったらさっさと手を外せってのっ!!!」
 涙目になり、ぜーぜーと肩で息をする。微妙に呼吸困難に陥っている歌姫である。

「お前…カナ、か?」
 ユーラはポソリと言った。
 「あ?」と声をあげ、次の瞬間に歌姫は息を呑んだ。
「今、なんて…」
 聞き返してきた歌姫に、ユーラは応じる。
「お前の享名が『カナ』か、と言った」
 その切り返しに、歌姫は声を失ったまま見つめる。
「花の名…花名かな、か」
 その表情を肯定と取り、ユーラは一人頷き、納得した。
「…そう、だ」
 歌姫は口の中だけで呟く。
 ――もうバレたのか、と。

 初めて会った自分に、アルスタインは享名を示してくれた。
 母に似た、優しげなアルスタイン。――スキだ、と思った。

 享名は、契約の証。…信頼の証。
 だから、自らの名を――享名を。
 アルスタインが『香菜』だと享名を示してくれたように、自らも示したい。
 そう思って…少しでも、アルスタインに自分に興味を持って欲しくて。
 自分のことを考えてほしくて、『花の名だよ』なんて、少し曖昧な言い方をした。
 ――なのにもう、ユーラにバレてしまった。
 予想以上に、予定以上に早すぎる。
(あー…)
 目論見が外れ、歌姫はガクリと項垂れた。
 もっと長く時間がかかると思ったのに。
 ユーラでこの調子ではきっと、アルスタインもすぐにわかってしまうだろう。彼女は頭のよさそうな、勘のいいような雰囲気があるから。
 歌を歌って、アルスタインが満足して…それで、お仕舞い終わりだ。
(…あーあ…)

 歌姫の様子をユーラは眺めていた。ポツリと、言葉を零す。
「…お前も、享名があるのか…」
「んぁ? 当たり前だろっ。ディズカーチ生まれの、ディズカーチ育ちなんだから!」
 聞こえたユーラの言葉に、歌姫はむっとした。
 自分が『歌うたい』だからと、馬鹿にされた気がしたからだ。
 享名を授かるのに、身分など関係ない。潤楽という国…この周辺の国で生まれれば、誰でも授かるものなのだから。
 「そうか」とユーラは頷いた。歌姫からでは、前を歩く彼の表情が見えない。
(そういえばコイツの享名ってなんなんだろう?)
 自分の享名は知られてしまったのだから、ユーラの享名を訊いてもいいのではないだろうか、と歌姫は思った。
「お前は?」
 ――そう言ってから。
(コイツの名前さえ知らない)
 歌姫は、今更ながらそんなことに気付く。
「え?」
「あー…名前」
 名前よりも先に享名を訊くことがなんとなくはばかれて、歌姫はユーラにそう問いかけた。
「あぁ…言ってなかったか?」
 歌姫は「おう」と頷く。そんな歌姫にユーラは小さく「そうか」と言ってから、告げた。
「おれは、ユーラ。ユーラ・ジャフェスだ」
 言いながらユーラは歌姫を一つの客室に案内する。

「明日も何処かで歌う予定があるのか」
 客室の前、その廊下でユーラは問い掛けた。その問いに、歌姫は瞬く。
「明日も…ってか、別にいつ、ドコで歌うって決めてねぇよ」
 今週はひとまず今日まで頼まれていたから、と続ける。
「では明日…アルスタイン様のために歌ってもらってもいいか?」
 ユーラのその言葉に、歌姫は「構わねぇよ」と頷いた。
 むしろ、彼女のためであれば喜んで歌う。
 歌姫がぐっと拳を握ると、ユーラは微かに笑った。歌姫はユーラの笑顔を初めて見た気がする。
 ヤなヤツだとは思っていたし、今でもヤなヤツだと思うが…笑えば案外穏やかな印象になるな、なんて思った。

「お前の家はどこら辺だ? 明日また来てくれるなら今日は帰ってもらってもいいが」
ラチっといて強制連行しといてその言い様かよっ!」
 ユーラの物言いに歌姫は咬みつくように応じる。
 そんな歌姫に「細かいことは気にするな」とユーラは呟いた。「ドコが細かい?!」と歌姫は喚く。
「…レルフィ」
「レルフィ?」
 喚きつつも歌姫がきちんと応じた地名をユーラは繰り返した。
 街中の南寄り…今日行った鴎亭と桂屋の間辺りの地名だ。近いとは言えないかもしれないが、帰れない距離でもない。
 ユーラはしばらく考える。
「歌姫は、家族がいるか?」
「…?」
 何故そんなことを、と歌姫は思った。少しばかり目を伏せ、母を思い…そのまま目を閉じる。
「いねぇよ」
「――そうか」
 悪かった、とも大変だな、とも何も言わない。ユーラは言葉を続ける。
「別段帰る必要がないなら、泊まっていけ」
 風呂はこっちだ、と示す。
「……」
 歌姫はユーラを見上げた。視線に気付いたらしいユーラは「どうする」と問い掛ける。
「…泊まる」
「そうか」
 歌姫の答えにユーラはまた、笑った。
「きっと、アルスタイン様がお喜びになる」
 ――歌姫は、ユーラがアルスタインのことを話すと…アルスタインを想うと穏やかな印象になるのだと気付いた。
 風呂とトイレの場所を教えられ、アルスタインの部屋へ向かうユーラを見送る。

 歌姫はなんだかんだでユーラの享名を知ることはできなかった。

 
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