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五、享名なまえ

「うぅ…」
 アリアは寒さに身を震わせた。
 風が冷たい。冬なので、当然だが。
 今日の仕事は終了だ。
 アリアは桂屋を出てユーラの家に向かおうと歩き出した。

 頬が冷風にさらされる。
 帽子を被るか耳当てをすればよかったか、と思うが今更遅い。
 アリアは手袋をした手で頬同様、冬の空気にさらされたままの耳を覆う。
 …と。
 アリアの視線の先に見覚えのある男が立っていた。
 それは。
「…ユーラ」
 いるはずがないと思った。
 ユーラが今いるのは、家だろうと。アリアはそう思っていたから。
 アリアの声に気付いたのか、ユーラは軽く手を上げる。
「もしかして桂屋に来てたか?」
 アリアはユーラの元へ走り寄った。
「やっぱり気付いてなかったか」
 アリアの問いかけにユーラはそう答える。
「あれだけ暗いトコじゃ気付けるものも気付けねーよ」
 アリアの言葉に「それもそうか」とユーラは答え、冬の夜空を仰ぐ。
「冬の夜は気持ちいいな」
「そうか? 寒いじゃん」
 アリアは一度手を外した耳にもう一度手を当てる。
「それは、確かにそうだが」
 もう一度、風がふく。
 まるで、それを合図にしたかのように…。

「お?」
 雪が、ヒラヒラと舞いはじめた。
「どーりで寒いと思った!」
 アリアはそう言って空から来る白いものをひとひら、手にしようとする。
 そのひとひらはアリアの手に乗らず、ヒラヒラと地面へ落ちた。
 土に…還った。
 アリアは掴み損なった雪の行方を思い、もう一度空を見上げる。
 『何か』を思った。――それは、雪ではなく。
 薄い雲。夜空。月、星…。
 ヒラヒラと、ヒラヒラと、雪が…空から舞い降りる。
 ヒラヒラと。…ヒラヒラと。
「…桜…」
 思わずもらした呟き。
 意識せず零れた言葉に、アリアはハッとする。
 雪を見て『何か』を思ったのだが…そうか。
 アリアは自分で思った『何か』の正体を、自らの呟きで知る。

 桜。
 舞い散る、桜。
 …そして、散る前に逝ってしまった人を、思ったのだ。
 アリアが掴み損ねた雪のひとひらを。
 ――土に還った、雪のひとひらを。
 今は亡い、アルスタインに重ねたのだ。

 アリアは彼女が逝ってから口にしなかった言葉を、口にした。
 ――ユーラの前で口にしなかった女性ひとの名を、口にした。

「…香菜…」

 自らと同じ音の名を、呼んだ。

「カナ?」
 アリアの呟きはユーラの耳には届かなかったのか。
 ユーラは空を見上げるアリアに声をかけた。
 そろそろ帰ろう、と。
 そんな意味の呼びかけだったのだと思う。
 ――だけど。
「カナ?」

 アリアは唐突に、気付いた。
 ユーラの呼び方。
 自らを『かな』と呼ぶ…呼び方。
「…香菜」
 あの女性ひとと、同じおと
 …ユーラは、自らを『花名』ではなく。
 『カナ』と、音だけで呼んでいる。

「…カナ?」
 そう気付いた瞬間、アリアは走り出した。
「カナ?!」
 ユーラの声が背中から聞こえる。
 アリアが走り出した方向は、ユーラの家へ向かうものではなかった。

 あの日――。
 アルスタインが、『還りの場』へといってしまった日。…二度と、会えなくなった日。
 ユーラに、『歌を聞かせてくれ』と言われた。…『共にいてくれ』とも。
 あの日…ユーラはアリアを『カナ』と呼んだ。
 あの日からずっと――アリアを、『カナ』と呼ぶ。
 アリアは、ユーラの享名を知らない。それでもいい、と思っていた。
 自分が何と呼ぼうが関係ない。…応じてくれるなら。
 何と呼ばれようと、構わない。…アリアを示す名前モノであるなら。
 『歌姫』だろうと、『アリア』だろうと…『花名』であろうと。

 ――自分を、呼んでくれるなら。

 全力で走った。
 冷風にさらされる耳が痛い。どっどっどっ…と心臓がウルサイ。
 …その筈なのに、耳元で心臓の音がする気がする。
 心臓があるのは、胸の中じゃないのだろうか。

 雪が舞う。今も尚、舞い続ける。ヒラヒラと…桜の花びらのように。
 川の音がする…橋の上で、ぐっと腕を引っ張られた。
「…っと…」
 荒い呼吸が聞こえる。
「追いつい…た…」
「…ぁ、はぁ、はぁ」
 アリア自身もかなり荒い呼吸で、放せともなんとも言えない。
 ただでさえ冷風にさらされている頬が、走ることで冷風に叩きつけられ余計にピリピリした。
 耳も、痛い。今も、耳元で心臓の音が聞こえる気がする。
 冷たい空気の中の荒い呼吸はツライものがあった。
 喉の奥で出血したかのように、ちりちりするような感覚がある。
 口の中でどこか、血の味がする。
 二人は結構な距離を走った。

 ――なぜユーラから離れ…ユーラの家から離れ。
 こちらへ向かったのかアリア自身わからなかったけれど…神殿に向かっていた。
 …神殿に、近づいていたのだ。

 神殿はいろいろなことをする場所だ。
 一生の節目に、神殿にちょこちょこと顔を出さねばならない。
 例えば誕生した時。
 例えば男女が縁を結んだ時…すなわち、結婚した時。
 そして…永眠した時。
 大地に還る時。――すなわち、死去した時。

 あそこには、アルスタインがいる。…アルスタインが、いる。
「カナ…どうした」
 ユーラの、自分を掴む手が。わずかに震えているのを感じた。
 …走って疲れたせいであろうか。
「…カナ!!」
 半ば叫ぶように…いや、怒鳴るといったほうが正しいか。
 ユーラは、アリアに呼びかける。
「花名!」
 ユーラの怒鳴り声にアリアも怒鳴り声で応じた。
 昨日までに降り積もった雪のおかげで雪明りがあるとはいえ、互いに表情は見えない。
「…呼ぶなら、ちゃんと呼べ」
 歌姫と呼ばれる少女の声が、辺りに響いた。
「あたしは、花名だ。…カナじゃない!」
 その言葉に、ユーラはピクリと反応する。
「…香菜じゃ、ないっ」
 アリアはそう言うと大きく呼吸を繰り返し…ユーラは掴んでいた手を、離した。

 
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