「うぅ…」
アリアは寒さに身を震わせた。
風が冷たい。冬なので、当然だが。
今日の仕事は終了だ。
アリアは桂屋を出てユーラの家に向かおうと歩き出した。
頬が冷風にさらされる。
帽子を被るか耳当てをすればよかったか、と思うが今更遅い。
アリアは手袋をした手で頬同様、冬の空気にさらされたままの耳を覆う。
…と。
アリアの視線の先に見覚えのある男が立っていた。
それは。
「…ユーラ」
いるはずがないと思った。
ユーラが今いるのは、家だろうと。アリアはそう思っていたから。
アリアの声に気付いたのか、ユーラは軽く手を上げる。
「もしかして桂屋に来てたか?」
アリアはユーラの元へ走り寄った。
「やっぱり気付いてなかったか」
アリアの問いかけにユーラはそう答える。
「あれだけ暗いトコじゃ気付けるものも気付けねーよ」
アリアの言葉に「それもそうか」とユーラは答え、冬の夜空を仰ぐ。
「冬の夜は気持ちいいな」
「そうか? 寒いじゃん」
アリアは一度手を外した耳にもう一度手を当てる。
「それは、確かにそうだが」
もう一度、風がふく。
まるで、それを合図にしたかのように…。
「お?」
雪が、ヒラヒラと舞いはじめた。
「どーりで寒いと思った!」
アリアはそう言って空から来る白いものをひとひら、手にしようとする。
そのひとひらはアリアの手に乗らず、ヒラヒラと地面へ落ちた。
土に…還った。
アリアは掴み損なった雪の行方を思い、もう一度空を見上げる。
『何か』を思った。――それは、雪ではなく。
薄い雲。夜空。月、星…。
ヒラヒラと、ヒラヒラと、雪が…空から舞い降りる。
ヒラヒラと。…ヒラヒラと。
「…桜…」
思わずもらした呟き。
意識せず零れた言葉に、アリアはハッとする。
雪を見て『何か』を思ったのだが…そうか。
アリアは自分で思った『何か』の正体を、自らの呟きで知る。
桜。
舞い散る、桜。
…そして、散る前に逝ってしまった人を、思ったのだ。
アリアが掴み損ねた雪のひとひらを。
――土に還った、雪のひとひらを。
今は亡い、アルスタインに重ねたのだ。
アリアは彼女が逝ってから口にしなかった言葉を、口にした。
――ユーラの前で口にしなかった女性の名を、口にした。
「…香菜…」
自らと同じ音の名を、呼んだ。
「カナ?」
アリアの呟きはユーラの耳には届かなかったのか。
ユーラは空を見上げるアリアに声をかけた。
そろそろ帰ろう、と。
そんな意味の呼びかけだったのだと思う。
――だけど。
「カナ?」
アリアは唐突に、気付いた。
ユーラの呼び方。
自らを『かな』と呼ぶ…呼び方。
「…香菜」
あの女性と、同じ名。
…ユーラは、自らを『花名』ではなく。
『カナ』と、音だけで呼んでいる。
「…カナ?」
そう気付いた瞬間、アリアは走り出した。
「カナ?!」
ユーラの声が背中から聞こえる。
アリアが走り出した方向は、ユーラの家へ向かうものではなかった。
あの日――。
アルスタインが、『還りの場』へといってしまった日。…二度と、会えなくなった日。
ユーラに、『歌を聞かせてくれ』と言われた。…『共にいてくれ』とも。
あの日…ユーラはアリアを『カナ』と呼んだ。
あの日からずっと――アリアを、『カナ』と呼ぶ。
アリアは、ユーラの享名を知らない。それでもいい、と思っていた。
自分が何と呼ぼうが関係ない。…応じてくれるなら。
何と呼ばれようと、構わない。…アリアを示す名前であるなら。
『歌姫』だろうと、『アリア』だろうと…『花名』であろうと。
――自分を、呼んでくれるなら。
全力で走った。
冷風にさらされる耳が痛い。どっどっどっ…と心臓がウルサイ。
…その筈なのに、耳元で心臓の音がする気がする。
心臓があるのは、胸の中じゃないのだろうか。
雪が舞う。今も尚、舞い続ける。ヒラヒラと…桜の花びらのように。
川の音がする…橋の上で、ぐっと腕を引っ張られた。
「…っと…」
荒い呼吸が聞こえる。
「追いつい…た…」
「…ぁ、はぁ、はぁ」
アリア自身もかなり荒い呼吸で、放せともなんとも言えない。
ただでさえ冷風にさらされている頬が、走ることで冷風に叩きつけられ余計にピリピリした。
耳も、痛い。今も、耳元で心臓の音が聞こえる気がする。
冷たい空気の中の荒い呼吸はツライものがあった。
喉の奥で出血したかのように、ちりちりするような感覚がある。
口の中でどこか、血の味がする。
二人は結構な距離を走った。
――なぜユーラから離れ…ユーラの家から離れ。
こちらへ向かったのかアリア自身わからなかったけれど…神殿に向かっていた。
…神殿に、近づいていたのだ。
神殿はいろいろなことをする場所だ。
一生の節目に、神殿にちょこちょこと顔を出さねばならない。
例えば誕生した時。
例えば男女が縁を結んだ時…すなわち、結婚した時。
そして…永眠した時。
大地に還る時。――すなわち、死去した時。
あそこには、アルスタインがいる。…アルスタインが、いる。
「カナ…どうした」
ユーラの、自分を掴む手が。わずかに震えているのを感じた。
…走って疲れたせいであろうか。
「…カナ!!」
半ば叫ぶように…いや、怒鳴るといったほうが正しいか。
ユーラは、アリアに呼びかける。
「花名!」
ユーラの怒鳴り声にアリアも怒鳴り声で応じた。
昨日までに降り積もった雪のおかげで雪明りがあるとはいえ、互いに表情は見えない。
「…呼ぶなら、ちゃんと呼べ」
歌姫と呼ばれる少女の声が、辺りに響いた。
「あたしは、花名だ。…カナじゃない!」
その言葉に、ユーラはピクリと反応する。
「…香菜じゃ、ないっ」
アリアはそう言うと大きく呼吸を繰り返し…ユーラは掴んでいた手を、離した。