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六、願い−ⅱ

「…香菜」
 呼ぶ声に、怒りが滲んだ。
「そんなこと、言うなっ!」
 半ば、怒鳴るようにして続ける。

 アリアは怒っているのだ。変なことを言うアルスタインに対して、怒っているのだ。
 ――その、はずなのに。

『多分、もうすぐ、私は死ぬわ』

 アルスタインの言葉に…アリアの意志と関係なく、言葉が震える。それは、怒りのためではなく。
「…歌姫? …名が、未だにわからないわね」
 か細いアルスタインの声にアリアは「そうだよ!」とこぶしを握った。
 そうやって手に力を入れていないと、声ばかりでなく指先まで震えそうだった。
「香菜、あたしの名前あててないじゃん!!」
 アリアは握ったこぶしを胸に手を当て、「あててくんなきゃ一生居座るぞ!」ともう一方はばふばふと布団を叩いた。
 アリアの様子に、アルスタインは口元に笑みを浮かべる。
 ――笑っているはずなのに、寂しげに映る。悲しげに、見える。

「…貴方の名を知ることもなく、私は逝くのかしら?」
 続いた言葉にアリアは唇を震わせた。
 …なぜ、唐突にそんなことを? …なぜ、露骨にそんな言葉を?

「香菜…」
 その思いのまま、名を呼んだ。――目の奥が、熱い。
「…歌姫…。泣かないで」
 アリアはアルスタインの言葉にはっとした。
 慌てて目元をこする。まだ、溢れてはいなかった。
「な、泣いてなんか…っ」
 アリアの強がりに、アルスタインは「そうね」とまた、笑う。
「私ね、…変かしら。死ぬのが怖くないの」
 アルスタインは目を伏せて…微かに笑みさえ浮かべ、言葉を続けた。それは独り言のような静かな声音。
「…人は――いえ、形のあるものはすべて死ぬわ。…無くなるわ。私だって、そう」
「でも…っ」
 アリアが言葉を紡ぐより早く、アルスタインは「まだ早い?」と言いつつ、苦しげにむせた。アリアは慌ててその肉の薄い背中を擦る。
「…世間ではそうかもしれないわね。でも、私は…」
 むせて口元を押さえた手のひらには、赤がついていた。…アルスタインの、血の赤。
「私の体はもう、ボロボロなの…」
「大丈夫かっ?」
 アリアはおろおろする。おろおろとしながらも、この状態に…アルスタインが血を吐くことを見慣れ始めている自分自身にぞっとする。
「ええ…」
 アルスタインは手のひらを布で拭き、口元についた血をそっと拭うとぺろりと舐めた。
「こんなところをユーラに見られたら怒られるわね…」
 「おいしくない血だわ」と冗談のようにアルスタインは呟く。アリアは彼女のための薬湯を注ぐと「これ、飲め」と差し出した。
「…ありがとう」
 アリアに手渡された薬湯を受け取り、アルスタインは言った。

「死ぬのは、怖くないわ。…本当に」
「…香菜…」
 寂しいことを言わないで欲しい。
 アルスタインは今、生きているのに。――ここにいて、笑っているのに。
 アリアの悲しげな視線に気付いたアルスタインは、笑う。
 泣かないで、と声にならないままアルスタインの唇がかたどる。

 アルスタインは、医者に十まで生きられればいいほうだろう、と言われていた。
 十五を超えれば奇跡のようなものだろう、とも言われた。
 今は、十七。
 主治医であり、祖父の友人でもあるトーリには「どうせだからもっともっと生きろ」と言われているが…アルスタインの中で自身の死に対する『覚悟』は常にあった。
 それは、今も。

「でも…別れるのは悲しいわ。…泣かれるのは、辛いわ」
 アリアを真っ直ぐに見つめるアルスタインの瞳に「香菜」という呼びかけが声にならなかった。
「…ねぇ、私は歌姫に何もしてあげられないままだけれど…お願いしてもいいかしら?」
 アルスタインの言葉にアリアは瞬く。
 細くて白い…アリアよりも低い体温の、指先。
 重ねて、アリアは『何もしてあげられない』というのは、違うと思うと…そのままを告げる。
「――香菜に何かしてほしくて、傍にいるわけじゃないよ」
 アリアの言葉にアルスタインは僅かに目を見開いた。

 『歌姫』として、アリアはユーラから料金を貰っている。
 けれど、告げた言葉はアリアの本心だ。
 そして、多分…今は此処にいないユーラも、思ってることだ。
 腹が立ってムカつく男だが、アルスタインに対する態度や言葉は全部『本当』だと思う。
 アルスタインがいない場所で、アルスタインのことを話しているときの柔らかな笑みや、アルスタインに対する細やかな気遣い。
 本当に大切に思っているのだと思う。
「でも、何もしなくていいってわけでもない」
 アリアはやや矛盾したことを言う。
 少し戸惑いの見える目を見つめ、アリアは自身の熱を捧げるようにアルスタインの手を握った。
「『死ぬ』なんて、言わないで」
 アリアがアルスタインに惹かれたのは…母に似ていたから、だった。
 でもそれは最初の理由でしかない。
 今は、彼女自身が好きだ。大切だ。
 どこが好きなのか? と問われても「アルスタインだから」としか答えられないくらいに…大好きなのだ。

「香菜は今、生きてんだから」

 アルスタインはアリアの言葉を聞き、目を伏せた。「ごめんなさい」と掠れた声で謝罪する。
 様々な想いが込められている「ごめんなさい」に、アリアは言葉で応じない代わりにまたぎゅっと手を握った。

「頼みって、何? ――あたしでいいのか?」
 アリアはアルスタインを見つめた。
 アルスタインもまたアリアを見つめる。
「ええ、歌姫…。貴方に」
 アルスタインはそっと、アリアに耳打ちをする。
 それが終わると、アルスタインは瞳を閉じた。
「我儘ばかり言って、ごめんなさい…」

 アリアは、誓っていた。
 アルスタインの為になら、彼女が喜んでくれるなら。アルスタインが望んでくれる限り、歌おうと。第一に――彼女の為に、歌おうと。
 アリアは、誓った。
 彼女が喜んでくれるのなら、彼女の願うことをきこうと叶えられること全て、叶えようと…誓った。

「わかったよ…香菜」
 アリアは頷きながら「だけど」と、祈った。
 …「どうか」と、願う。
 この時が長く続きますように、と…。

 
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