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七、祈り−ⅱ

 アルスタインが二度と目覚めないと最初に知ったのは、ユーラだった。
 次に、アリア。ユーラが呼んだトーリ主治医
 …アルスタインの祖父の友人で、ワイオレッド家の主治医であるトーリが、彼女の死を確認した。

 アルスタインが、大地に還る。

 そこにあるのは巨大な樹。一本の…樹齢が百年は経っていそうな、巨木。
 その樹を取り囲むように、その場所には花があった。いくつもの花が、絶えることなく。
 そこは神殿の奥。『還る者』の場。
 その場に入るのが許されるのは神官と…そして。『還る者』だけ。
 花は、『還る者』の…『還った者』への贈り物だった。

 潤楽国…ディズカーチの葬儀は、すべてが神殿に任される。
 『還る者』は火葬され、その灰が『還りの場』へと納められるのだ。
 淡々と、アルスタインが『還る』用意が進む。
 アルスタインは花、そして彼女の好きだった物語と共に棺に納められていた。
 眠っているだけのようにも見えるアルスタイン。棺の側に立つ神官は「別れの言葉を」と厳かに言った。
 その言葉に、ユーラは棺に入っているアルスタインに触れようと足を踏み出した。
 しかし、神官はそれを妨げようとする。「『還る者』を妨げてはならない」と言った。
 ユーラはその言葉を聞かず…動いた。
 棺の中のアルスタインに触れる。
 …冷たい。

「止めなさい!」
 ユーラはもう一人の神官に押さえつけられた。
 そっと、手のひらを見つめる。
 そこに彼女の温もりはなくて。…熱が、そこにはなくて。呆然とした。

「……っ」
 彼女がいのだと、知った。再び、思い知った。嘘でも夢でもないのだと…何度も、何度も、思い知る。

『…ユーラ』

 彼女は亡くなってしまったのだと、思い知る。
 手に触れたアルスタインの冷たさを、自らの左手で抑え込むようにして、両手を額へ押し当てた。はっ、とユーラは苦しげに呼吸をする。
 棺に納められたアルスタインが、ユーラの届かない場所へと、行く。行ってしまう。
 ――もう、触れられない。触れあえない。
 彼女が、自らの名を呼んでくれることはない。叶わない。

「…――っ」

 ユーラは爪が食い込むほどに、両手を握った。軋むほどに、歯を食いしばった。
 震えそうなそれぞれを抑え込むために。叫びそうな自分を、抑え込むために。

 『香菜』と本当は、呼びたかった。
 アルスタインがユーラに享名を示してくれたようにユーラもまた、それを示したかった。

 享名を示すのは、契約の証。…信頼の証。
 大切な人に示す、名前。
 『香菜』と呼びたかった。
 ――だが。

「        」

 享名は、ユーラにないもの。
 アルスタインが告げてくれたように、告げる享名が――ユーラには享名が、なかった。
 香菜と、呼びたかった。アルスタインに、告げたかった。

(アルスタイン様…!)
 声ではない声で、ユーラは叫ぶ。

 捨て子だったユーラを拾ってくれたのは、…『モノ』を『ヒト』にしてくれたのはフォルオ・ワイオレッド…アルスタインの祖父だった。
 人形のようだったユーラに感情を――喜びや温もり、優しさ、愛しさ――それらをくれたのは、アルスタインだった。
 誰よりも大切で、唯一。ユーラにとっての、絶対。

『泣かないで』

 アルスタインの声が、ユーラの中で巡る。
 叫びそうな自分自身を自ら抑え込んだ。
 アルスタインが、ユーラにとっての『絶対』。
 …彼女との約束で、彼は涙を流さない――流せなかった。

 『還りの場』へと、アルスタインが行く。
 神官と『還る者』しか進むことを許されない、神殿の奥。アリアは瞬きをせず、それを見た。じっと、棺が見えなくなるまで。

 その場所にいたのはユーラとアリア、そしてハリウルとトーリだった。
 ワイオレッド家のまだ年若い当主の葬儀は、また別の日に執り行われる。今はただの娘…アルスタインとの、別れの時。
 友人の孫…ある意味では孫を喪ったかのようにうなだれるトーリをハリウルが支え、還りの場の入口――見送りの場から去る。
 そんな二人の様子に気付きながらも動かない…動けないユーラとアリア。
 ――ガランと広い空間に、二人。
 還りの場にも続くその場所には、何処からか風も巡る。

『ねぇ、お願いしてもいいかしら?』
 アルスタインの声が、頭の中によみがえる。
 …ひと月も経っていないことなのに、とても遠い日の思い出のように感じられる。
『あのね…』
 アリアは、誓った。彼女の願うことをきこうと…誓った。
 だから。
『歌を歌って。私が還るときに』
 彼女の願った歌を、歌おう。
 小さく息を吸った。もう棺も、神官の姿も見えない。

水が凪ぐ 花の鏡となるため
水が凪ぐ

咲く花よ 淡き色の小さき花よ
うちに秘めし熱を見せておくれ

風が凪ぐ 花を散らさぬため
風が凪ぐ

散るにはまだ早い 逝くにはまだ早い
我が元を去るってくれるな

その願いは届かない 花は散って逝く
この願いは届かない 花と友の貴方に

 囁くような歌は、しずかなその場所に広がった。アリアの目頭は熱くなる。
 その歌は…悼む歌。アルスタインを悼む歌だった。

 アルスタインは言った。『歌を歌って』と。
 そして、アルスタインは言った。『泣かないで』と。『どうか、泣いたりしないで』と。
 アリアは涙を堪える。何度も何度も浅い呼吸を繰り返して、堪えようとする。
 なのに…その努力は虚しく、涙は流れた。

 彼女との約束を破ってしまった。
 それが、悔しい。約束を破ってしまった自分が。
 とても、悲しい。彼女は逝ってしまった。

 一度あふれた涙は、止まらない。…止められない。
 アリアがアルスタインをスキだ、と思った最初の理由は、『母に似ていた』からかもしれない。
 でも、結局は彼女が好きになった。アルスタイン自身を好きになった。
 「花名」と自らの名を呼んでくれた、アルスタインを。
 自分の享名と同じ音の享名の、彼女を。

(香菜…!)

 二人の声が…思いが。大地に還るアルスタインに届いたのか。
 風がふいて、ユーラの髪を揺らした。アリアの頬を優しく撫でた。
 それは『泣かないで』というアルスタインの意思のようにも…感じられた。

 還る様子を、見送る者は見ることができない。還る者を納めた棺と神官が還りの場…その、門の向こうへと姿を消してしまえば、長くとどまることが許されない。
 ユーラとアリアは『見送り』の場を、出た。
 ユーラはハリウルとトーリをぼんやりと探す。アリアは、そんなユーラの後に続く。

 もう、アルスタインの…ユーラの住む家にいる理由がない。アリアは小さく切り出した。
「あたし、帰るよ」
 沈黙があった。…小さくて届かなかったのだろうか。ユーラは、返事をしない。
「…ユーラ?」
 アリアが、ユーラの名を呼ぶ。

『ユーラ』

 アルスタインの声が、ユーラの中で巡った。
 もう、いない。…あの声で、呼んではもらえない。
 代わりといえた。でも。…それでも。
「…  」
 ユーラが小さく何かを言う。アリアは「え?」と聞き返した。立ち止まったユーラは、振り返る。
「…カナ」
 声に、アリアはゆっくりと瞬きをする。
 彼がアリアをそう呼んだことが初めてだったので。

「…おれが、依頼人になる」
 だから、と。
「歌を、聞かせてくれ」
 どうか、と彼は続けた。
「共に、いてくれ」
 言いながら、ユーラは視線を落とす。まるで祈るかのように、目を伏せた。

「……」
 アリアはユーラの様子を見ながら、自分の中でユーラの言葉を繰り返した。

 …歌を聞かせてくれ。
 ――どうか共にいてくれ。

 アリアはユーラのことはすきではない…はずだった。
 だけど、アルスタインという人に思いを寄せているのは、同じで。
 今も、大切に思っていることは同じで。
『ユーラ』
 …アルスタインが、大切に思っていた人間だったのは、確かで。

 アリアは泣いてくしゃくしゃになった顔のまま、口を開く。
「…依頼人なら、しょうがないな」
 ユーラは顔を上げ、アリアを見つめた。
 アリアははれた目を細め、微笑む。
「ユーラ。あんたのために」
 アルスタインが想っていた、アルスタインの大切な人の為に。
(…あたし自身の、イタミを和らげるために)
「歌を歌うよ」

 ユーラはアリアへ手を伸ばした。アリアの涙で濡れた頬に、指先で触れる。
「…不細工」
「…うるせぇよ」
 言葉は悪かったがアリアに触れる手が思いのほか柔らかく、アリアはその手を受け入れ、言葉だけでユーラに言い返した。
 頬に触れた指先がそのまま涙をぬぐい、意識せず目を閉じたアリアの肩をユーラはそっと抱く。
 触れる手と、広がった熱。
 アリアは目を開くと、その手に答えるようにユーラの腕にしがみついた。

 一人の人と別れた日。
 大切な人に、永遠に逢えなくなった日。

 二人は面影を求め、互いを求めた。

歌姫−花の咲くころ−<完>

2002年 5月 4日(土)【初版完成】
2010年12月11日(土)【訂正/改定完成】

 
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