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七、祈り−ⅰ

 晴れた日だった。
 ――桜の咲きだした頃だった。

 

 トントン、とドアをノックしながら、ユーラは呼びかけた。
「…アルスタイン様…?」
 朝。今日はハリウルが休みで、昨日アリアはレルフィのマンションへと戻っていたため、この家にいるのは、アルスタインとユーラだけだった。
 …返事がない。時間からして、すでに起きているはずの時間だ。
「…アルスタイン様?」
 確認のため、もう一度ノックをしながら、ユーラは声をかける。…やはり、返事がない。

『すまない、ユーラ』
 …ユーラの脳裏に、トーリの声が浮かんだ。
 主治医のトーリは、アルスタインが生まれてから変わらず、ユーラがワイオレッド家に仕えるようになってからずっと、付き合いがある。
 トーリは自身の知識だけではなく、使える伝手つてを使ってアルスタインの為の新たな治療、薬湯など様々な対処をしていた。
 …けれど、いつも穏やかで落ち着いているトーリが、ユーラに半ばすがるように言った。
わしの知識が追いつかん…。アルスタインが弱っているのを分かっておるのに――何も、出来ん』
 ――その、言葉が。

「アルスタイン様、失礼いたします!!」
 ユーラはアルスタインの部屋に入るにも関わらず、柄になく乱暴に戸を開けた。
 彼女は眠っていた。ベッドに横たわっていた。息をしていないかのように…ピクリともしない。
「アルスタイン様?!」
 叫びにも似た声で、ユーラは呼びかける。
 近づき、ユーラはアルスタインに手を伸ばした。
 けれどその触れる寸前、ゆっくりと…ゆっくりとアルスタインは瞳を開く。
「…? …――?」
 ――ユーラ?
 小さくて、集中していなければ聞こえないほどの…声。
 アルスタインはこの頃更に眠る時間が多く、摂る食事が少なくなった。
「…朝食の時間です」
 ユーラは鼓動が早くなるのを感じた。
 目を開き、自分を見たアルスタインに対してほっとしたのと同時に…ユーラの中で広がる言いようのない恐怖感。そして、不安。

「――」
 ごめんなさいと、やはり消え入りそうな声で続く。
 そして食事はいらない、とアルスタインは告げた。
「アルスタイン様…」
 食べてくださいというユーラの懇願は、声にならない。
 震える声とユーラの表情を見て、アルスタインは微笑んだ。
「――」
 泣かないで。
 アルスタインは神経の全てを腕に集中させ、持ち上げる。…ユーラが今にも泣き出しそうな顔をしていたから。
 ユーラはアルスタインの手に自らの手を重ねる。
 アルスタインの唇が「ユーラ」とかたどった。声が小さすぎて集中しなければ聞こえないが…ユーラには、とどく。
 アルスタインが、自分を呼ぶ声。
 アルスタインの指は骨と皮膚しかないのでは、というほどに細く、血の気があるのか疑わしいほど…白い。
 ユーラは何かが、溢れそうになる。
 彼女は、いるのに。…ここに、あるのに。
 ユーラは頭を振って「薬湯を…」と、アルスタインからそっと、手を外した。

「そういえば…歌姫はいつ頃来ますかね」
 ユーラはアルスタインが身を起こすのを手伝い、用意した薬湯を手渡しながらアリアの話題を唇にのせた。
 その時、まるでタイミングを計ったかのようにアリアが現れる。
「おっはよーっ! 香菜、調子はどう?」
 勢いよくドアを開けたアリアの、もう一方の手には小さな花が握られていた。道端に生えているであろう、雑草ともいえるような花が。
 アリアは「静かに開けろ」というユーラの言葉を無視して、「それはどうしたの?」というアルスタインの問い掛けに答えた。
「これな、咲いてたんだ。香菜、花がスキだろ?」
 ニカッと笑いながらアリアは花を差し出す。アルスタインによく見せるように手首を動かして示した。
「あ、ユーラ。花を入れられるなんか持ってこいよ」
「…なんで命令されなくてはならない?」
 暗に「自分で探してもってこい」とユーラは言った。
 ユーラの密かな指示に気付いているのかいないのか、アリアは飄々と「だって」と言葉を紡ぐ。
「手が空いてんの、ユーラくらいだろ?」
 ハリウルさんに聞こうにも、今日は休みだし。アリアはそう言うと「ほら、さっさと行け」と言わんばかりに空いているほうの手をパタパタと揺らした。ユーラは舌打ちをこらえつつ、アルスタインの部屋を後にする。

 アルスタインが「もう、花が咲くのね」と言うとアリアはうん、と頷いた。
「香菜、どんな歌が聞きたい?」
 アルスタインが飲み終わった薬湯の入ったカップを受け取ってサイドテーブルに置くと、アリアはベッドに座り込みながら問いかける。
 アリアの問いに少し考え、「貴女の名が出てくる歌を」と、アルスタインは言った。
 アリアは瞬く。
 アルスタインはまだ、歌姫の名前を…享名を、知らない。今もまだ、アリアはアルスタインに名を、告げていない。
 ふ、と一つ息を吐き出し口元に笑みを浮かべた。
 もう一つ息を吐き出し…アリアは、歌う。

愛しい人よ 我が心に気づいて
出会えた喜び
笑ってくれる喜び
触れあえる喜び
喜びはいつも貴方がくれる

愛しい人よ 我が思いに気づいて
視線がぶつかる
言葉を交わす
熱が触れる
それが我が喜びに変わる

 歌が終わる頃、アルスタインは僅かに首を傾げた。「貴女の、名?」と問う。それは消え入りそうな声音。
 アルスタインの問いかけ…その小さな声にアリアは一度唇を噛み、零れそうな感情をこらえ、微笑んだ。

「愛しい人よ」
 アリアはそっと手に触れる。自分の熱をアルスタインに捧げるように、握る。
「我が享名に気付いて」
 アリアは言いながら瞬きをした。…なぜか、緊張した。
「我が享名を知って」
 瞳を逸らさず、真っ直ぐに――アルスタインを見つめる。
「貴方と同じ享名の、我が喜びに気づいて」

 そこまで言って、アリアは歌うことをやめた。
 しばらくの間があった。「私と、同じ?」アルスタインの小さな呟きに、アリアは頷く。うん、と応じた。
「あたしの享名は、カナ。花の名の…花名」
 アルスタインはゆっくりと瞬いた。
「そうだったの…」
 言葉に宿るのは、驚きと…それから。
「『花名』と、いうのね」
 目を細めることで見せる、喜び。

 花名、とアルスタインがアリアを呼ぶ。
 何度もアリアの享名を呼ぶ。――享名で、呼ぶ。
 アリアは、瞳を閉じた。繰り返されるアルスタインの声に。
 自分の享名を呼ぶ、アルスタインの声。――アリアの中で、母が自分を呼ぶ声と重なった。

 ノックに、アリアとアルスタインは視線をドアへと向ける。
 アルスタインが「どうぞ」と応じるとユーラがアリアに言われて用意した小さな花瓶を片手に、アルスタインの部屋に戻ってきた。

 アルスタインのベッドに腰を下ろしていたアリアは立ち上がってユーラからその花瓶を受け取る。
 花瓶を受け取ったアリアは「ん?」と首を傾げた。
 花瓶を用意しつつ、水を入れないという地味な嫌がらせに「ひでぇ」と言いつつ、自ら摘んだ花と共にアルスタインの部屋を出て行く。
 アルスタインがドアの向こうに消えると、アルスタインが「ユーラ」と呼びかけた。

 二人きりだ。今まで幾度もあったこと。
「…はい」
 呼びかけにユーラは応じた。わけのわからない思いが、ユーラの中で巡っている。

享名を、呼んで」

 ――彼女の望みは、きこう。叶えよう。…自分が、叶えられるのならば。
「…アルスタイン様」
 ユーラは彼女の名を呼んだ。
 ユーラの呼びかけに「違う」と、アルスタインの唇がかたどる。

 ユーラは、アルスタインの望みがわかる。
 けれど…。
「申し訳ありません…それは…」
 できない、と。声にしないで、唇を噛んだ。
 アルスタインは「なぜ」と問う。
「一度でいいの。最初で…最後で構わない」
「アルスタイン様…」
 なぜ、そんなことを言うのか。
(…なぜ…)
 ユーラはその答えをどこかで感じていた。しかし言葉にはしない。
 ――言葉にして、かたちにしたりしない。
 「ユーラ」と、アルスタインはユーラの名を、呼ぶ。
「…私が、貴方に呼んでほしいの…ユーラ」
 アルスタインは、そっと囁く。

 ――呼びたい。彼女の、享名を。

「お願い、…呼んで」
 ユーラを呼ぶ声。――祈りにも似た、言葉。
「…」
 ユーラの唇が、『香菜』と、かたどった。
 …声にすることは、できなかった。

 

 晴れた日だった。
『ねぇ、お願いしてもいいかしら?』
 桜の咲きだした日だった。
『あのね…』
 アルスタインが、息をひきとった。
 …まるで眠るように、彼女は逝った。

 最後まで…最期まで、笑みを見せて。

 
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