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三、大切

 アリアは息を吸い込み、思い切り吐き出した。
 今日は久々の晴れ。
 洗濯物を干すには絶好の日だ。
 …干す前には洗わなくてはならないが。
(洗わなきゃ干せないよなー。…水、やっぱ冷たいかな)
 しかし今日を逃して洗濯物を溜め込むのもどうかと「うぅ」と小さく唸る。
「おお、アリア」
 日当たりのいい小さなベランダで考えていたアリアは呼ぶ声に視線を落とした。
「? じーちゃん!」
 アリアは自分を呼んだ存在に声を上げる。
 慌てて二階のベランダから一階へと移動した。
 ドアを開け、目前のおじいさんに笑顔を見せる。
「元気?」
「ああ。アリアはどうだ?」
「あたしも元気ー!」
 ならいい、とおじいさん…ことトーリは目を細め、顔中をしわしわにした。
 トーリはアリアの祖父ではなくワイオレッド家の主治医で、アルスタインの主治医だった男だ。
 元々はアルスタインの祖父であるフォルオの友人で、祖父しか身内のいなかったアルスタインからすれば、祖父亡き後はトーリがアルスタインの祖父のような存在だった。
 アルスタインが亡き後――しばらく落ち込んでしまっていたトーリだったが、今では大分元気になった。
『ワイオレッドの連中の悪いところは、わしより若いうちに死んじまったところだ』
 と辛口発言を漏らす程度に。
『何故かな。…儂ばかり置いてかれる』
 ――そう、寂しげに呟いたのも聞いた。

 トーリは時々…『ボケ予防』と言いつつ…この家に訪れていた。
 居間に入るとお茶を飲みながらアリアと雑談を交わし、ふいに「ユーラは?」と言った。
「今掃除中ー」
「おぉ、そうだったか」
 「呼ぼうか?」と言ったアリアにトーリは「構わない」と首を横に振る。
「じいちゃん?」
 トーリはアリアの『じいちゃん』発言を咎めない。むしろにこにこしながら「なんだ?」と応じた。
 …だが、今回は少し難しそうな顔をしたまま、アリアの用意した紅茶を口にする。
「ユーラの調子は、どうだ?」
 やや間を置いた問いかけに、アリアは首を傾げた。
「変わんない…ぞ?」
 思考を巡らせ、応じる。
 トーリは「そうか」と言いつつ、もう一口紅茶を飲む。
 『変わらない』と応じながら、アリアは『でも』とも思った。
(ユーラ、この頃食べないよな…)
 確実に言えるのは、初めて会った頃より痩せたということ。
(さっきだって出してあったのは全部食べてたけど、なきゃないで食べなかったかも、ってくらいゆっくり食べてたし…)

「でも」
「だが」

 ほぼ同時に口を開いたアリアとトーリは互いにはっとした。
 アリアは「ナニ?」と先にトーリの言葉を促す。
「…ユーラのヤツ、痩せとらんか?」
「あ、じいちゃんもそう思う…?」
 つい先程まで思っていて、言おうとしていたことを、トーリは先に言った。
 トーリは頷く。
「まぁ、ユーラは元々肉付きは薄いが…。それでも、儂は痩せたように思える」
「だよな。あたし、ユーラと知り合って一年…? ちょっとか」
 少しだけ思い返して、アリアは一人頷く。
「最初に会った時より、痩せたなぁって思う」
 トーリは一つ息を吐いた。「ユーラ」と口の中だけで名を呟く。
 もう一つ息を吐き、年の割にふさふさした…色は白い…髪を掻き混ぜた。

「…アルスタインからの手紙は読んだか?」
「う? あたし?」
 アリアはトーリの話題転換にパチクリとしつつも、首肯した。
 …手紙は、トーリから渡された。
「読むと…正直泣きそうになったりするけど。たまに、読み返すよ」
 トーリは目を細めた。
 それはアリアの切なげな表情のためか、今は亡き孫のような少女――アルスタインを思ってか。
 もしかしたら両方かもしれない。
「…そうか」
 そう言ってトーリは頷く。
「…まったく、年寄りじじいの儂より早く逝きおって…」
 小さな呟きは、口調とは裏腹に寂しげな瞳でこぼされた。

 短いお茶会を終え、ユーラとも少し話をしたらしいトーリを見送ると陽射しは高くなっていた。
 やはり「今日を逃す手はない」とアリアは勇気を出して洗濯を開始する。
「うぅ、やっぱり冷てぇ…」
 浴室で洗濯をするアリア。
 浴室は日光の入らないところに窓がある。
(早く洗って、ちゃっちゃと干そう)
 ごしごしと洗濯をする。
 洗濯をしながらアリアは、トーリとの先程の会話――ユーラのことを思った。
(ユーラ…やっぱこの頃食べないよな…)
 元々の食事の量を知っているわけではないが…ユーラの食事の量は少ないように思えた。
 ひとまず、アリアの知る『男性』より少なく思える。
 母がのこしてくれた家…アパートの隣室に住む幼馴染みは、アリアより一つ年下で背はアリアと同じくらいなのだが、食べる量はアリアが見るユーラの食べる量より断然多い。
 その幼馴染みの育ての親…従兄らしい…も、体の大きさとしてはユーラと同じくらいだと思うのだが、食べる量は多く思えた。
(さっきだってパンが一枚だったしなー。…ずっと見張ってるわけじゃねぇけど、たまに一日一食とかで過ごしてねぇか?)
 アリアはユーラの行動を思った。
 ふと、洗濯物を洗う手の力が緩む。

(…あの日課、ずっと続けていくのかな?)
 暖炉に薪をくべ、花を飾り、水を換える。
 それから、部屋の掃除をする。
(あの部屋は…)
 …あの部屋の主――アルスタインは、いないのに。
 あの部屋があるのは…あの部屋が、そのままの状態なのはアリアにとって、少し辛い。
 部屋はそのままなのに、アルスタインはいないから。
 ――だからアリアは…あの部屋には入ることができない。
 それから、ユーラが部屋にいていつもの作業をしているときは、特に入れない。
 …更に入りづらい。
 ユーラの姿を見ると、ユーラの大切な空間のような気がして、ずかずかと入り込む気持ちになれない。

 ユーラは、初めて会った時はいい感情を抱けるヤツではなかった。
 …なにしろ、突然拉致されたので。
 だけど、共に過ごして。アルスタインとの時間を共有して――アルスタインが逝ってしまった時、アルスタインを亡くした悲しみが同じで。
 アルスタインと同じ時を過ごしたユーラ。
 アルスタインを知るユーラ。

 アルスタインの還った日。
『歌を、聞かせてくれ。――どうか…。共に、いてくれ…』
 あの日の、ユーラの言葉。
 アリアは自らの悲しみを和らげるために、ユーラと共に暮らすことを決めた。

「おし…っと」
 洗濯終了。後は干すだけだ。
 アリアは自分の手を見た。…真っ赤である。
(手、冷たいなぁ…)
 冷たいを通り越して微妙に痛いような気もする。
 今更だが、水だけではなくお湯も使って洗濯すればよかったと思うアリアだった。
 ベランダは南側。気持ちよく洗濯物が干せる。
 空気は冷たいが、日差しは暖かい。
「終わり!」
 干し終わると、アリアは思わず声をあげた。
 やっぱり指先が痛い。
 温めねば、と両手をこすり、息を吹きかける。

「カナ」
 そんなアリアの後ろからユーラは声をかけた。
 掃除が終わったのだろうか。
「どうしたんだ? …ああ、洗濯をしたのか」
 ユーラは近づき、アリアの手に触れる。
「大分冷たいな。湯水を使えばよかったのに」
「あたしもさっき後悔したトコ」
 アリアの両手をユーラの両手が包み込む。
 じわじわと、ユーラの体温がアリアの冷えた指先から広がった。
「あったけぇ…」
「そうだろ? 感謝しろ」
 ユーラとアリアはベランダで立ったままそんな会話をした。
「ユーラ」
「ん?」
「あっためてくれるのは嬉しんだけどさ、座ろうよ」
 家の中でまったりするのもいいのだが、今日は久々の晴れで日向ぼっこをしたい気分だった。
「なんだ、もう立ち疲れたのか? 根性がないな」
 ユーラの発言にアリアが「うるせぇよ」と切り返すと、ユーラは笑った。
 椅子のようなものがあるわけではないが、壁に背を預け、そのままベランダに座り込む。ユーラの行動を見てアリアも腰を下ろした。
 日向ぼっこは気持ちいい。陽射しが温かい。
 だが、空気が冷たい。…風がふいた。
「うおっ。さむっ!」
 アリアは風に文句を言う。
 ユーラはアリアの様子を見て、「ほら」と自らの足をペシペシと軽く叩いた。
 最初、アリアは意味がわからなかったのだが、しばらく考えてユーラの行動の意味を理解する。
 体育座りのようなユーラの腕の中にアリアはおさまった。
 ユーラは背後からアリアの両手をもう一度包み込み、温める。
 背中からはユーラの体温。
 手の甲からはユーラの両手の温かさ。
 アリアはホコホコである。

「ぬくい」
 アリアがほっこりした気持ちのまま呟けば、ユーラは「そうか」と応じた。
 親猫が子猫を温めるように、ユーラは今もアリアの両手を包んだままだ。

 風が冷たくて、空気が冷えていて。
 …でも、ここは温かい。

 アリアは出会った時、ユーラのことがすきではなかった。
 だけど、今は――肉親のような感情でユーラのことがすきだ。
 肉親と呼べる存在のないアリアにとって、ユーラは大切な存在だ。
 ――もしかしたら、今のアリアにとって。
 母親とアルスタインと同じくらいに、すきで、大切なのかもしれない。
 ――母親とアルスタインは既に亡い人だから。
 ユーラは今、一番すきな人かもしれない。

 
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