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四、桂屋

 食材がきれた。
 買い物に行かなければ、食べるものがない。
(まぁ、一食抜いたところで死なないだろうが)
 すでに夕刻になっている。
 アリアは歌姫としての仕事をするために、既に家を出ていていない。
 夕食を仮に食べるとしたなら、今夜は一人で食べることになる。
(夕食、抜いてしまおうか)
 ユーラはそんなことを考える。

 なんだかんだで、ユーラは買い物をすることにした。
 夕食は抜くが、明日の朝食は食べるだろうから。
『アリアが心配しとったぞ』
 …トーリにそう、言われたこともある。

 買い物が済み、気付けばユーラの足は酒屋街に向かっていた。
 まぁ、酒屋街を通って行っても家には帰れるのだが。
(今日は…桂屋、とか言っていたか?)
 アリアの仕事のことを思い出し『少し寄ってみるか』と、買い物の荷物を持ったまま桂屋に向かう。
 アリアは家にいる時でも歌ってくれる。
 歌ってくれるが、酒屋で響く声もまた、違う美しさがある。
 …そう、ユーラは思っている。

 桂屋は静かだ。
 初めて『歌姫』…アリアに出会ったのも、この酒屋だった。
「おい!」
 それは、どうもユーラにかけられたものらしい。
 ユーラは声の発信源を探そうと見渡す。
「ここ、ここだ」
 ――発見。
「ああ、どうも」
 顔に見覚えがある。…確か…。
「ケゼル?」
「お、覚えてたか。久々だな」
 この桂屋に来た時に、初めて話したのがケゼルだ。
 大きな体と、太い腕…初めて会った時に一度だけ、取っ組み合いの一歩手前をやりあったことがある。
 主の求める歌姫をさっさと連れ帰ろうとするユーラと、その歌姫の声を楽しみにしていて、即連れ出そうとするユーラを阻んだケゼルと。
 歌を聞いたケゼルはその後のユーラの行動を止めることはなかった。

『歌姫の口の悪さは折紙付おりがみつきだからな』
 後日、ケゼルの口からユーラを止めなかった理由を聞けた。
『お前は『主のために』っつってただろ? そうなると、あの歌姫じゃあお前の『主』も嫌がるだろうと思ってな』
 止めなかった、と笑った。
 …確かに歌姫がユーラに対する態度のまま主である彼女に接すれば、例え歌声が素晴らしくても、ユーラは歌姫を(拉致をしておいてなんだが)追いだしたと思う。
 けれどアリアは、彼女に対しては素直な態度だった。
 …何よりも、彼女が歌姫を…アリアを気に入ったようだったから、ユーラが追い出すような真似はしなかった。
 もし、彼女に対してアリアの態度が悪かったり、あるいは彼女がアリアの存在で気を悪くするようなことになれば追いだしたと思うが。
 最後まで…最期まで、アリアは彼女を好いていた。傍らに在ろうとした。…ユーラと同じように。
 そして――彼女もまた、アリアを…歌姫を、大切に思っていたように見えた。
 歌声に癒されていたように見えた。

 ユーラは意識せず目を伏せる。
 その後、彼女が亡くなってから何度かこの桂屋に来ているのだが、来るたびにケゼルはいた。
 いつも同じ席に座っている。
 大抵ケゼルの隣の席が空いていて、ケゼルはユーラに「ここに座れ」と椅子を軽く叩いた。
 ユーラはケゼルの隣に腰を下ろし、荷物をカウンターの上に置いた。
(不思議なものだ)
 正直、もう二度と会うこともないだろう…などと思っていたというのに。
 ユーラが桂屋に来るからだろうが、ケゼルとは名を知り、多少の雑談をする程度には『知り合い』になっていた。
「今日、歌姫が来るぞ」
 ケゼルの言葉にユーラは「知ってる」と小さく答えた。
 ケゼルは一度目を丸くして、首を傾げると言葉を続ける。
「お前が来る時は、いつも歌姫が来るよな。偶然か?」
 ユーラはその問いかけに「さあ?」とあいまいな言葉を返した。
 本当のことを言ってしまえば、偶然などではないが。
 『知り合い』程度に親しくなったケゼルに、ユーラは「歌姫と一緒に暮らしている」とは言っていなかった。
 言う機会もない、ということもあったが…言えば絶対根掘り葉掘り訊かれる気がする。
 それが、面倒だった。

 さて、今日も歌姫の影響か、桂屋の座席はほぼ埋まっている。
 ユーラは桂屋の店主…ディエアにビールを注文した。
 ユーラはどちらかといえば果実酒のほうが好むのだが、なんとなく、今夜はビールを飲む気分だった。
「……」
 ズイ、とディエアはユーラにビールを差し出す。
 言葉がないのは、喋れないからだ。
「ありがとう」
 そう、礼を言ったユーラの顔をディエアはしばらくまじまじと見つめた。
「…な、なんだ?」
 どうかしたのか? とユーラは続けるが、ディエアは答えない。…正確には、ディエアが喋れないため、言葉では答えられないのだが。
 しばらくすると、プイッと去っていってしまった。
「…なんなのだ?」
「さぁな?」
 ケゼルはユーラの独り言に律儀に返事をする。
 …と。
 しばらくしてユーラの前に軽食が運ばれた。
「…ケゼルがこれを頼んだのか?」
「俺は頼んだ覚えはねぇが?」
 ユーラにも頼んだ記憶などない。
「店主、おれは注文してないのだが…」
 間違えたか? とユーラは思いながらディエアに言う。
 ディエアはそんなユーラの言葉に首を横に振った。
「…?」
 どういう意味なのだろう?
「食えってコトだろ?」
 ユーラの考えていることの答えをケゼルが言った。
 なぁ、とケゼルはディエアに返答を求める。
 ユーラがディエアに視線をむけると、ディエアは首をゆっくりと縦に振った。
「え、いや…」
 軽食分の金はあるにはあるが、今夜は夕食を抜こうと思っていたのだ。
 食べようと思えば食べられるが、食べなくともなんの支障もない。
「ディエアの奢りだろ? 食やいいんだよ」
「食え…って…」
 ディエアのほうを見た。
 ディエアはケゼルの言葉に同意を示すように軽く頷く。
「…じゃ、じゃあ、いただきます…」
 ユーラがそう言うとディエアは二人のもとを去った。
「なんで急に…?」
 ユーラが思わず疑問を唇に乗せる。
 ケゼルはグビッとビールを一口飲んでから言った。
「お前、痩せただろ? ディエアのちょっとした気遣いだろうよ」
 お前はたまにしか来ないけどな、と続けて何がおかしいのかワハハと笑った。

『ユーラ、自分が痩せた自覚はあるか』
 …トーリの言葉が、また蘇える。
(そんな気は、ないが…)
 寝癖がどうとかいうくらいで鏡は見るが、まじまじと自身を観察したりはしない。
『アリアが心配しとったぞ』
 そう言ったこともまた、思い出される。
 ユーラがアリアから面と向かって『お前が心配だ!』なんて言われたことはない。
 だが…一年近く、一緒に過ごす時間の中でアリアが『身内』と判断した、気を許した存在には心を砕く…案外、優しい少女なのだな、とは気付いた。
 口は悪いが、かわいらしい部分もある。
 ユーラに血縁者はいないが、妹というモノがいればこんな感じだろうか、とは思っていた。
(…そうさせるつもりも、ない)
 アリアを心配させるような気はない。
 確かに、元々食事に対して興味があるほうではないが…そんなに自分は痩せただろうか。
 ユーラはディエアの用意してくれた軽食を見下ろした。
 つまみセットのようなものだ。ぱくり、とユーラはイモの揚げ物を一つ食べる。
 周りがシンとしたことに気付き、ユーラは視線を軽食から外し、ステージと言うほどでもないがいくらか広くなっている場所に注目した。

 しばらく笑っていたケゼルだが、回りの様子に気付くと笑うのをやめた。
 歌姫の登場である。
「お、歌姫だ」
 ケゼルよりも早くユーラは歌姫に…アリアに気付いて、注目していた。
 アリアはユーラの存在に気付いているだろうか。
(気付いてなさそうだな)
 そう、ユーラは思った。
 歌姫は一度大きく礼をする。
 そして…美しい声で、歌を歌いだした。
 冬である今に相応しい、春を恋う歌を。

 
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